韓国の小説家で一推しになるかも知れない作家に出会ったような。
現在を未来への散歩の練習ととらえる。
それは過去もすでに現在への迷うような散歩であったのかもしれないし、
現在も散歩することで、
未来へとつながっていく。
過去の中に未来を見る。変な言い方だけど未来を記憶する。
それが私たちにできることであり、私たちがすることであるというより、
していることじゃないのだろうかと
なんだか散歩しながらつぶやいてくるような。
小説は二つの流れで進む。
ひとつは現在と覚しき作家の「私」とチェ・ミョンファンの釜山での交流。
もうひとつは82年に釜山で暮らしていたスミと服役を終えて現れるユンミ姉さん、
それにスミの友人ジョンスンとの82年から現在までの物語。
つながっているのは1982年に起きた「アメリカ文化院放火事件」。
そして、この放火事件は光州事件からつながってきていて、
つまり、現在の韓国社会へと流れてくる民主化運動が
現在から振り返られる。
現在は過去によってあらかじめ夢みられた未来になっている。
その時間のスパンを、そんな時の流れを、小説は独特の距離感で描きだす。
果敢だが無理矢理感がない。
そこにある距離を距離として真摯に見つめる。
迷うようで、明確ではなく断固としたものでなくても、日々に夢みられることを
歩んでいく散歩。
それが釜山をよく歩く登場人物たちの日々の描写から伝わってくる。
龍頭山公園界隈がみごとに立ち現れてくる。また、散歩の文体、散歩の思索が
私たちの毎日の暮らしとやさしく重なってくる。
なんだろう、この読後感は。強く勇気づけられるわけではないのに、
何だか視界がほんのり晴れるような感じがする。
小説は冒頭から結末へ、その結末が冒頭へ繋がるという構成になっている。
小説の中に小説がある入れ子構造かなとも思わせる。
訳者も書いているが原文は独特の文体を持っているのだろう。
訳者が書いている「逡巡」という言葉を遣えば、逡巡しながら文章がリズミカルに進む。
迷いや行き場の予想つかなさが何だか癖になるような心地よさを持っていた。
もう一冊翻訳されている、短編集『もう死んでいる十二人の女たちと』も面白かった。