事態と向き合うとはどういうことだろうか。事態が表現と結びつくとはどういうことだろうか。その時に、詩の言葉は、どうあるのだろう。
と、書きながら、答えなんかないはずだと思う。ただ、そこには、言葉があって、その言葉に反応する読者である自分がいるだけであり、その結果として、そこにあるものが事態と向き合っているのかどうかが判断されるものなのかもしれない。ただ、難しいのは、事態と向き合ったということのみが判断の基準にはならないということだ。と、いうのは読者の立場。
書き手は問いに対する答えを探り出すように表現に向かう。つまり、表現そのものもそこでは、事態なのだから、事態に向きあうということになるのだ。屁理屈をもう少し。で、あれば、読者は表現された言葉に向きあった段階ですでに、事態に向き合っているということになる。そこで、読者は事態とどう向き合うかを迫られるのだ。おそらく、スリリングな表現は、それを迫ってくる。だが、それは読者にとって快感だろうか。快感であればいい。ところが、辛苦を強いる場合もある。その場合、多くの読者は、そこからいなくなる。その境線は極めて個人的なものであり、表現としてはハイリスク・ハイリターンを描きだすものなのかもしれない。あっ、違う。単にハイリスクのみなのかも。ただね、そんなスリルがいいじゃない。
で、杉谷昭人さんの詩集『農場』。杉谷さんは事態との向き合い方で格闘している。その格闘の跡が詩を刻みだしている。あるいは、詩から離れたものの距離に詩が宿っているのかもしれない。ここには、詩が要請する「私」と、そこに立ち得ない「私」の格闘がある。そう、詩は通常あるような詩語を排除するように書かれる。むしろ、事柄を告げるためだけにあるような言葉が出現する。「農場」という題の詩が8篇、冒頭から連なる。それに別の表題の詩5篇を加えて第一部「農場」が作られている。その冒頭の「農場」という詩。
朝いちばんに消毒をした
農場のゲートを四か所まわって
いつものように柵のかんぬきを確かめた
もう牛もトラックも出入りするはずもないのだが
それでも消石灰をたっぷりと撒いた
作者はこのように詩を書き始める。叙事的と考えていいのかもしれない。ただ、困難を伴った表現の冒険は、作者が、口蹄疫が発症し、大量の牛蓋を殺処分にするしかなかった畜産農家の一人として語り始めているところだ。この事態を観察する第三者ではなく当事者に仮託して表現を行っている。ここに叙事のほつれがでる可能性がある。ところが、作者は淡々と事態を告げる口調に徹して、抒情に流れないように言葉を続けていく。途中、8行ほど省略するが、そのあと、詩はこう続く。
そこには私の牛たちが何十頭も眠っている
獣医さんを手伝うには勇気がいった
この手で自分の牛を殺すのだから
抵抗する牛をおさえつけるには力がいった
そのときと同じくらいの力をこめて
私はいま牛たちの墓のまわりにも消石灰を撒く
すべてを失ってなお生きるには勇気がいる
真冬だというのに彼岸花が残っていた
一番列車の汽笛が聞こえてきて
農場のその下には線路が走っていて
そのさらに下は漁港になっていて
そこから先はもう海であった
短い霜柱にふれた消石灰の焼ける匂いがして
足もとの草が一瞬さわいだ
日の出の時刻だった
(「農場」一部省略)
抒情を作者は抑え込もうとしている。そこに詩の中での格闘が宿る。「彼岸花」や「汽笛」、「農場」の下の「漁港」は実際にある風景なのだろう。そして、そこには作者の「故郷」があり、作者の中の「風景」がある。それが、詩情になりたがっている。それを、詩は抑え込もうとする。最後に、それが一瞬滑りだす。「足もとの草が一瞬さわいだ/日の出の時刻だった」。ここに叙事的な表現から逃れ出すように現れた情感のしっぽがある。それが、詩の中の「勇気」という言葉と呼応している。「日の出」の中で静かに日にさらすしかない「勇気」。そんな気持ちが伝わる。
詩は、すべて畜産農家の語りで書かれているわけではない。むしろ時の経過を示すように、農場を訪れた作者の視線での語りの詩が多くなる。この語りの立場の移行は、これらの詩がルポではない表現なのだということを告げている。詩や小説では、人物は様々なものに仮託できるのだ。
例えば、少年の眼差しにたった「農場」という詩がある。これは、時の経過の中で、災厄に対する共同意識として東北の津波との交差を試みた詩だ。
ネムの並木が この道をまっすぐに延びていた もう枝
の先まで伸びきってしまったのだろう 小葉は朝早くか
ら手を合わせたように垂れていた その並木のずっと向
こうに 農場の柵門が見えていた
夏休みになると 私たちは毎朝のように農場に通った
ネムの蔭がゆっくり薄れて明るくなってくると そこに
は朝の光がひろがっていた 牛たちはもう牛舎から出て
牧草を黙々と食べはじめていた
ある朝のこと このネムの並木を農場の牛たちがやって
きた 農場の外に出たのはきっとはじめてだったのだろ
う ゆったりとした足どりで 私たちのムラに入りこん
できた そして大型の家畜運搬トラックが すべての牛
たちを乗せて走り去った
コウテイエキ そういう言葉を私たちは覚えた 父や母
大人たちが流す涙をはじめて見た 村じゅうの牛たちが
消えてから一年になる ネムの並木を誰も往き来しなく
なり また八月がくる 並木の先の空のトンネルだけが
きょうも青くひろがっている
津波で溺れ死んだという北の国の牛たちの影が 農場の
牛といっしょに その空の真中にうっすら映っている
(「農場」全篇)
作者の故郷の風景が詩を支えている。その喪失感が痛い。ネムの「蔭」の実体と、死んだ牛の「影」による不在が伝わってくる。少年の目線が、作者の風景との重なりにとって必要だったのだと思わせる。と同時に、冒頭の詩「農場」との表現の違いが、時間の経過と、詩と非詩との格闘の様を見せているような気がする。
消えてしまった牛たちの農場を綴る詩は、概して観察者である作者の語り口になっているように思う。
で、この詩集の中で、好きだった詩を、あえて、紹介すれば、2010年2月に発表されたと記されている「分校跡・八月」という詩。書き抜くのが難しいのだが、
向井潤吉がこの分校跡を訪ねていたら
八月の光が山の斜面を駆け下ってきて
校庭の銀杏の葉に青く染み入っていくその瞬間を
寸分の狂いもなく描き取っていただろう
いまは芝だけがわずかに残る校庭の
ブランコの柱についたこどもたちの手の汗の跡を
そっと一筆描きそえていただろう
しかし銀杏の樹の根元にそのままの
野うさぎの巣には気付かなかっただろう
風はそれほどおだやかに吹いていたから
画伯はその絵筆にこの廃校の寂しさだけを記憶させて
北のアトリエに帰っていっただろう
これが第一連。いいなと思う。そして第二連、
西脇順三郎がこの古びた校舎の端に立って
見下ろす渓流に映る積乱雲を眺めていたら
そのあまりにも単純な揺曳に目をとめて
ー汝は汝の村へ帰れ
郷里の崖を祝福せよ
同じようにそう歌っていただろう
山峡の寂しさはいつも勤勉で
早稲を刈る手順もムラの家ではみな変わらず
ただ水面に映るものだけが絶えず不安気に揺れていた
鶏小屋のなかには昼間から時を作るぼんやりがいて
詩人はムラの夜明けを予感している自分に気付いて
その感違いに思わず赤面していただろう
第二連。さらにいいなと思う。詩は詩のなかで考える。西脇は、疎開して実は故郷というものの風景に接したのかもしれない。それが、むしろ近代というものの寓話を生みだし、帰還しえないユリシーズを描きだしたのかもしれない。ボクらには故郷はないと、言い切れる、あるいは言わざるをえない現代のなかで、迷路は常にそこにあり、それに対して、杉谷さんの詩は、示される故郷の風景を迷路のなかに浮かびあがらせようとする。最終蓮の第三連。
このムラの一日は単純に一日だった
すべての夢は分校の床下にかくれていた
わたしは画伯や詩人に何年遅れてここに到着したのだろう
校門の木柱にはもはやこどもたちの記憶もなかったが
八月の光はたしかにそこにあった
校庭の上を抜ける村道に一度だけ軽トラックが過ぎていって
それだけがきょうの風であった
銀杏、山桃、山栗などすべての樹が
もうだれも利用しなくなった木蔭をつくっていた
しかし大切なもののかたちはいつも見えない
記憶すべきものはいつも揺らいでいる
それだけがいつもの夏と同じだった
(「分校跡・八月」全篇)
途中抜きができず、結局全篇引用したが、揺らぐ八月の光が、揺らぎながらも見せているものがある。それは、消えていくものであって、消えないものでもあるのだ。言葉が、そこにある。
母はわたしにイノシシ語で語った
わたしがイノシシ年だったから
と書き始められる「五月の帰郷」も好きな詩だった。
と、書きながら、答えなんかないはずだと思う。ただ、そこには、言葉があって、その言葉に反応する読者である自分がいるだけであり、その結果として、そこにあるものが事態と向き合っているのかどうかが判断されるものなのかもしれない。ただ、難しいのは、事態と向き合ったということのみが判断の基準にはならないということだ。と、いうのは読者の立場。
書き手は問いに対する答えを探り出すように表現に向かう。つまり、表現そのものもそこでは、事態なのだから、事態に向きあうということになるのだ。屁理屈をもう少し。で、あれば、読者は表現された言葉に向きあった段階ですでに、事態に向き合っているということになる。そこで、読者は事態とどう向き合うかを迫られるのだ。おそらく、スリリングな表現は、それを迫ってくる。だが、それは読者にとって快感だろうか。快感であればいい。ところが、辛苦を強いる場合もある。その場合、多くの読者は、そこからいなくなる。その境線は極めて個人的なものであり、表現としてはハイリスク・ハイリターンを描きだすものなのかもしれない。あっ、違う。単にハイリスクのみなのかも。ただね、そんなスリルがいいじゃない。
で、杉谷昭人さんの詩集『農場』。杉谷さんは事態との向き合い方で格闘している。その格闘の跡が詩を刻みだしている。あるいは、詩から離れたものの距離に詩が宿っているのかもしれない。ここには、詩が要請する「私」と、そこに立ち得ない「私」の格闘がある。そう、詩は通常あるような詩語を排除するように書かれる。むしろ、事柄を告げるためだけにあるような言葉が出現する。「農場」という題の詩が8篇、冒頭から連なる。それに別の表題の詩5篇を加えて第一部「農場」が作られている。その冒頭の「農場」という詩。
朝いちばんに消毒をした
農場のゲートを四か所まわって
いつものように柵のかんぬきを確かめた
もう牛もトラックも出入りするはずもないのだが
それでも消石灰をたっぷりと撒いた
作者はこのように詩を書き始める。叙事的と考えていいのかもしれない。ただ、困難を伴った表現の冒険は、作者が、口蹄疫が発症し、大量の牛蓋を殺処分にするしかなかった畜産農家の一人として語り始めているところだ。この事態を観察する第三者ではなく当事者に仮託して表現を行っている。ここに叙事のほつれがでる可能性がある。ところが、作者は淡々と事態を告げる口調に徹して、抒情に流れないように言葉を続けていく。途中、8行ほど省略するが、そのあと、詩はこう続く。
そこには私の牛たちが何十頭も眠っている
獣医さんを手伝うには勇気がいった
この手で自分の牛を殺すのだから
抵抗する牛をおさえつけるには力がいった
そのときと同じくらいの力をこめて
私はいま牛たちの墓のまわりにも消石灰を撒く
すべてを失ってなお生きるには勇気がいる
真冬だというのに彼岸花が残っていた
一番列車の汽笛が聞こえてきて
農場のその下には線路が走っていて
そのさらに下は漁港になっていて
そこから先はもう海であった
短い霜柱にふれた消石灰の焼ける匂いがして
足もとの草が一瞬さわいだ
日の出の時刻だった
(「農場」一部省略)
抒情を作者は抑え込もうとしている。そこに詩の中での格闘が宿る。「彼岸花」や「汽笛」、「農場」の下の「漁港」は実際にある風景なのだろう。そして、そこには作者の「故郷」があり、作者の中の「風景」がある。それが、詩情になりたがっている。それを、詩は抑え込もうとする。最後に、それが一瞬滑りだす。「足もとの草が一瞬さわいだ/日の出の時刻だった」。ここに叙事的な表現から逃れ出すように現れた情感のしっぽがある。それが、詩の中の「勇気」という言葉と呼応している。「日の出」の中で静かに日にさらすしかない「勇気」。そんな気持ちが伝わる。
詩は、すべて畜産農家の語りで書かれているわけではない。むしろ時の経過を示すように、農場を訪れた作者の視線での語りの詩が多くなる。この語りの立場の移行は、これらの詩がルポではない表現なのだということを告げている。詩や小説では、人物は様々なものに仮託できるのだ。
例えば、少年の眼差しにたった「農場」という詩がある。これは、時の経過の中で、災厄に対する共同意識として東北の津波との交差を試みた詩だ。
ネムの並木が この道をまっすぐに延びていた もう枝
の先まで伸びきってしまったのだろう 小葉は朝早くか
ら手を合わせたように垂れていた その並木のずっと向
こうに 農場の柵門が見えていた
夏休みになると 私たちは毎朝のように農場に通った
ネムの蔭がゆっくり薄れて明るくなってくると そこに
は朝の光がひろがっていた 牛たちはもう牛舎から出て
牧草を黙々と食べはじめていた
ある朝のこと このネムの並木を農場の牛たちがやって
きた 農場の外に出たのはきっとはじめてだったのだろ
う ゆったりとした足どりで 私たちのムラに入りこん
できた そして大型の家畜運搬トラックが すべての牛
たちを乗せて走り去った
コウテイエキ そういう言葉を私たちは覚えた 父や母
大人たちが流す涙をはじめて見た 村じゅうの牛たちが
消えてから一年になる ネムの並木を誰も往き来しなく
なり また八月がくる 並木の先の空のトンネルだけが
きょうも青くひろがっている
津波で溺れ死んだという北の国の牛たちの影が 農場の
牛といっしょに その空の真中にうっすら映っている
(「農場」全篇)
作者の故郷の風景が詩を支えている。その喪失感が痛い。ネムの「蔭」の実体と、死んだ牛の「影」による不在が伝わってくる。少年の目線が、作者の風景との重なりにとって必要だったのだと思わせる。と同時に、冒頭の詩「農場」との表現の違いが、時間の経過と、詩と非詩との格闘の様を見せているような気がする。
消えてしまった牛たちの農場を綴る詩は、概して観察者である作者の語り口になっているように思う。
で、この詩集の中で、好きだった詩を、あえて、紹介すれば、2010年2月に発表されたと記されている「分校跡・八月」という詩。書き抜くのが難しいのだが、
向井潤吉がこの分校跡を訪ねていたら
八月の光が山の斜面を駆け下ってきて
校庭の銀杏の葉に青く染み入っていくその瞬間を
寸分の狂いもなく描き取っていただろう
いまは芝だけがわずかに残る校庭の
ブランコの柱についたこどもたちの手の汗の跡を
そっと一筆描きそえていただろう
しかし銀杏の樹の根元にそのままの
野うさぎの巣には気付かなかっただろう
風はそれほどおだやかに吹いていたから
画伯はその絵筆にこの廃校の寂しさだけを記憶させて
北のアトリエに帰っていっただろう
これが第一連。いいなと思う。そして第二連、
西脇順三郎がこの古びた校舎の端に立って
見下ろす渓流に映る積乱雲を眺めていたら
そのあまりにも単純な揺曳に目をとめて
ー汝は汝の村へ帰れ
郷里の崖を祝福せよ
同じようにそう歌っていただろう
山峡の寂しさはいつも勤勉で
早稲を刈る手順もムラの家ではみな変わらず
ただ水面に映るものだけが絶えず不安気に揺れていた
鶏小屋のなかには昼間から時を作るぼんやりがいて
詩人はムラの夜明けを予感している自分に気付いて
その感違いに思わず赤面していただろう
第二連。さらにいいなと思う。詩は詩のなかで考える。西脇は、疎開して実は故郷というものの風景に接したのかもしれない。それが、むしろ近代というものの寓話を生みだし、帰還しえないユリシーズを描きだしたのかもしれない。ボクらには故郷はないと、言い切れる、あるいは言わざるをえない現代のなかで、迷路は常にそこにあり、それに対して、杉谷さんの詩は、示される故郷の風景を迷路のなかに浮かびあがらせようとする。最終蓮の第三連。
このムラの一日は単純に一日だった
すべての夢は分校の床下にかくれていた
わたしは画伯や詩人に何年遅れてここに到着したのだろう
校門の木柱にはもはやこどもたちの記憶もなかったが
八月の光はたしかにそこにあった
校庭の上を抜ける村道に一度だけ軽トラックが過ぎていって
それだけがきょうの風であった
銀杏、山桃、山栗などすべての樹が
もうだれも利用しなくなった木蔭をつくっていた
しかし大切なもののかたちはいつも見えない
記憶すべきものはいつも揺らいでいる
それだけがいつもの夏と同じだった
(「分校跡・八月」全篇)
途中抜きができず、結局全篇引用したが、揺らぐ八月の光が、揺らぎながらも見せているものがある。それは、消えていくものであって、消えないものでもあるのだ。言葉が、そこにある。
母はわたしにイノシシ語で語った
わたしがイノシシ年だったから
と書き始められる「五月の帰郷」も好きな詩だった。