○○ワールドという言い方があって、その人が描きだした世界が異世界である場合や、その人独自の世界観が示されたときによく使われる。
中井さんの詩も、帯書きにもあるように中井ワールドと呼ばれるものだろう。読み始めるとすぐに、どこか別の場所に連れていかれる。
そして、あるものとないものがふいと入れ替わり、あるはずがないものが、ないはずがないじゃないかになって、どこかにぽいと置いてけぼりに
される。でも、それは突き放されるわけではなく、その感じが懐かしく、だが、どこかさびしく、そして、少しこわいような残酷さもあるのだ。
中井ワールドでは、つながっていないものはない。でも、それぞれが抱えている名状しがたい孤独な感じは、つながりのなかにだって漂っている。
だから、区別はないのだけれど、その往き来の先には、もう戻れないような、もうたどり着けないような場所があり、そこへとことばは延びていく。
そのことばは、不思議を不思議と感じさせない、親和力があって、ボクらをつまずかせずに、とぼとぼと歩かせてくれる。あれっと気づいたときには、
そう中井ワールドにいるのだ。
詩集巻頭の詩「しっぽ」
歩道に
毛並みのいい尻尾が
一つおちている
人はそっとよけて通る
犬のか
振りすぎたか
おとしたこと
知らずに
どこを走っている
太すぎるな
キツネか
キツネも
うれしいと
尻尾を振るのか
尻尾を振っているときの
さびしさってあるよな
さびしさに気づいたら
もっと
さびしくなって
尻尾になってしまったか
尻尾はわたしか
(「しっぽ」全篇)
そう、何かさびしかったりすると、「尻尾になったか」とか口ずさみそうだ。
他にも「枇杷の木」。これは少しというか、かなりこわい。導入部分だけ引く。
庭の隅に
日暮れの明かりのように
枇杷の実が
たわわになっていた
とじこめている甘さが
地に落ちると
夕日が小さくなっていく
弟は
呼ばれたように
木によじのぼっていった
残った影が闇に消された
あれから
二日三日たっても
帰ってこない
(「枇杷の木」冒頭から第三連まで)
で、このあと展開はこわい方向にいくのだが、それが何だか懐かしいのだ。これは、それこそ坂口安吾の「文学のふるさと」の世界。
誘われるように通路をすすめば、いたみも含めた情感の中に入りこみ、それがとてもここちよい。