この不安な感じと不穏な感じ。イメージと思念のぶつかりあい、融合。分裂と自在さの戯れ。疲労と反逆の揺れ。冒険と冒険の不可能。時間の取り戻せなさと掴み切れなさへの悔悟と逆転した諦観。私であることと私がないことの往還。悲哀、郷愁、そしてアイロニー。断章は断章となって、完結と完成をすり抜けていき、作品の陥穽を避けながら、読者を断章の陥穽に落とし込める。そこに心地よさもあるのだ。
「でも、あなたといるとぼくは不安でたまらない。そう、それなんだ、あなたはぼくを不安におとしいれるんです。そのとおりだよ、食事相手はうなずいた。わたしといると最後はだれもがそうなのさ。だけどね、そもそも文学の役割とはそこにあるのだと思わないかい? ひとの不安をかきたてることだとは? わたしに言わせれば、ひとの意識を慰撫するような文学などは信用できない。」
タブッキの『レクイエム』、食事相手との会話場面である。この食事相手ペソアの遺した膨大な断章から編まれたのが本書だ。
様々な人格を作って、詩を創作したペソア。この『不穏の書』はリスボンの会計助手であるベルナルド・ソアレスの手記として書かれている。訳者の澤田直は、ソアレスはペソアの「文学的分身」であると書いている。「分身」そのものが私の複数性とどこまでいっても私から逃れられない倦怠を示す重要な装置になっている。
複数化する私。「私は思考によって自分を、残響(エコー)に、深淵に創りかえた。私は自分を深めながら、複数になってゆく。」(『不穏の書』6)それは、他者を抱えこみ、他者を生みだし、「私は自分自身であることのうちでさえ、他人なのだ。」(『不穏の書』6)ということであり、「創造するために、私は自分を破壊した。自分のなかで、こんなにも私を外化したので、もはや内部さえも外的にしか存在しない。私は、俳優たちが通過し、さまざま芝居を演じる生きた舞台なのだ。」(『不穏の書』7)そして、「私とは、わたしとわたし自身とのあいだのこの間である。」(『断章』34)と書かれ、さらに、表紙の文字にもなっている「もうずいぶんまえから、私は私ではない」(『不穏の書』40)という断章が現れる。
一方、倦怠は、「倦怠とは、疲労だが、それは昨日の疲労とか今日の疲労ではなく、明日の疲労、そして、もし永遠が存在するのなら、永遠の疲労、あるいは、永遠が虚無のことだとすれば、虚無の疲労である。」(『不穏の書』65)や、「倦怠とは、混沌を身体的に感覚することであり、混沌がすべてであるという感覚だ。」と、世界と時間のただ中にある人の逃れがたさを捉えながら、「ああ、しかし、倦怠とは、そのことなのだ。たんにそのことなのだ。存在するあらゆるもの、空や大地や宇宙、すべてのうちには、私しかない、ということなのだ。」と、「諦念」を語ると同時に私を複数化していく創作への動機付けも語りだしていく。
手記の見せる様々な様相に、ぼくらは思念が文学へ飛翔するのを見ることができる。その姿は、「螺旋とは、つねに自己を二重化し、けっして自己を実現することなく昇ってゆく潜在的な円である、と言えよう。」(『不穏の書』87)と書かれる手記の断章そのままの構図を作りながら、「われわれのどんな印象もひとに伝えることはできない。印象を文学にするときのみ、伝達が可能になるのだ。」(『不穏の書87』)と書き込まれた文章をも実践しているのだ。
澤田直がロラン・バルトを引いた、作品とテクストの違いに関するあとがきでの寸評やベンヤミンの引用が、この本との向き合い方を自由にしてくれる感じがあった。
タブッキの『レクイエム』の、多くの人物との出会いが小説を作っていく構造が、「郷愁。それが私の感じたものだった。私にとってなにものでもなかったものにさえ、時間の流れの前で感じる不安や、生の神秘の前で感じる病のために感じるのだ。私が自分のいつもの街で毎日眺めてきた様々な顔それらが見えなくなると、こんなふうに悲しくなる。彼らは私にとってなにものであったこともないのだが、人生全体の象徴であるのだ。」(『不穏の書』15)という部分に重なったりする。タブッキは、ペソアを活かしているのだ。
「でも、あなたといるとぼくは不安でたまらない。そう、それなんだ、あなたはぼくを不安におとしいれるんです。そのとおりだよ、食事相手はうなずいた。わたしといると最後はだれもがそうなのさ。だけどね、そもそも文学の役割とはそこにあるのだと思わないかい? ひとの不安をかきたてることだとは? わたしに言わせれば、ひとの意識を慰撫するような文学などは信用できない。」
タブッキの『レクイエム』、食事相手との会話場面である。この食事相手ペソアの遺した膨大な断章から編まれたのが本書だ。
様々な人格を作って、詩を創作したペソア。この『不穏の書』はリスボンの会計助手であるベルナルド・ソアレスの手記として書かれている。訳者の澤田直は、ソアレスはペソアの「文学的分身」であると書いている。「分身」そのものが私の複数性とどこまでいっても私から逃れられない倦怠を示す重要な装置になっている。
複数化する私。「私は思考によって自分を、残響(エコー)に、深淵に創りかえた。私は自分を深めながら、複数になってゆく。」(『不穏の書』6)それは、他者を抱えこみ、他者を生みだし、「私は自分自身であることのうちでさえ、他人なのだ。」(『不穏の書』6)ということであり、「創造するために、私は自分を破壊した。自分のなかで、こんなにも私を外化したので、もはや内部さえも外的にしか存在しない。私は、俳優たちが通過し、さまざま芝居を演じる生きた舞台なのだ。」(『不穏の書』7)そして、「私とは、わたしとわたし自身とのあいだのこの間である。」(『断章』34)と書かれ、さらに、表紙の文字にもなっている「もうずいぶんまえから、私は私ではない」(『不穏の書』40)という断章が現れる。
一方、倦怠は、「倦怠とは、疲労だが、それは昨日の疲労とか今日の疲労ではなく、明日の疲労、そして、もし永遠が存在するのなら、永遠の疲労、あるいは、永遠が虚無のことだとすれば、虚無の疲労である。」(『不穏の書』65)や、「倦怠とは、混沌を身体的に感覚することであり、混沌がすべてであるという感覚だ。」と、世界と時間のただ中にある人の逃れがたさを捉えながら、「ああ、しかし、倦怠とは、そのことなのだ。たんにそのことなのだ。存在するあらゆるもの、空や大地や宇宙、すべてのうちには、私しかない、ということなのだ。」と、「諦念」を語ると同時に私を複数化していく創作への動機付けも語りだしていく。
手記の見せる様々な様相に、ぼくらは思念が文学へ飛翔するのを見ることができる。その姿は、「螺旋とは、つねに自己を二重化し、けっして自己を実現することなく昇ってゆく潜在的な円である、と言えよう。」(『不穏の書』87)と書かれる手記の断章そのままの構図を作りながら、「われわれのどんな印象もひとに伝えることはできない。印象を文学にするときのみ、伝達が可能になるのだ。」(『不穏の書87』)と書き込まれた文章をも実践しているのだ。
澤田直がロラン・バルトを引いた、作品とテクストの違いに関するあとがきでの寸評やベンヤミンの引用が、この本との向き合い方を自由にしてくれる感じがあった。
タブッキの『レクイエム』の、多くの人物との出会いが小説を作っていく構造が、「郷愁。それが私の感じたものだった。私にとってなにものでもなかったものにさえ、時間の流れの前で感じる不安や、生の神秘の前で感じる病のために感じるのだ。私が自分のいつもの街で毎日眺めてきた様々な顔それらが見えなくなると、こんなふうに悲しくなる。彼らは私にとってなにものであったこともないのだが、人生全体の象徴であるのだ。」(『不穏の書』15)という部分に重なったりする。タブッキは、ペソアを活かしているのだ。