パオと高床

あこがれの移動と定住

フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』澤田直訳編(思潮社)

2008-04-26 06:46:02 | 海外・エッセイ・評論
この不安な感じと不穏な感じ。イメージと思念のぶつかりあい、融合。分裂と自在さの戯れ。疲労と反逆の揺れ。冒険と冒険の不可能。時間の取り戻せなさと掴み切れなさへの悔悟と逆転した諦観。私であることと私がないことの往還。悲哀、郷愁、そしてアイロニー。断章は断章となって、完結と完成をすり抜けていき、作品の陥穽を避けながら、読者を断章の陥穽に落とし込める。そこに心地よさもあるのだ。

「でも、あなたといるとぼくは不安でたまらない。そう、それなんだ、あなたはぼくを不安におとしいれるんです。そのとおりだよ、食事相手はうなずいた。わたしといると最後はだれもがそうなのさ。だけどね、そもそも文学の役割とはそこにあるのだと思わないかい? ひとの不安をかきたてることだとは? わたしに言わせれば、ひとの意識を慰撫するような文学などは信用できない。」
タブッキの『レクイエム』、食事相手との会話場面である。この食事相手ペソアの遺した膨大な断章から編まれたのが本書だ。

様々な人格を作って、詩を創作したペソア。この『不穏の書』はリスボンの会計助手であるベルナルド・ソアレスの手記として書かれている。訳者の澤田直は、ソアレスはペソアの「文学的分身」であると書いている。「分身」そのものが私の複数性とどこまでいっても私から逃れられない倦怠を示す重要な装置になっている。

複数化する私。「私は思考によって自分を、残響(エコー)に、深淵に創りかえた。私は自分を深めながら、複数になってゆく。」(『不穏の書』6)それは、他者を抱えこみ、他者を生みだし、「私は自分自身であることのうちでさえ、他人なのだ。」(『不穏の書』6)ということであり、「創造するために、私は自分を破壊した。自分のなかで、こんなにも私を外化したので、もはや内部さえも外的にしか存在しない。私は、俳優たちが通過し、さまざま芝居を演じる生きた舞台なのだ。」(『不穏の書』7)そして、「私とは、わたしとわたし自身とのあいだのこの間である。」(『断章』34)と書かれ、さらに、表紙の文字にもなっている「もうずいぶんまえから、私は私ではない」(『不穏の書』40)という断章が現れる。
一方、倦怠は、「倦怠とは、疲労だが、それは昨日の疲労とか今日の疲労ではなく、明日の疲労、そして、もし永遠が存在するのなら、永遠の疲労、あるいは、永遠が虚無のことだとすれば、虚無の疲労である。」(『不穏の書』65)や、「倦怠とは、混沌を身体的に感覚することであり、混沌がすべてであるという感覚だ。」と、世界と時間のただ中にある人の逃れがたさを捉えながら、「ああ、しかし、倦怠とは、そのことなのだ。たんにそのことなのだ。存在するあらゆるもの、空や大地や宇宙、すべてのうちには、私しかない、ということなのだ。」と、「諦念」を語ると同時に私を複数化していく創作への動機付けも語りだしていく。

手記の見せる様々な様相に、ぼくらは思念が文学へ飛翔するのを見ることができる。その姿は、「螺旋とは、つねに自己を二重化し、けっして自己を実現することなく昇ってゆく潜在的な円である、と言えよう。」(『不穏の書』87)と書かれる手記の断章そのままの構図を作りながら、「われわれのどんな印象もひとに伝えることはできない。印象を文学にするときのみ、伝達が可能になるのだ。」(『不穏の書87』)と書き込まれた文章をも実践しているのだ。

澤田直がロラン・バルトを引いた、作品とテクストの違いに関するあとがきでの寸評やベンヤミンの引用が、この本との向き合い方を自由にしてくれる感じがあった。

タブッキの『レクイエム』の、多くの人物との出会いが小説を作っていく構造が、「郷愁。それが私の感じたものだった。私にとってなにものでもなかったものにさえ、時間の流れの前で感じる不安や、生の神秘の前で感じる病のために感じるのだ。私が自分のいつもの街で毎日眺めてきた様々な顔それらが見えなくなると、こんなふうに悲しくなる。彼らは私にとってなにものであったこともないのだが、人生全体の象徴であるのだ。」(『不穏の書』15)という部分に重なったりする。タブッキは、ペソアを活かしているのだ。



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アントニオ・タブッキ『レクイエム』鈴木昭裕訳(白水社)

2008-04-22 11:41:56 | 海外・小説
タブッキの名前を知ったのは須賀敦子さんの文章を読んでだった。『インド夜想曲』の追求のドラマは、謎の面白さと幻想的な空気の心地よさに包まれて、現実から逸脱していく旅に連れて行かれた。

『レクイエム』でも、その雰囲気を味わうことができた。行ったことのないリスボンの街を主人公と共に移動しながら、死者たちと出合っていく。死者たちは主人公と会話する。会話は地の文と一体となりながら、会話と地の文の境界もなくし、小説全体が主人公の移動と死者との対話によって成立する。死者の影を帯びながら、死者たちの持つリアルな感じ。わたしは彼らとの対話を違和感なく果たしながら、そこには取り戻せない時が存在している。レクイエムである。そして、中心はタブッキが敬愛する詩人ベソアとの出会いと食事の場面である。不思議なレストランでの不思議な食事を交えながらの文学談義に、ペソアへの批評をひそませる。何ておしゃれなんだ。そして、ペソアその人を小説家タブッキが語るために取ったこの小説自体が、ポルトガルの詩人への見事なオマージュになっている。詩人への小説家の返歌のような美しい小説だ。

小説で出合う多くの人の一覧や食事一覧が、読書を助ける。と同時に、主人公の旅の幻想性が、夢の持つリアリティで支えられているような気がした。ここでも、異界は現実と共にあるのだ。ただし、それは異界としてなのだ。

ラストが胸に沁みる。



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エイミー・ベンダー『わがままなやつら』管啓次郎訳(角川書店)

2008-04-17 11:37:20 | 海外・小説
収録短編「マザーファッカー」の中の一節。
「〈これがおまえの欲望の家〉と彼は自分にむかってつぶやき、両目を閉じると、内側で待っていた愛しさの奔流はあまりに激しくて彼は自分が溺れるかもしれないと思った。」
ちょっと恥ずかしいけど、この一節の後半が、そのまま、この本の読後感かもしれない。何だか、様々な感情が、気分が、内側から溢れてくるようで、「ここにしかない、それは奇跡的な世界」という紹介文がそのまま直に心に入る。淡々と書かれた短い15の小説たち。寓話のようで、しかも特定の意味に還元されない寓話のようで、直接心に触れてくる。怖さや残酷さや痛さや哀しさや優しさが、話の端々に隠れていて、それがボクらの心の襞の奥に隠れている同じ感情にふわっと触れるのだ。その瞬間、「薔薇の黄色い花びらの上に完璧にちょこんと載っている、リボンのついた小さな黄色い帽子」(「終点」)を見つけるのだ。

想像力溢れる小説たち。
医者と死を宣告された十人の男たちとの物語「死を見守る」
小さな男を飼う大きな男のお話「終点」
パーティで三人の男とキスすることを目標にした少女の話「オフ」
マーザーファッカーと新人女優の恋物語「マザーファッカー」
単語を売る店でのいさかいを綴る「果物と単語」
カボチャ頭のカップルに生まれたアイロン頭の男の子のお話「アイロン頭」
問えない神様の指示に従う「ジョブの仕事」
捨てても捨てても戻ってくる七つのじゃがいもの成長物語「飢饉」
塩胡椒シェイカーから夫婦の死を物語る「塩胡椒シェイカー殺人事件」
右手の小指を除いて、指が鍵になっている少年が九つの扉を探す話「主役」
など。短いどれもが、鮮やかで、愛おしい。

他の人のブログから、この作家に出会うことができた。出会えてよかったと思える一冊だった。ひそかに感謝。



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九州交響楽団がんばってる

2008-04-17 02:13:30 | 雑感
九州交響楽団のコンサートに行く。秋山和慶指揮で、リヒャルト・シュトラウス・プログラム。「メジャーへのステップ」と名打った意欲的なコンサートだった。後期ロマン派の編成は、ホント大編成で、コンサートホールで音を鳴らされたら、その迫力に体がのけ反る感じだ。演奏、なかなかよくって、楽しめた演奏会だった。九響、がんばれ。
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夏目漱石『彼岸過迄』(新潮文庫)

2008-04-15 02:49:06 | 国内・小説
肥大化していく自意識は人を幸福にするのだろうか不幸にするのだろうか。自意識は自意識自体を支え囲い込まなければならない。そのことにすでに不幸は宿っている。しかし、自意識が人であることの尊厳を支えているとも言えるだろう。

近代の知識人が抱えこんだ自意識が圧力となって登場人物を襲う。小説は短編連作の構成を取りながら、「須永の話」を中心に持っている。行動し得ない内向的性格の須永は自意識に取り囲まれている。「私」を「私」が解析していく近代人の悲劇を生きている。彼は「恐れる男」であり、千代子という「恐れない女」に引かれながら向かえないでいる。一方、千代子は恐れることなく自ら行動しながら、優柔不断な須永に惹かれながらもいらだち、その態度に「卑怯」を感じてしまう。この二人の恋愛感情の交差に、自意識が作りだした漱石の三角関係が形作られる。漱石は三角関係の追求の図式を繰り返す。そこに人が人を追う関係のドラマを見る。さらに、須永の思考の根に母子関係を重ねて、須永の心が起動する原因にアプローチする。小林秀雄は『私小説論』でジイドを論じて自意識の「実験室」という表現を使っていたが、漱石も時代の中にあって近代の自意識の問題点を摘出してみせるのだ。

夏目漱石は面白い。何が面白いのだろう。劇的な起伏があるわけじゃない。しかし、描かれている人物の心の起伏は面白い。その行動する場所が明治という時代を描き出しているようで面白い。まじめが、真面目に突っ込んでいく様が、客観的なおかしみを誘ったりもする。このへんが、宮藤官九郎が昼のドラマに漱石を持ってきて『我が輩は主婦である』を作ったりするおかしみだと思ったりもする。実際この小説でも敬太郎がゴム林の経営者になりたいと妄想する場面など笑えるし、ステッキに導かれる様や占いの場面なども吹きだしてしまう。そして英訳体のような文体と江戸っ子のような口語と漢語に訓読をつけた言い回しの混ざる文章の活きのよさ。分析の客観性と距離感の心地よさ。これらが、思いつく漱石の面白さのいくつかだ。

この小説は敬太郎を狂言回しのように使うことで、語りに工夫がされている。作者が直接語るのではなく、また、登場人物を「私」にして語らせるのではなく、敬太郎という小説の人物を使って、その敬太郎の交流によって、ドラマを作るという構成になっているのだ。自然主義的なもの私小説的なものと距離を置く創作者の企みが見てとれる。その人物は探偵のような行為をする。探偵であり、傍観者である。都市に生まれたそんな行為。都市にあって都市の人々を観察し、想像を膨らませる。そのまま、江戸川乱歩や萩原朔太郎の探偵という言葉が思い出される詩に繋がっていくようだ。小説は追求である。そう考えれば、追求の図式が、作者から敬太郎を通して、その他の登場人物へという流れに活かされているのだ。
いくつかの短編のようにして数人の人物のエピソードや思考を語る方法や、また、後半、「須永の話」や「松本の話」で、違う「僕」を使っていくつかの語りを呈示した方法や、手紙を使って別の「僕」を介入させる方法など、実はポリフォニックな手法を使っているのだ。

制度の中で生きる女性の中に、千代子や『三四郎』の美禰子のように、近代精神の脆弱さを糾弾してくる精神のあり方を作り出しながら、また、彼女たちも結局、封建的な制度の中に取り込まれてしまう姿も一方で描きながら、知識人の苦悩を語る漱石に自意識の流れはどう映っていたのだろうか。その戦いは『行人』や『こころ』につながっていくのだろう。

「写生文」や「遊民」や「探偵」という言葉を使いながら書かれている柄谷行人の平成二年の解説もなかなかいい。



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