朝日新聞2月27日土曜日朝刊に、吉田秀和の「音楽展望」が載っていた。ショパン生誕二百年に関するエッセイ。吉田は「~かしら」という吉田節を使いながら、ショパン弾きへの思いを綴っていた。サンソン・フランソワの「威勢の良いショパン」から、ルービンシュタイン、アシュケナージ、ギレリス、ホロヴィッツそしてリヒテル。さらにグード。僕はグードは知らない。で、アルゲリッチと続く。この優れた演奏家たちに対する吉田秀和の一言。エッセイの基本ラインは、彼らとショパンとの対話に対する、吉田秀和の対話なのだ。吉田秀和には彼がスコアから湧きだし導き出したショパンがいる。それを、実際に音を立ち上げる演奏家のショパンと交錯させていく。対話が対話を生み出していく美学空間の心地よさ。音楽批評の愉しさの、ある部分は、そこにある。
で、ちょうど、吉田のエッセイ『物には決ったよさはなく…』をぱらぱらと読む。最近、なんだかいつもぱらぱら読書だ。
「読書というのは、同じ本を何度も読みかえすことを指すのであって、初めて読むのは読書のうちに入らない」
という一文があった。
若い時の何でも読み、しかもそれが「精神の糧」になる読書とは違って、という但し書きがあっての文なのだが、ああ、こう言われれば、僕はどれだけ読書のうちに入らない読書をくり返しているのだろうと思ってしまう。
吉田秀和の話はとてもわかる。そう、物には決まったよさはないのだ。ただ一度が、何度もになったときに、ボクらは、その作品からどれだけ多くの、それまで気づかなかった新しい発見を見出すことだろうか。吉田はセザンヌの絵とベートーヴェンの楽譜を引いている。彼はこの二人に「美」から「美」という「真実」へと繋がっていく感動の連なりを見る。それは「何回も出入りした場所のはずだが、ちっとも色褪せず、古くさくなっていないどころか、どうしてももっと奥深くまでゆきたいという気を、私に起こさせる。」
ボクらはどこまでも関係の直接性を紡ぎ取っていくのだ。そこにしか感動の現場はないんじゃないのか。対象のリアル、疑似リアルとは別の話として。
ショパン弾きの話だが、僕は実はポリーニが好きだった。朝日の「音楽展望」に彼の名前が無かったのが、ちょっと残念。音楽を聴くことも、本を読むことも、何度でも繰り返されて、その一回性を何度でも味わっていけるというウソのようなホントを可能にするということにおいて、実は享楽的、素敵な快楽なのだ。
で、ちょうど、吉田のエッセイ『物には決ったよさはなく…』をぱらぱらと読む。最近、なんだかいつもぱらぱら読書だ。
「読書というのは、同じ本を何度も読みかえすことを指すのであって、初めて読むのは読書のうちに入らない」
という一文があった。
若い時の何でも読み、しかもそれが「精神の糧」になる読書とは違って、という但し書きがあっての文なのだが、ああ、こう言われれば、僕はどれだけ読書のうちに入らない読書をくり返しているのだろうと思ってしまう。
吉田秀和の話はとてもわかる。そう、物には決まったよさはないのだ。ただ一度が、何度もになったときに、ボクらは、その作品からどれだけ多くの、それまで気づかなかった新しい発見を見出すことだろうか。吉田はセザンヌの絵とベートーヴェンの楽譜を引いている。彼はこの二人に「美」から「美」という「真実」へと繋がっていく感動の連なりを見る。それは「何回も出入りした場所のはずだが、ちっとも色褪せず、古くさくなっていないどころか、どうしてももっと奥深くまでゆきたいという気を、私に起こさせる。」
ボクらはどこまでも関係の直接性を紡ぎ取っていくのだ。そこにしか感動の現場はないんじゃないのか。対象のリアル、疑似リアルとは別の話として。
ショパン弾きの話だが、僕は実はポリーニが好きだった。朝日の「音楽展望」に彼の名前が無かったのが、ちょっと残念。音楽を聴くことも、本を読むことも、何度でも繰り返されて、その一回性を何度でも味わっていけるというウソのようなホントを可能にするということにおいて、実は享楽的、素敵な快楽なのだ。