パオと高床

あこがれの移動と定住

吉田秀和『物には決ったよさはなく…』(読売新聞社)

2010-02-28 22:31:58 | 国内・エッセイ・評論
朝日新聞2月27日土曜日朝刊に、吉田秀和の「音楽展望」が載っていた。ショパン生誕二百年に関するエッセイ。吉田は「~かしら」という吉田節を使いながら、ショパン弾きへの思いを綴っていた。サンソン・フランソワの「威勢の良いショパン」から、ルービンシュタイン、アシュケナージ、ギレリス、ホロヴィッツそしてリヒテル。さらにグード。僕はグードは知らない。で、アルゲリッチと続く。この優れた演奏家たちに対する吉田秀和の一言。エッセイの基本ラインは、彼らとショパンとの対話に対する、吉田秀和の対話なのだ。吉田秀和には彼がスコアから湧きだし導き出したショパンがいる。それを、実際に音を立ち上げる演奏家のショパンと交錯させていく。対話が対話を生み出していく美学空間の心地よさ。音楽批評の愉しさの、ある部分は、そこにある。

で、ちょうど、吉田のエッセイ『物には決ったよさはなく…』をぱらぱらと読む。最近、なんだかいつもぱらぱら読書だ。

「読書というのは、同じ本を何度も読みかえすことを指すのであって、初めて読むのは読書のうちに入らない」
という一文があった。
若い時の何でも読み、しかもそれが「精神の糧」になる読書とは違って、という但し書きがあっての文なのだが、ああ、こう言われれば、僕はどれだけ読書のうちに入らない読書をくり返しているのだろうと思ってしまう。
吉田秀和の話はとてもわかる。そう、物には決まったよさはないのだ。ただ一度が、何度もになったときに、ボクらは、その作品からどれだけ多くの、それまで気づかなかった新しい発見を見出すことだろうか。吉田はセザンヌの絵とベートーヴェンの楽譜を引いている。彼はこの二人に「美」から「美」という「真実」へと繋がっていく感動の連なりを見る。それは「何回も出入りした場所のはずだが、ちっとも色褪せず、古くさくなっていないどころか、どうしてももっと奥深くまでゆきたいという気を、私に起こさせる。」
ボクらはどこまでも関係の直接性を紡ぎ取っていくのだ。そこにしか感動の現場はないんじゃないのか。対象のリアル、疑似リアルとは別の話として。

ショパン弾きの話だが、僕は実はポリーニが好きだった。朝日の「音楽展望」に彼の名前が無かったのが、ちょっと残念。音楽を聴くことも、本を読むことも、何度でも繰り返されて、その一回性を何度でも味わっていけるというウソのようなホントを可能にするということにおいて、実は享楽的、素敵な快楽なのだ。

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山村修『書評家〈狐〉の読書遺産』(文春新書)

2010-02-14 13:13:09 | Weblog
書評集について書くということは暴挙かもしれない。が、とにかく面白い。

匿名書評家〈狐〉こと山村修の「文学界」連載の書評集である。そして、彼は56歳で亡くなっていることから、最後の書評集でもある。

まず、その多様さに驚く。「志ん朝の落語からプルーストまで、坂本龍馬の手紙からコナン・ドイルまで。」と紹介されているが、ざっと目次を見ただけでもため息が出る。で、書評を読むと、その本を読みたくなるのだ。
例えば、今、話題の坂本龍馬。宮地佐一郎著『龍馬の手紙』の書評。

「坂本龍馬が、こんなに心躍りのする手紙を書いていたとは。明るくて、笑いがあって、ときには冷やかしもあって、励ましもあって、エヘンと自慢することもあって、つまりは何とも清新な、みずみずしい手紙文を、しかもこんなにたくさん書いていたとは。」
と書き始められる。
あっ、いいなと思ってしまう。
さらに、「龍馬の手紙から受けるおどろきは、たとえば与謝蕪村を読み、そこにすぐれて近代的な精神とリリシズムとがみちているのを見出したときの感動に似ている。」と続く。
龍馬の手紙の位置づけと同時に、蕪村への興味まで掻きたてられる。さらに、手紙に込めた龍馬の意図を汲み取った、宮川禎一の『龍馬を読む愉しさ』という本を引いてきて、手紙がどういう状況を生きていたのかまでさらりと触れる。ここで、山村の頭のなかの図書館は、関連本の妙味まで読者に手渡すのだ。あっ、宮川禎一も面白そうだと思わせる。
そして、「こんな手紙をたくさん残し、坂本龍馬は慶応三(一八六七)年、京都の醤油商近江屋で刺客に襲われ、没した。享年三十三。」で、この本の書評を終える。
見事だ。司馬遼太郎の『龍馬がゆく』の風になった龍馬を思い浮かべた。溢れているのだ、本への思いが。

他にも石田五郎の『天文台日記』なども面白そう。そして、先程の『龍馬の手紙』の時は、もう一冊の紹介がセリーヌの『夜の果てへの旅』だったり、『天文台日記』の時は、キケローの『老年について』だったり、ほんとうに古今東西なのだ。

この本も、また、読み終えることができない一冊のような気がする。
コメント (2)
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石川九楊『選りぬき一日一書』(新潮文庫)

2010-02-09 22:58:56 | 国内・エッセイ・評論
読み終わらない本ばかりが溜まっている。ただ、そんな中で、読み終わることがないだろうと思わせる本があって、例えば、この本も、買って、数ページ読んだだけだが、多分、最後の頁までいっても、読み終わらない本のような気がする。つまり、読み終わらないことが悪いわけではなく、つまらないわけでもなく、すこぶるつきで面白いのだが、味わっているうちに、読んでも読んでも、尽きることがないような気がする本なのだ。

エンドレスな一年。一ページに一日で、一月一日から十二月三十一日まで、ページのほぼ上半分に書の一文字。下半分が十行ほどの文章になっている。
敦煌漢簡の「鏡」の文字や泰山刻石の「不」などから、王義之、空海、藤原佐理、中国、日本縦横に選び抜かれた文字。その解読、感慨の文章も深い。その日が何の日かにまでさらりと触れて、一日一書で過ごせそうな、時間を慈しめる本である。

この人の本は同じ新潮文庫の『現代作家100人の字』も面白かった。

で、ついでに、今ドラマでやっている「とめはねっ!」も、楽しい。

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