最初に、小説冒頭の長めの引用から。
「……結局一頁として読みすすめられないまま、もう何日も何日も、同じ本を目が追う。どうにかすこしずつ行が流れて、頁の最終段落の最終行の最終文字にたどりつき、これ以上は余白しかないことをみとめるからか、指が頁をめくる。……られて、し……つきになるこ……光波に触れ、」
と、読み終わりから、書き始められる。ここで言葉が起動し始める。言葉が起動しだしたところから物事が動き出す。その起動状態を綴る。言葉が始まったところから始まるのは、あたりまえといえばあたりまえ。しかし、その現象の立ち上がりから記述するのは、そうそうあたりまえではない。そして、少し奇妙な言葉に出会いながら、不思議な文体に持っていかれる。
「眼前の風景そのものに漆漆(しつしつ)とした穴がぽちりと、猫の鼻先のように光っていて、そこを片目でのぞきこむなり風が一吹きして目が乾く。すずやかな風音がしきりと聞こえる。どうやら向こうは秋らしい。」
の漢語や和語の入り交じり方、イメージの飛翔。
「棹をさす。水草にへばりつくへどろ、葦、くいなやしぎが眠っている。」
のひらがなの、音が整いながら目で追うと違和感を醸す流れ。
「轟きとともに、ロータリーのアスファルトがにわかにうごもち、人気の失せたアーケードの脇から、いままで乗っていたバスのなかから、タクシーから、コンビニから、ドラッグストアの角から、駅の出口から、そして空からも四方八方あふれ出るように、おおどかなすがたかたちの大金魚があらわれはじめた。」
の、カタカナ、ひらがな文の具体性のなかに、「うごもち」とかいう言葉を入れながら、「おおどかなすがた」というひらがな区切れなし部分も射し込んで、金魚に持っていく。語り口調は江戸前落語調か。などなど。
擬古典調の副詞形容詞、方言のような言い回し、和語を意識したようなひらがなの流れと難しげな漢語の挿入。江戸文学のような下世話さとシュールレアリズムのようなイメージの動き。観念性と妙な具体性。ポップな現代風俗のさりげない挟み込み。だが、これ見よがしではない。何か、それを自然化しようという雰囲気がある。言葉というものから入っている作者と思った。そこには、言葉があるからこそ存在できる世界が広がっていく。で、その言葉は実はリアルを体現したがっているように小説の直線的な流れに耐えるように封じられていく。しかし、封じられればられるほど、「文字もまたとどまることから逃げてゆくんだろうか」となる。よって、小説は現在進行的な物語を作りながら、先へ先へと向かい終息は訪れえない。円環するような構図だけを残して、現在形で宙づりになる。
そこには、「身体から引き剥がされたいと、窮屈だと感じていることは……。」といった、身体から離れたがる意識の浮遊や流離し続ける転生譚が残る。ひとつの死が無数の生に吸収されていく過程を見つめながら、境界をするりと移行するような状態が語られていく。
人称のない主体(?)は、言葉と向き合う者から、船頭、発する言葉が限定されている子の父、そして船を待つ波止場の女と入れ代わっていく。その因果は語られない。ただ、その入れ代わりだけが、ふいと行われてしまう。時間は併記できないが、時間は重畳して過ぎていく、仮に過去のことであっても。そして、存在の確かさは気配の濃密な印象だけを残していく。
水溶性のものと乾いたざらつき感、浮遊とそれを穿つような重量感が、言葉の過ぎたあとに残る。
「……結局一頁として読みすすめられないまま、もう何日も何日も、同じ本を目が追う。どうにかすこしずつ行が流れて、頁の最終段落の最終行の最終文字にたどりつき、これ以上は余白しかないことをみとめるからか、指が頁をめくる。……られて、し……つきになるこ……光波に触れ、」
と、読み終わりから、書き始められる。ここで言葉が起動し始める。言葉が起動しだしたところから物事が動き出す。その起動状態を綴る。言葉が始まったところから始まるのは、あたりまえといえばあたりまえ。しかし、その現象の立ち上がりから記述するのは、そうそうあたりまえではない。そして、少し奇妙な言葉に出会いながら、不思議な文体に持っていかれる。
「眼前の風景そのものに漆漆(しつしつ)とした穴がぽちりと、猫の鼻先のように光っていて、そこを片目でのぞきこむなり風が一吹きして目が乾く。すずやかな風音がしきりと聞こえる。どうやら向こうは秋らしい。」
の漢語や和語の入り交じり方、イメージの飛翔。
「棹をさす。水草にへばりつくへどろ、葦、くいなやしぎが眠っている。」
のひらがなの、音が整いながら目で追うと違和感を醸す流れ。
「轟きとともに、ロータリーのアスファルトがにわかにうごもち、人気の失せたアーケードの脇から、いままで乗っていたバスのなかから、タクシーから、コンビニから、ドラッグストアの角から、駅の出口から、そして空からも四方八方あふれ出るように、おおどかなすがたかたちの大金魚があらわれはじめた。」
の、カタカナ、ひらがな文の具体性のなかに、「うごもち」とかいう言葉を入れながら、「おおどかなすがた」というひらがな区切れなし部分も射し込んで、金魚に持っていく。語り口調は江戸前落語調か。などなど。
擬古典調の副詞形容詞、方言のような言い回し、和語を意識したようなひらがなの流れと難しげな漢語の挿入。江戸文学のような下世話さとシュールレアリズムのようなイメージの動き。観念性と妙な具体性。ポップな現代風俗のさりげない挟み込み。だが、これ見よがしではない。何か、それを自然化しようという雰囲気がある。言葉というものから入っている作者と思った。そこには、言葉があるからこそ存在できる世界が広がっていく。で、その言葉は実はリアルを体現したがっているように小説の直線的な流れに耐えるように封じられていく。しかし、封じられればられるほど、「文字もまたとどまることから逃げてゆくんだろうか」となる。よって、小説は現在進行的な物語を作りながら、先へ先へと向かい終息は訪れえない。円環するような構図だけを残して、現在形で宙づりになる。
そこには、「身体から引き剥がされたいと、窮屈だと感じていることは……。」といった、身体から離れたがる意識の浮遊や流離し続ける転生譚が残る。ひとつの死が無数の生に吸収されていく過程を見つめながら、境界をするりと移行するような状態が語られていく。
人称のない主体(?)は、言葉と向き合う者から、船頭、発する言葉が限定されている子の父、そして船を待つ波止場の女と入れ代わっていく。その因果は語られない。ただ、その入れ代わりだけが、ふいと行われてしまう。時間は併記できないが、時間は重畳して過ぎていく、仮に過去のことであっても。そして、存在の確かさは気配の濃密な印象だけを残していく。
水溶性のものと乾いたざらつき感、浮遊とそれを穿つような重量感が、言葉の過ぎたあとに残る。