パオと高床

あこがれの移動と定住

松川節『図説モンゴル歴史紀行』(河出書房新社)

2006-12-17 17:20:29 | 国内・エッセイ・評論
河出の図説シリーズの一冊。手際よくまとめてあり、資料写真が豊富だ。モンゴルの簡単な歴史の流れがつかめるし、宗教都市としての町の出現や族長が活仏に変わるという流れなどが興味深い。司馬遼太郎も確か書いていたがチベット仏教の影響は善し悪し含めて多大なものがあるのだと推察できる。あとは、旧ソ連の影響つまり社会主義革命と社会主義政権の影響と、それからの民主化への変化が現在のモンゴルを生み出すという状態をこの小冊子で追いかけることが出来る。赤い英雄という意味のウランバートルの写真の変化が面白い。キリル文字のアルファベット?が判読できたら、少し理解が広がるのかも。
適宜差し挟まれているコラムも読ませる。
それにしてもモンゴル旅行から戻ってきて、まだモンゴルが離れない。夢まで見ちゃうよ。


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エラスムス『平和の訴え』箕輪三郎訳(岩波文庫)

2006-12-11 02:16:06 | 海外・エッセイ・評論
宗教改革の時期になるのか。キリスト教が争っていく。内部的にも、教会の問題やキリスト教自体の宗派の問題、そしてヨーロッパの国家成立をめぐる争い。その中で、ひたすら、戦争の不毛性と罪悪を説く。
この訳文からも感じられる筆致の速さとひたむきな熱意は、活字が弁舌の場所に立っていることを証明する。1517年頃の著作だが、何故、平和を説いた神の教えを守るべきキリスト教徒が戦争を行うのかと指弾していく。まさに某超大国の某大統領などに聞かせたい言葉である。
シンプルである。戦争は悪なのだという一点がぶれない。キリスト教中心主義の問題は確かに顔を出す。それは世界規模の問題なのかもしれない。大航海時代直後の時代背景はあると思う。しかし、どこの世界宗教に殺戮を容認する神がいるというのだろう。人間の想像力はあらゆる方便を準備するのかもしれない。だが、そのときにそれを躓かせる単純な真理というのがあってもいいのではないだろうか。平和のための戦争なんてあるはずがないのだ。
「いたるところ諸国民によって締め出され棄てしりぞけられた平和の神の嘆きの訴え」という形を借りて綴られた文章は、異邦人への文脈を除けば、あるべき姿を呈示している。
エラスムスは1466年か69年(67年という記述も見た)オランダ生まれ。パリに留学、ロンドン、ルーヴァン、ヴェネツィア、ローマ、バーゼルと遍歴。その間、トーマス・モアと親交を結び、宗教改革の寵児ルターと確執論争があったりしているらしい。1536年没。


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大岡昇平『野火』(新潮文庫)

2006-12-09 09:45:32 | 国内・小説
戦後文学の記念碑的作品、あるいは問題作としてよく言及される小説である。
スタンダリアン大岡昇平は、「私」の視点を通して、その私の心理の動き、それが映しだす世界を描き出していく。描かれるのは戦争における極限状況である。心理はその中で明晰に狂っていく。しかし、これを狂気と呼べるのだろうか。人が人から逸脱していく。倫理の外へと葛藤しながら連れ出されていく。そのことが人間を映しだす。
部隊から離れた私は孤独な移動を余儀なくされる。生きていない、そして死んでいない状態での地獄巡りである。この彷徨は、生きるために、飢えや恐怖と闘うために、倫理の逸脱へと向かっていく。人殺しと人肉食いがぽっかりと穴を空けて待っている。主人公が人肉を取ろうとするその右手を左手で押さえる。ここは重く迫ってくる。一個の個人の分裂が生まれるのである。欲望を抑える倫理の左手ということが出来るだろう。しかし、そのとどまりは、その地点で終わりにはならない。「それでは私のこれまでの抑制も、決意も、みんな幻想にすぎなかったのであろうか。僚友に会い、好意という手段によれば、私は何の反省もなく食べている」という「転身」が待ち受けているのだ。

太平洋戦争から朝鮮戦争への時代の流れの中で「人間」を問うている小説の凄さを感じさせる作品である。
これは、現在では、あきらかな時勢のきな臭さと重ねて読むことが出来る。あるいは遺伝子工学やバイオテクノロジーなどにおける右手と左手の関係を示唆している。主人公の個別性は人の普遍性に変わり、状況の極限さもあまねく世界の状況に移り、時代の特殊も時代を超えて現代に繋がる。小説が生きているということを示している小説だ。

主人公が見つめられていると感じる「彼」=まなざしが、一神教的神であったり、アニミズム的神であったり、人であったりしていくことが、価値の戦いを示している一例なのかもしれない。あるいは、いかなる価値であっても、人が逃れられずに持っている「人間性」とは何かという問いがあるのだということを示しているのかもしれない。

戦争のハイテクノロジー化は進んでいる。戦地に行かずに遠隔操作で一方には被害なく戦争を行うロボット開発などが進んでいる。殺戮の実感無き殺戮。しかし、そこに死の実体がある以上、行為としての殺人は存在するのだ。また、攻撃された現場がある以上、悲惨な戦地は存在する。みんなが当事者でない意識のままに行われる戦争というものが現実に存在したら、死はどこに位置するのだろう。倫理は殺される側にしか存在しなくなるのだろうか。


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アングラ演劇傑作ポスター展

2006-12-02 23:21:40 | 雑感
あっ!気がつけば、久しぶりのブログ。

「アングラ演劇傑作ポスター展」に行く。

寺山修司、唐十郎、黒テント、大駱駝館、土方巽、自由劇場等々の
ポスターが、展示されてて、あっ、にたにた、また、口ぱかん、という感じ。
今をときめく(少し前までも含めて)人たちのポスターはスゴイよ、迫力あるよ。
例えば、CGでやったときに、このタッチは活かせるのかなと思わせるようなものがある。
トポスとアウラを連れて歩いているような、心地よさ。
このポスターの芝居で、実際に観たものも、少しだけれど、あったりして、その場所、日時、人物名が、妙にレアな記憶を呼び覚ましてくれる。

ここにあるシニフィアンの過剰さが、穿とうとしたものの実質に思いが走った。
と同時に、「アングラ」が「アングラ」であるとはどういうことなのか。これは、アヴァンギャルドの性格と傾向性の問題に繋がっている。間違ってもアヴァンギャルドの「本質性」などの言葉に収斂させてはいけないものだと思う。
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