このざわざわと残る読後感は何だろう。心にしっかりと手渡された小説の質感と量感。小説は圧倒的な力でボクの中へ飛び込んできた。
いじめを題材に、その暴力をふるう側とふるわれる側の非論理と論理、合理と不合理が思索の枠を破って、溢れ出してくる。小説家は思想家ではなく、小説家として思想的なのであるということが、登場人物の身体的な存在感によって証明される。
特に、川上未映子の会話文は、登場人物を紙面から立ち上がらせ、読者に対して直接語りかけてくるような凄みがある。また、独特の詩的な直感力がとらえたとでもいえそうな描写が新鮮である。
この小説が捉えようとしている深度は深い。
暴力を受ける側のコジマと「僕」はいじめられる側としてのシンパシーで自分たちへの、自分という存在への意味を見出そうとしていく。そのことによって、暴力の乗り越えが企図される。しかし、彼らの中での差異が、その困難を顕わにする。
また、この小説のピークのひとつである、暴力の行為者でありながら暴力の傍観者でもある百瀬と「僕」の対決場面は意味と無意味をめぐる、どこかドストエフスキー的対話になっている。それは、作者にとって、かなり意識されたものだと思う。暴力に意味を見出さない、ただ、やりたいかやりたくないかだと語る百瀬に、暴力を受ける側の「僕」はその暴力の意味を問う。相手の欲望だけで他人に暴力をふるう権利はないと主張する。また、善悪を語る。さらに、自分自身がいつか暴力を受ける側になっても同じことがいえるのかと迫る。それに対して、百瀬は、「僕」が暴力をふるわれることに特別な意味はないのだと告げる。そして、その原因もないのだと相手の存在の特殊性つまり存在の意味を剥奪する。その上で暴力をふるう側の特権性を語っていく。そこにはむなしさの情感を欠いた空虚が存在している。暴力と欲望の本質的な関係が示されているともいえるだろう。他人の顔を奪い、見つめることをなくし、ただ暴力の向かう相手として対象に出会っている。ここには暴力の自覚自体も消えているのかもしれない。そして、百瀬はその状況を無化させるには「僕」がやりたいことをやるしかないのだと説く。そう、暴力の行使者の側に立つことによってしか出口はないと説く。百瀬は、しかし、こう語ることで、暴力の行使を傍観している。他の暴力をふるう者と違って、彼は暴力について考えている。価値を相対化する相対主義の中にいて、世界が立場によって解釈されるものなのだと突き放している。この人物の持つニヒリズムは19世紀末と現代をつなぐ。
これに対して、「僕」は「僕」のいじめられる原因を取り除くことを考えるのだが、コジマはむしろ、そのいじめられる自分の中に刻まれた「しるし」を抱え込む。暴力を受け入れることで、何も考えない彼らと対峙しようとする。泣き叫び、懇願し、許しを請い、告げ口をし、救いを求めるといった行為をせずに、ただ彼らの暴力を受け入れることで、彼らの無意味に私という意味を突きつけ、彼らを破綻させようとする。あるいはガンディーの、あるいは竹内好の論ずる魯迅の、あるいは大げさにいえばヴェーユの、姿勢にも連想がいくような意志を実践する。彼女も世界が立場によって解釈されるものだとわかっている。ただ、彼女はそこに、意味を見出し、みずからの意味の中に相手を引きずり込まなければ、事実に対峙することはできないと考える。意味を見出せない者に、世界が意味を持っているということを露呈させ、その意味の存在で相手を恐怖させる。そのことによっての乗り越えを図るのだ。
小説のもっとも高いピークは、こうしてコジマと百瀬の同一性と差異をめぐる交錯になる。
ボクらの生きている暴力の時代を川上未映子は「いじめ」という暴力の状況から問うている。ここには、国家の暴力やテロリズムが、「いじめ」という別の言葉に置き換えられている暴力と地続きであることが示されている。つまり、その根底には人間の抱え込む人間に意味を見出せない非人間性と人間の尊厳をめぐる戦いがあるのだ。存在するとは別の形の存在。存在する者として存在する人間が抱え込んでいるものを認識することが、異形の自分自身を映し出すということに直面させられる小説である。
それにしても、ラストをどう読むか。これはある水準以上の小説には常につきまとう問題なのかもしれない。
いじめを題材に、その暴力をふるう側とふるわれる側の非論理と論理、合理と不合理が思索の枠を破って、溢れ出してくる。小説家は思想家ではなく、小説家として思想的なのであるということが、登場人物の身体的な存在感によって証明される。
特に、川上未映子の会話文は、登場人物を紙面から立ち上がらせ、読者に対して直接語りかけてくるような凄みがある。また、独特の詩的な直感力がとらえたとでもいえそうな描写が新鮮である。
この小説が捉えようとしている深度は深い。
暴力を受ける側のコジマと「僕」はいじめられる側としてのシンパシーで自分たちへの、自分という存在への意味を見出そうとしていく。そのことによって、暴力の乗り越えが企図される。しかし、彼らの中での差異が、その困難を顕わにする。
また、この小説のピークのひとつである、暴力の行為者でありながら暴力の傍観者でもある百瀬と「僕」の対決場面は意味と無意味をめぐる、どこかドストエフスキー的対話になっている。それは、作者にとって、かなり意識されたものだと思う。暴力に意味を見出さない、ただ、やりたいかやりたくないかだと語る百瀬に、暴力を受ける側の「僕」はその暴力の意味を問う。相手の欲望だけで他人に暴力をふるう権利はないと主張する。また、善悪を語る。さらに、自分自身がいつか暴力を受ける側になっても同じことがいえるのかと迫る。それに対して、百瀬は、「僕」が暴力をふるわれることに特別な意味はないのだと告げる。そして、その原因もないのだと相手の存在の特殊性つまり存在の意味を剥奪する。その上で暴力をふるう側の特権性を語っていく。そこにはむなしさの情感を欠いた空虚が存在している。暴力と欲望の本質的な関係が示されているともいえるだろう。他人の顔を奪い、見つめることをなくし、ただ暴力の向かう相手として対象に出会っている。ここには暴力の自覚自体も消えているのかもしれない。そして、百瀬はその状況を無化させるには「僕」がやりたいことをやるしかないのだと説く。そう、暴力の行使者の側に立つことによってしか出口はないと説く。百瀬は、しかし、こう語ることで、暴力の行使を傍観している。他の暴力をふるう者と違って、彼は暴力について考えている。価値を相対化する相対主義の中にいて、世界が立場によって解釈されるものなのだと突き放している。この人物の持つニヒリズムは19世紀末と現代をつなぐ。
これに対して、「僕」は「僕」のいじめられる原因を取り除くことを考えるのだが、コジマはむしろ、そのいじめられる自分の中に刻まれた「しるし」を抱え込む。暴力を受け入れることで、何も考えない彼らと対峙しようとする。泣き叫び、懇願し、許しを請い、告げ口をし、救いを求めるといった行為をせずに、ただ彼らの暴力を受け入れることで、彼らの無意味に私という意味を突きつけ、彼らを破綻させようとする。あるいはガンディーの、あるいは竹内好の論ずる魯迅の、あるいは大げさにいえばヴェーユの、姿勢にも連想がいくような意志を実践する。彼女も世界が立場によって解釈されるものだとわかっている。ただ、彼女はそこに、意味を見出し、みずからの意味の中に相手を引きずり込まなければ、事実に対峙することはできないと考える。意味を見出せない者に、世界が意味を持っているということを露呈させ、その意味の存在で相手を恐怖させる。そのことによっての乗り越えを図るのだ。
小説のもっとも高いピークは、こうしてコジマと百瀬の同一性と差異をめぐる交錯になる。
ボクらの生きている暴力の時代を川上未映子は「いじめ」という暴力の状況から問うている。ここには、国家の暴力やテロリズムが、「いじめ」という別の言葉に置き換えられている暴力と地続きであることが示されている。つまり、その根底には人間の抱え込む人間に意味を見出せない非人間性と人間の尊厳をめぐる戦いがあるのだ。存在するとは別の形の存在。存在する者として存在する人間が抱え込んでいるものを認識することが、異形の自分自身を映し出すということに直面させられる小説である。
それにしても、ラストをどう読むか。これはある水準以上の小説には常につきまとう問題なのかもしれない。