パオと高床

あこがれの移動と定住

ルイス・フェルナンド・ヴェリッシモ『ボルヘスと不死のオランウータン』栗原百代訳(扶桑社)

2008-07-31 00:06:27 | 海外・小説
ミステリーを期待すると浅薄な感じでがっかりするような。
ただ、ブラジルの作家が書き、ボルヘスが探偵役で、舞台がブエノスアイレスで、ポーの研究会「イズラフェル協会」の総会で集まった人の中で殺人事件が起こり、しかも密室で、ダイイング・メッセージあり、とくると、思わず、手にしちゃうよね。おまけに、今は夏。南半球の冬がいいような、毎日の暑さ。本の薄さも手伝って、とにかく、上手いよ、誘惑が。ただ、すべてに、もう少しと思ってしまう。ミステリーとしても、衒学志向としても。でも、案外、あらかじめ、そう思って読むと、面白いのかもと思わせる手際よさは、ある。

変転する目撃者の記憶。『モルグ街の殺人』やら、『黄金虫』やら、ポー跳梁、おまけにラブクラフト、ボヘミヤの図書館、カバラ、ヘブライ文字。それを語るボルヘスのボルヘス口調。そのオマージュの楽しさ。それも、もっとと思いつつ、これでも、きっといいのかも。いつか事件は置き去りにされる。と、突然、解決編が訪れる。うーむ。迷宮が足りないのかな。

しかし、探偵というのは面白い。今回のボルヘスだけではなく、勝海舟やカント、ボードレール、などが探偵役として登場した推理小説もあるし、また、時代精神を代表したような、あるいは徹底的に反時代的であるような探偵たちもいる。そして、推理小説の楽しみのひとつに、犯人捜し、トリック探しだけではなく、その衒学性があると思うわけで、そう考えると、この小説のボルヘスとの対話は面白いのかもしれない、うん、もっとボリュームがあれば。なんだか、矢吹駆かヴァンスに逢いたいような。法水麟太郎までいくと、いきすぎかな。



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チェーホフ『桜の園』小野理子訳(岩波文庫)

2008-07-18 14:26:28 | 詩・戯曲その他
太宰治の「トカトントン」はどんな音だっただろうか。
いきなりラストを書くルール違反を許して欲しいのだが、このチェーホフ最後の戯曲は、切り倒される桜の木の音で幕を閉じる。最後のト書きはこうである。

 遠くで音が、天から降ってきたような、弦の切れたような、すうっと消え
 ていく、もの悲しい音が響く。ふたたび静寂がおとずれ、聞こえるものと
 ては、庭園の遠くで樹を打つ斧の響きだけである。

この遠くの音は樹を打つ音とは違うような気がする。これは、包み込む静かな死の音であり、桜が切られる壊される崩壊の音とは区別されているような気がする。ひとつの時代の終わりに向けた鎮魂の思いと身を切られるようなかなしみの思い、そして壊されることへのかすかな告発。さらに、樹を切るということの再生への願いのようなものが、このト書きには渾然として、ある。人びとが立ち去り、いったん何もない空間になった舞台に八十七歳の老従僕フィールスが現れ、去っていった人びとを確認し、長椅子に腰をおろす。忘れられた従僕。
 
 人の一生、過ぎれば、まこと生きておらなんだも同然じゃ……。(横たわる)
 ちょいと寝ていよう……。お前も、衰えたもんだなあ……、まるっきり、な
 んにも残っちゃいねえ……。……ったく、……この、未熟者めが!……(横
 たわったまま、動かない)

そして、最後のト書きになるのだ。このフィールスの台詞にも様々な思いが読み取れる。あきらめかそれとも穏やかさか。悔恨か無力感か。だが、悔いや後悔やくやしさが前面に出てくる感じがしないのである。もっと包まれている感じがする。それが動かなくなった彼を包むト書き指定の音に現れているような気がするのだ。
全体をおおう憂いを含んだ空気。退廃しているのではないし、激情がぶつかりあうのでもない。むしろやさしさのようなものが、お互いの思いの中を行き来しているようだ。だが、利害がないのではない。思惑がないわけでもない。それを持ちながらも、人は愛されたい人には愛されたいし、慈しむ人を慈しみたい。その思いが交差する。また、人はその人の人生を生きている。多くは満足のいかないものであるだろう、しかし、ここにあるためにはそこまでの人生を生きているのだ。その人生への愛おしさが感じられるのだ。だから、喪失の瞬間にあっても、絶望よりも希望を欲する。桜の園を失うという一時代の終焉にあって鎮魂への思いを浮かべながらも、どこか若さへの希望も感じられるのだ。だからこそ、三幕の最後十七歳のアーニャの台詞が心に響く。
 
 桜の園は人手に渡って、もう無くなった。その通りよ。でも、泣かないで。
 ママの人生はまだこれからだし、ママの美しい心だって、そのままなんだも
 の……。御一緒に、ここを出て行きましょう!あたしたちの手で、ここより
 立派な新しい園を作るわ。ママはそれを見て、おわかりになる静かで深い
 喜びが、ちょうど夕方の太陽のようにママの心に降りてくるのがね……。
 そしてにっこりなさるでしょう。行きましょう、ママ、行きましょう!

訳者の小野理子の解説は、ラネーフスカヤ夫人の性格やロバーヒンの思いを読み解き、また「桜の園」の場所などを考察して面白い。
この戯曲が演出家によってどう読み取られていくのか。ひとつひとつの台詞のどこに比重を置いていくのか。様々な読みへの可能性を感じさせながら、役者がどう台詞を吐くか、どんな舞台作りになるのか。考えだしたらきりがなく、楽しいのだろう。その楽しみに溢れた戯曲だろうと想像できた。
抗っても抗いきれない運命に翻弄されるのが悲劇であり、人の愚かさやどうしようもなさが生み出してしまう、他ではないその結果の中に立たされるのが時として喜劇と呼ばれる現代の「悲劇の死」の時代にあっては、チェーホフの人間ドラマは喜劇なのだろう。胸に迫る喜劇なのかもしれない。

また、「かわいい女」や「犬を連れた奥さん」を読みたくなった。新潮文庫の「ユモレスカ」もいいかも。



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小池昌代『雨男、山男、豆をひく男』(新潮社)

2008-07-16 11:21:59 | 詩・戯曲その他
さりげなさが、どこかにボクらを連れ出してしまう。

闘うことに向かう男を見て「私は何かを思い出しそうになり/思い出しそうになって/ついにわからない」電車の中からボクシングジムを見る詩「男たち」から始まり、「自分が降らせた雨だが/いつも他人事のようにしか感じられない/そのことが/雨男にはとりわけ悲しかった」自分自身の悲しみを受け入れるしかなかった「雨男」。「手動のコーヒーミルで/がりがりとコーヒー豆をひくとき/男はいつも幸福になるのだった」という男のモノ化していく日常の中での重さと軽さを描く「豆をひく男」。

愛するものや大切なものの存在によって、その不在を抱え込むしかなくなってしまう空漠に出会う「浮浪者と猫」。
Ⅰ章の「男たち」では「男たち」へのまなざしが「私」との距離感のゆらぎを刻んでいきながら、Ⅱ章「女たち」に向かっていく。Ⅲ章は少女から女への「わたし」への軌道が描かれていく。そのそれぞれが、お話への可能性を秘めながら詩的跳躍で、別の世界に、イメージの世界に、新鮮な言葉の世界に、胸に溢れるようないとおしみやつらさや、しみるようなかなしみや、あっけらかんとした空白に出会わせてくれる。
そして、Ⅲ章「水源へ」。男と女の先にある、あるいは元にあるように自然の中に入りこんでいくようだ。「見えない関係」の一軒の家を静かに照らしていく夕日。自らの存在の重量だけ不在の痕跡も残して生きる鳥。動体視力で捉えられたかのような、混ざり合わない団体として生涯を生きる雨。寂しさを抱えて、それを追い越して生まれ吹いていく風。世界の関係の連鎖の中で何か人が救われていくような印象を残す。

 どこに、と問う者はいなかった
 滝はあるー
 あることの希望だけで充分というように

滝のある処を知っていると語る山男の詩で詩集は終わる。「滝のある処なら知っている」と「沈黙とともにたたまれて」いた言葉を言ったときに、人びとは自分が「水を求めて」旅をしてきたものだということを思いだし、また、「滝への道を歩き出す」のだ。
詩の発語とはこんなものなのかもしれない。地図ではなく、思い出させ、立ち上がらせ、それぞれの歩みへと導くもの。「希望」を支えにして、沈黙の先に。詩が途中から散文詩さえも越えていくような「深い青色についての箱崎」や物語との拮抗が緊張感を持つ「名古屋・露草連」も面白い。あとは、「水脈」の中のⅡ「時刻表」は案外好きだ。もちろん詩。簡単に要約できるものではない。まず、言葉の魅力が先行して、引き込まれてしまうのだ。
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詩誌『something』(書肆侃侃房)

2008-07-08 14:06:11 | 詩・戯曲その他
somethingは後ろに形容詞をとる。ということを知ったのは中学のころ。その思考の柔らかさに気づいたのはもっとあとのこと。そう、他の名詞のように前から規定されないのだ。「何か」というさりげないハプニング性と、実体が確定できない、しかし、存在する確かさを見せている実在感。在るが先行しながら、後方から形容される、somethingの段階ではまだ不在の形容詞に向かって開かれた自在さ。somethingのあとに何をつけようかと思うことも楽しいのかもしれない。

詩の雑誌の数は多い。詩の雑誌が商業誌として成り立つのかどうかは別にして、全国区の詩誌いくつかを中心にして、あまたの同人誌含めるとかなりの数だと思う。詩集に凝るように、詩の雑誌も意匠を凝らしたいという思いは強いのではないかと思う。それぞれの詩誌にそれぞれの意図があり、それぞれのイメージが存在しているはずだ。それは外観だけにはとどまらず、編集の細部にまで宿るのではないだろうか。オーソドックスを装うことで詩を際立たせようという考えもあるだろうし、けれん溢れる様相を見せてオリジナリティをわかりやすく主張したいという向きもあるだろう。雑誌の大きさ、文字の組み方、顔は様々、性格も様々、その愉しみ、これまた様々。ただし、企みのない創作は存在しないのだ。「たくらみ」という言葉からどんなイメージを空想、想像し、それを実体化するかは自由であったとしても。

で、素敵な詩誌がある。作っている人たちが「素敵な」という言い方にどんな反応をされるかはわからないけれど、この「素敵な」感じが詩の雑誌としての存在感を示していて、うらやましくさせてくれたという点で、紹介したい本なのだ。
表紙はカラーで毎号写真がいい。大きさはB5版。中にもふんだんに写真があり、写真は毎号違う写真家の写真である。付録ページがついている。本体と付録部分の一体化をはかる写真の連続もしゃれている。7号のこいのぼりは結構好きだ。詩を寄せている人は毎号同じ数人の人と毎回変わる人たちで20名から25名というところ。
この詩誌は同人誌ではなく、ひとりの詩人が4ページを自分の領域にしていて、おおよそ3ページに詩、1ページに散文を載せている。それぞれの詩人の小部屋を除いたような気分になる。もちろん、その小部屋にある詩は、詩によっては壮大な外界に開かれていたりするのだ。
7号の冒頭は小池昌代の部屋(小宇宙)である。「飛行鍋」という詩。いきなり詩を空に飛ばす。

 風の吹く なだらかな丘に 立ち
 紙飛行機を飛ばします
 詩を書いた紙はこうしてすべて。
 読まれて困るということはありませんが
 読むひとは そもそもおりません
 子供のために折ってやって
 今は自分が夢中になりました
 風は必要です 強風より微風が
 天気は 晴れより曇り空が好みです
 尖った先 突入する
 眠る空へ 乳首立ち
 さいきん鍋を焦がしました

少し引用が長くなったが、何だかここまで書かないと小池昌代がでないような気がしたのだ。丘と空と風。さりげなく広い世界から始まる。紙飛行機を飛ばす。宿る解放感。詩を書いた紙で作った紙飛行機。その解放感に僅かな自虐のきざしが現れる。そして句点。このあと38行目まで句点はない。展開上つきそうなところでもつけず、小池昌代の自在な往き来の世界が展開される。「読むひとは そもそもおりません」で、きざした自虐は閉塞を匂わせる。必要な風、でも微風。晴れよりも曇り。ここで詩人は語りたいことの総量を密封している。今まさに語り出したいという何ものかが貯まっている気配がある。そして、展開する。「尖った先 突入する」これは「紙飛行機」か。空に突き刺さる紙飛行機。しかも、それって詩の紙でできたヤツ。どこに突入するのか、空に。しかも「眠る空へ」で、受ける言葉が「乳首立ち」なのだ。参りました。ここに、すでに飛ぶ作者が予感されている、しかも乳首から張るように飛びそうなのだ。だが、まだだ。まだ離陸はしない。さらにもうひとつ、言葉の連想がある。「子供」「眠る」「乳首」とつながる、「紙飛行機」からの女性的、母的連鎖。それを合わせ持ちながら、離陸の前に、焦がした鍋の話になる。紙飛行機、離陸と母、女性が素材をつなぎとめていく、奇妙な物語世界が、続く。地上と空の二重性のようなものが、自己と他者との関係や、自虐と矜持や、閉塞と解放の間を往き来するようで、それがエピソード的なものと詩の夢想との織り込みにもなり、コラージュされるように繋がっていく。そして、最終行に向かうのだ。

 風が吹いています こんな日には
 重いフィスラーの鍋も空を飛びます
 群れ飛ぶ紙飛行機にまざりながら
 戦争は終わりました(ほんとですか?)

この最終行でボクはもう一度、この詩の軌跡に立ち戻らされるのだ。「戦争」ということばで指示されるあらゆる状況を鑑みるように。

編集発行人 鈴木ユリイカ
編集 田島安江 棚沢永子 
952円+税



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別役実『不思議の国のアリス』(『現代日本戯曲体系8』三一書房)

2008-07-04 13:13:27 | 詩・戯曲その他
アリス 
 私、ただ聞きたかったのよ、あなたは誰って。

〈アナタハダレ?〉という問いが、ボクらの関係を脱臼させる。ボクらは、その問いの前で日常にひそむ陥穽に落ちこんでしまう。

兄 
 アリス、あの目は変だったよ。あの目はいやだった。あれはね……、
 どういったらいいのかな……、たとえば、〈アナタハダレ?〉っていって
 いるみたいな目だった。〈アナタハダレ〉っていう目つきが、下の方の土
 間から、いきなりグーンと持上がってきて、僕をドキンとさせたんだ。

「幻想の砂漠」の一隅で、奇妙な移動サーカスの一隊が繰り広げる五場と二つの幕間小景。変わる体制の中で『虐殺された詩人』のように処刑される喜劇役者。お面をつけ替えながら関係性を変えていく人々。その中を生き抜くアリス。

アリス 
 そう、私はアリス。あらゆる幻影、あらゆる虚構、方向を持たない
 あらゆる儀式、高さを失ったあらゆる構築の作業、人々が人人である
 ための全ての暗黙の了解、それが私、アリス。もう一度呼んで……

暗黙の了解アリスが、時代の中で変質する人々を前にして自らの自由を獲得しようとし、告発する。その詩情溢れる別役のセリフが光る。1969年発表、70年初演のこの劇は政治の季節、共同体の季節から幻想と虚構の時代への変化を生きている。今、改めて別役が何だったのかが気になったりもする。
脚本を読めば、スペクタクルの乏しい舞台というのではなく、セリフの密度や情感の削がれぐあいなどが魅力的に響く。


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