パオと高床

あこがれの移動と定住

童話世界「九寨溝」

2004-10-31 14:25:22 | 雑感
「世界・ふしぎ発見!」で四川省があった。うれしかった。 2001年夏に行った時のことを思い出した。

この世のものとは思えない風景とよく言うけれど、本当に九寨溝はその通りだった。テレビで流された時に実際の方が映像に負けることがあるが、ここはテレビでは映りきっていないと思った。湖水の色合いや風景の横への広がりが捉え切れていないのだ。そのくらい、すばらしい景色だった。

今は空港ができて成都から30分ぐらいで川主寺に着き、そこから2時間ほどで到着できるようになって、随分行きやすく、また日程も短い期間で行けるようになっているようだ。あんまり人目について欲しくないような気持ちもあるが、かつての秘境も、今ではどこの旅行会社もパンフレットのメインに据えているから、もうめちゃくちゃ有名な場所になっている。中国の人の行きたい場所ベスト5に入るところだろうし、実際たくさんの観光客がいて、中国の人と押し合いながら九寨溝内を回る天然バスに乗ったことも懐かしい。

大変だけど、今回の「ふしぎ発見」の片道のように岷江という川にそって山道を10~12時間かけて行くのもよかったですよ。また行きたい。
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中国悠遊紀行

2004-10-26 15:31:53 | 雑感
9月30日に第一冊目が刊行された薄手のムック本「中国悠遊紀行」をつい買ってしまう。この手の本は「世界遺産」シリーズや「世界100都市」シリーズなどがあって、興味のある場所は買ったりしていたが、今回は中国だけの50冊シリーズ。シーサンパンナで一冊とか避暑山荘で一冊といった具合で気になってしまう。
写真も新しいものがあってまずまず満足。
気になる場所だけでも買おう。560円がちょっときついな。
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批評することの場所

2004-10-25 23:49:09 | Weblog
先日、飲んでいてでた話。
仮に某氏がいて、あきらかに質的に落ちている本を出した。ところが、某氏の仕事であるということで評価されてしまう。某氏がこれをしたところが凄いといったように。そんな評価はどうなのだろうという話である。わりと聞く話である。逆もある、こんな仕事をするなんて・・・も、もう終わったよね。とかいう場合もある。この方がわかりやすい。どうしても駄作傑作はあるし、意図が評価できても出てきたものがつまらないものはある。そのときに、どう対処するか。

岡井隆が『詩歌の近代』という本で、別の面白さを語っていた。作家の変遷を見ると、その個別の仕事だけではなく、変遷がすでに面白いというようなことを書いていたと思う。その移り変わりを見ることで作家の姿が現れてくるといったことだろう。特に変貌し続ける作家や古典的からアヴァンギャルドへ変化する作家や逆に過激から成熟に向かう作家は、それ自体が興味深い。徹底的に成熟を拒否する人もいる。前衛歌人として時代の先端を駆けてきた岡井だからこそ、吐ける言葉なのかもしれない。

とにかく名前でしていい仕事とそうでないものがあるはずで、作家の面白さが作品の面白さと密接につながっていることが、あたりまえのことだが、最も幸せな関係なのではないだろうか。で、どちらか取るとしたら作品の面白さの方が優先されるんじゃなかろうか。
「作家の死」とかまでは言わないにしても。

と、ここでもうひとつ反転すると、批評としての作家論はそれとして面白いのは面白い。このとき、その批評を書いた批評家=作家はどこにいるのか。
問う者は問われる者、語る者は語られる者かな。

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ことばと音4

2004-10-23 12:18:41 | Weblog
音読み訓読みの問題があった。前回の「島」についてのボクの勘違いがそこにある。島をタオやドやトウと呼んだのは「島」という文字の伝来時の環境での聞き取りの結果生まれた差異かもしれない。漢音経由か呉音経由かで違う音というのはかなりあるようだ。丸谷才一が『輝く日の宮』で芭蕉の『奥の細道』の漢字読みについて蘊蓄を語っていた。

一方、韓国や日本にはもともと「島」の概念を表す「ソム」や「しま」という言葉があった。そこに世界言語として「島」という中国語が入り込んできた。日本はそれを「トウ」という中国音として受け入れながら、同時にその字を「しま」とした。音と訓の共存。
韓国は「島」は「ド」にし、島概念を表す「ソム」は「ソム」として残した。外来語と在来語の関係である。

つまり世界帝国の中国の表意文字の強さと表記による言語系分別の結果である。

西洋言語学では言語の分別は表記によるものらしい。だから、例えばスペイン語とポルトガル語は音は似ているが表記が別だと言うことで方言の関係ではなく別言語とする。
中国語は北と南ではほとんど音は違う。だが、表記が共通であるため広東語と北京語は方言の関係になっている。語順でもモンゴル、韓国、日本は同じ語順であるが、中国語はむしろヨーロッパ語語順である。しかし、親縁性は東アジア言語圏になる。

朝日新聞で井上ひさしが音の統一は国の統一政策であるといい、音の多様性と方言の存続を求めていた。考えてみると、音とは個や小さな集団が島宇宙的に存在するための強固なアイデンティティなのかもしれない。権力や圧力に対抗するのは垂直に立つ発語の力なのだろう。

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始めました

2004-10-23 04:22:06 | 雑感
ブログ始めました。思いつき日記のようなつもりでいろいろ書こうと思います。
最初は、何だか、「です」「ます」調です。
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