パオと高床

あこがれの移動と定住

恒成美代子『恒成美代子歌集』(現代短歌文庫 砂子屋書房2019年5月18日)

2019-06-29 00:00:53 | 詩・戯曲その他

自らを受け入れることが、他者を拒絶することに繋がるのではなく、他者を受け入れることに繋がる態度がある。
それは、他者を受け入れることが必ずしも自己否定に直結するのではなく、同様に自己を受け入れることになる
ことと一致する。
ただ、その双方が瞬時に起こることは、それが同時に起こることとは違う。ボクらは時差で生きている。
その絶対的な肯定に賭けるわずかな、瞬時の時差。そこに歌は宿り、そこに私の今が立ち現れる。そうなのだ、
これもすでに、時差があり、因果の往還がある。私の今が立ち現れるから歌が宿るのか、歌が宿るからそこが、
私の今になるのか。今は瞬間に過去になり、未来は瞬間に今を通り越す。歌と共に生きるとはそういうことだろうか。
創作するとは、そういうことなのだろうか。

短歌の57577、31音は、同時ではない瞬時をとどめることに効果的なのかもしれない。今が過去に、未来が今を
足早に通り過ぎるのに適した、幅ある瞬時の表現形なのかもしれない。
それを過ぎ去る時間に見るか、立ち現れる時間に見るかが、その時の表現者の置かれた世界との向き合い方であり、
受け入れ方である。それが、表現されたものの、明度を表す。

 ひるがへり咲く花水木いつさいのことは忘れてかうべをあげよ
 失ひてふたたびわれに戻りこし心ならずや頰うづむれば 
                           (「ひかり凪」収録の「水上公園」から)

花水木は永続性を象徴する。それは、忘れ続け、戻り続ける思いの連鎖だ。断ちきられるからこそ生まれる永続性。
断ちきられ、断ちきり、そうすることで、忘れていたはずの感情が復帰する。それは、同じ対象に向かってではない。
その対象が変わることで、新たに生まれる感情なのだ。それは、あの時に感じた心の動きと似ている。ボクらはその思いが、
思いの連鎖であることに気づく。とまどいながら、ためらいながら、だが、昂揚する心は止まらない。
新であり、鮮である思いは、かつての「私」を失うように留める。それは、例えば「あなた」への思いかもしれない。
だから、それは創作者としての「私」の、生活者としての「私」への齟齬としても表れる。
だが、これは、かすかな、かそけき齟齬なのだ。

 つらなりて鳥は空ゆき窓のうち蔵(しま)はれたりし待つのみのわれ
                           (歌集「ひかり凪」収録の「盛夏ぼうぼう」から)

待つのはゴドーか。いや、そこまでの解読を歌は要求しない。ゴドーすらも大仰に感じさせる、そんな日常がある。
だが、間違いなく「蔵」われた私がここにいる。確かに、そこに待つ私はいる。
だが、同時にそれは、待つことの時間から離れようとする「私」でもあるのだ。
体言止めの「待つのみのわれ」は、負い目のような否定感を持たない。20世紀中期以降の現代文学は生への処方箋で
あるといういい方があるが、恒成さんはこんな歌をレスポンスした。「蔵」うことは否定性ではないのだ、
「待つのみのわれ」も今、ここに生きている「私」なのだと作者は語りかけてくる。だから、このような歌も詠まれる。

 あくがれの銀河まなこに見えざれどせつなき都市を少し愛する
                           (歌集「ひかり凪」収録の「せつなき都市」から)

創作への展開を求める心と日常性の葛藤。空や銀河へのあこがれと、今、ここにある「私」の「せつなき都市」への思い。
創作者であろうとすることと生活者の日常との抗い。「見えざれど」の見えなさ故の「せつなき」思慕。表現の始めの一歩は
忘れられずに歌を刻む。抗いは少し愛される。銀河が見えない都市であっても少し愛される。
私たちが私たちの生を慈しむことは、私から始まり、私とあなたになり、そうして、そんな私たちになることなのだ。

 那珂川の水位落ちたる水の面夏を越えたる水鳥あそぶ
                           (歌集「ひかり凪」収録の「ひかり凪」から)

夏を経てきた水鳥のように、今、この日々の上に乗り「あそぶ」ように過ごす。
あふれるような水位はすでに落ちていたとしても。日常と戯れていたい。たとえ、水の表面に浮かんでいるのであっても。

この歌集は、97年刊行の『ひかり凪』全篇と『夢の器』抄、『ゆめあわせ』抄、そして、歌論エッセイ、解説から成っている。
全篇収録の『ひかり凪』から触れてみたが、『夢の器』『ゆめあわせ』にも引きたくなる歌はあって、パラパラと、
例えば、『夢の器』から。

 公園の石のベンチも鞦韆も冬夜の月に濡れて光りぬ
 あの夏と同じくらゐにあをあをとあをあをとしてけふの玄海  (「紺青の海」から)

旧かなが、ゆるやかに止まっているような景をゆらす。
こんな歌もある。

 沛然と芭蕉を叩きわれ叩きめぐり浄めて夏の雨過ぐ      (「夏の花」から)

沛然と降り、芭蕉を叩き私を叩く雨によって浄められる思いとは何だろう。通り過ぎていく夏の雨の激しさと、
それが過ぎていくすがしさが一首に宿っている。そして、雨に打たれる私の過ぎてきた時間までが思いの中に佇んでいるようだ。
「幻家族」という連作もある。

 那珂川の夕まぐれどき犬がゆき人がゆき幻の家族があゆむ   (「幻家族」から)

歌が現れ出るために、そこにある深い水脈が想像できる。

 一瞬に世界が死ねば思ひ出の欠片(かけら)は何処へ行くのでせうか   (「思ひ出」から)

答えられない問いがある。だから、歌が詠まれる。
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『平成音楽史』片山杜秀・山崎浩太郎(ARTES 2019年4月30日)

2019-06-15 09:17:51 | Weblog

音楽評論、社会思想史、社会批評を展開する片山杜秀と「演奏史譚」を専門とする音楽評論家山崎浩太郎が、
平成クラシックを語りつくす。

語る、とにかく、語る。音楽の話から社会評、時代相まで話は面白く転がる。

この本のもとは、衛星デジタル音楽放送「ミュージックバード」の「ザ・クラシック」で2018年に放送された
4時間番組「夏休み自由研究〜平成音楽史」であると書かれている。なるほど、このライブ感は当然のことだ。
書かれているように、平成はCDの圧倒的な普及とバブル景気による音楽ホールの充実、それから音楽関係本の
増加などがあった。
そして、あとがき「おわりに—群雄割拠の音楽史を振り返って」で、山崎が書くように、
「堅苦しい〈教養〉の重しがはずれ、マニアックに面白がることが当たり前になった時代」で、
平成前半はまだ、SNSなどの経由ではなくレコード店の在庫が増え、店での出会いがあった時代だった。そして、
「カラヤンという〈帝王〉なきあと、古今東西さまざまな音楽と演奏家が群雄割拠していく時代だった」と書き、
彼はそんな音楽状況を「分裂しているほうが面白いと思っている」として、片山と縦横に語る。

音楽についての話ももちろん面白いが、佐村河内問題などを語りながら、むしろ「ハッタリ・キッチュ・まがい
もの」が市民権を持ち、価値観を獲得しているという文化社会状況に話が及ぶなどの広がりも楽しい。さらに、
現在の表現はキッチュさとは切り離せないことを、マーラーの登場当時の状況も絡めて語られると、なるほどと
思う。

アメリカグローバリズムに対抗するようにヨーロッパから古楽、ピリオド楽器のムーブメントが起こってきたと
いう分析もそうかそうかと合点がいく。

1989年という平成の始まりのエポックに始まり、そうだ、カラヤンの死はその年の7月なのだ、
東京オリンピックへの言及で終わる平成音楽史。
オリンピックへの時代の空気の中に漂う、ポピュリズムと繰り返される歴史への危惧で結ばれる。

小澤征爾に対する、片山の、小澤は「戦後日本の最高傑作」ということばは、そうかもと思えた。彼は、小澤は
「バーンスタイン先生、カラヤン先生、ミュンシュ先生、齋藤先生とか言いますが、ふつうありえな
いでしょう。水と油の人たちですよ、凡人からすれば。この組み合わせが矛盾しないところに、小澤の超越性が
ある。(略)良いとこどりというのではなく、みんな融合させられちゃう。」と語る。
そして、話は「ある種、日本人のなんでもありみたいなところを、ラディカルに突き詰めた人。なんでもありの
アヴァンギャルドみたいな—それが小澤征爾なんじゃないですかね」となり、さらに、
「私は小澤征爾を五族協和になぞらえて論じたのですが、(略)もしかすると、父の小澤開作が満州で実現でき
なかったことを息子が音楽で実現しているのかもしれません」と展開する。
音楽は国境を越えるというけれど、小澤の平和への願いを込めた活動などを考えるとこの話の広がり方は妙に納
得する。

平成というくくりに対する山崎のあとがきの記述も面白かった。西暦では10年刻み、長いスパンだと50年刻みに
なりがちだが、30年という刻みが長めのくくりで考えるのにいいものだと書いている。
「平成は全体で考えたとき、バブル崩壊後、冷戦終結後の〈現代〉を、30年間という流れでみるのに適している。
10年というスパンだと、変化を断絶ととらえてしまいやすくなる。30年のスパンは、天秤がゆれながら、行きつ
戻りつしながら、私たち人間が生き続けていることを考えるのに便利だと、私は思っている。」
令和という新元号になって、去年から4月までのおびただしい平成話が、何だか、もうすでに今さらみたいな感じ
になってきているが、そんなときこそ、その連続と断絶に思いがいく。

でも、それにしても、音楽評論は財力がないと難しいのかなと思った。
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渡辺玄英詩集『星の(半減期 』(思潮社 2019年4月25日)

2019-06-12 00:30:29 | 詩・戯曲その他


 これはずいぶん前に書かれたものだ
 読みづらい文章の中に
 欠落した言葉があって
 かけた言葉の向こうに
 ぼんやりと夕日が差している
 ひとが影になって歩いている
           (「未読の街」冒頭)

目次よりも前に置かれた冒頭の詩で、一冊の詩集が始まる。
書かれた言葉がそこにありながら、まるでそこに欠落した言葉を拾っていくような、そこにひとがいるはずなのに、
まるでひとの影に出会うような、すでに書かれているはずなのに、だからすでに読んでいるはずなのに未読の物語
られる街に住むような、世界が=セカイが始まる。半減期で消えていく星の住人であるような、それでいて半減期
に消えていく星を目撃する星の住人でもあるような、ぼくのぼくらの物語が語られる。もちろん、反物語が語られる。
そう、すぐれた現代作品が、すべからく推理小説のようであり、冒険小説のようであるように、謎をめぐる、未解決
の状況におかれた冒険が始まる。しかも、今現在を描く作品がそうであるように、物語は常に反物語であり、メタ
であることを合わせ持つ宿命を生きている。読者であるぼくは「未読の街」を読んだ後、目次の世界に入っていく。
そして言葉の森に入っていく。木々が茂るわけではない。むしろ木々はなく、そこは言葉が、せつないまでに言葉と
折り重なった森である。既読のはずなのに未読な言葉が誘う。

「開かれた作品」ということばがあって、人を饒舌にする作品がある。あれこれ語りたくなる。だが、一方で詩や
小説はそれを語ることばを拒んでいる領域を持つ。当然だ、解説的なことばで語りつくされてしまうなら、詩や小説
にするわけがない。つまり「開かれた作品」は人を饒舌にしながら、人を黙らせる。そこには刺激の感覚が残る。
そして、広漠の中に置き去りにされたような痛みと不思議に解放されたようなやわらぎの気持ちが沁みる。たぶん、
この感情も坂口安吾なら「文学のふるさと」というのかもしれない。
渡辺玄英さんの詩集を読んだときに、そんな感じがした。

 夜の空の
 無数の星がひそかにささやいて
 いる(きこえない

 見たことがある(けれど
 見覚えのない街に(街灯だけが点々と灯って
 角をまがると
 また同じ街がある
           (「星の(闇 」冒頭)

 きのうセカイは壊れたらしい
 (星の光は星そのものではない(ように
 ムス−の見えない星が散りばめられた
 ひとつひとつは意味があるささやきかもしれないけれど
 それが一度に響きはじめると(こんなにも
 暗いかたまりになったのだ(かもしれない
 ムスーの見えない星が(闇になって
 ムスーの街がさいげんなく(闇になって
 くりかえされるぼくがくりかえし夜に迷いつづける
 死んだ未来にまがり角で出会う
           (「星の(闇 」第3連冒頭)

セカイを語ること、抒情をこぼすことは衒いや恥を伴うし、すでにその語られつくした樹海の先にぼくらはいる。
そこでは語るべき世界は、帯びるはずの抒情は、組みかえられるし、ずれてしまうし、すでに逆さパロディでいない
ではすまされないのだろう。語る相手がいない、と同時に語る相手が無数にいる。そんな状態の中で「( 」で、
液晶に書かれるように言葉は言葉に切断されながら、立ち止まりながら、ためらいながら、それでも流れるように
続いていく。詩は、まるで音楽のように流れる。

吉本隆明の詩集に『記号の森の伝説歌』という詩集があって、その題名いいなと思ったが、発売は86年、もう30年以
上前になる。75年頃から84年までに書かれた詩で編集されていて、石油危機以降バブル景気の前まで。高度資本主義
社会の中で、過剰な記号が溢れ出している時期。
もちろん、記号が過剰でない時代はないわけだろうが、そこにあるものが記号として認識されて、解読される記号た
ちが記号であることの衒いをなくした時期なのかもしれない。記号がアナログなものからデジタルなものへ移行して
いきながら、より記号として自立していく時期かもしれない。インベーダーゲームやパソコンの普及などなど。
「自立していく」といういい方に、擬人法の臭いがしてしまうのは、すでにボクの認識がアナログだからだろう。
そんな中で、吉本の詩はまだ、ことばが「記号の森」に棲息しながら、記号の森に迷い、そこから離れ、羽ばたこう
としていた。彼のいい方を借りれば、ことばの背後に「風景」があった。だから「伝説歌」であり、ことばは記号の
中心にありながら、記号を解読し、記号化を振り切ろうとするかのような身振りを見せていた。
で、詩は、記号との比重を変えながらも、「ことば」をつかって表象されるということにおいて、このあらがいの進
行形の中でこそ詩としてあり続けると思う。
その、先鋭な表現のひとつが渡辺玄英さんの詩だ。
ことばはもちろん記号である。だが、ことばをそれ自体の社会的な機能から乖離させていく。そのきわどい距離感が
スリリングだ。それには、むしろ記号化されたアイテムが利用される。なぜか。それが現在だからだ。
そして、ことばと記号は同位体だからだ。ボクらは「半減期」にあって、その世界を往還する。詩に倣えば「セカイ」か。
そのただ中にいるのに、その外にいるかのような「セカイ」。あるはずのものはあらかじめ失われている。ぼくやぼくらの
現在はそのように認識される。

 まだ起きていますか。未来が死んだところです。
 (たえまなく
 夜空に消えていく
 ペリセウス座流星群の擦過音(のエコーを
 受信しています
           (「星の(半減期 」冒頭)

 ごらんなさい
 きらきらのぼくらわたしらがたくさんだ
 (まだ訪れていないたくさんの未来だった
 だからここには(いないはずの(ぼくらわたしらが
 次々とセカイから消滅していく
 (死んだ未来のぼくらわたしらが、
 いっせいにいいね
 って反響している(いるね
           (「星の(半減期 」第3連冒頭)

まるで量子論のような一節もある。

 鳴く猫と
 鳴かない猫のあいだに
 時間が緩慢に止まろうとしている
 あけられない箱のような街に
 たどりつけなかった過去が
 かたい胡桃になって
 (ねこの直角にあがった尾の先に
 月はうごかない
           (「胡桃(くるみのとき 」冒頭)

情景のすき間に流れる時間の粒子が見えるようだ。だが、箱を空けて見た瞬間、粒子が見えたと思った瞬間、動くのを
やめる。波は,過去は、動きをとめる。かけらになった時間は、エネルギーを失っている。
だが、そんなかけらの中を生きていることはかけらを動かすことでもある。そうして生きているぼくらによって世界は
歪むし、動くのだ。不可能性を生きているようで、詩はどこか希望の書でもあるようなほの明るさを持っている。

 虚でも実でもその境目でもすべて
 セカイのことであるのですから
 書きとめてみるとそれも世界をすこしだけ歪ませているのです。
           (「星の(半減期 」最終連冒頭)

そんな詩の言葉がここにはある。今を生きぬく表現の地平の広がりの中にある。
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