パオと高床

あこがれの移動と定住

近澤有孝『指を焼く』(ふたば工房 2013年8月1日発行)

2013-09-08 13:58:19 | 詩・戯曲その他
いつ頃になるのだろう。希薄化する身体感ということがいわれていた時期があった。それは、おそらく現在も継続していて、ただ感覚が相対化されて「希薄」の度合いが変わってしまったのかもしれない。
その頃から、希薄化する身体なら、その希薄化し薄れる身体を描きだそうとする方向と身体の復権に賭ける争闘への方向とがあったような気がする。もちろん身体の希薄化は現実感の希薄化と同伴していて、それは急速に創出されていく擬似現実の中でのリアルへと変質を遂げたのかもしれないが、一方で身体の復権への争闘の現場はバーチャルとの格闘を回避することはできない。それこそが身体そのものへの回帰となる。つまり、身体が発する痛みや快感を、どう脳内部の現象から引き剥がしていくかという困難への挑戦が繰り広げられているのかもしれない。すべてを脳が描きだしたこととする真理は、脳科学的には面白いのかもしれないが、はたして帰着として面白いのかという疑い。ただ、難しいのは、例えば痛みなら痛みが、記述されたときそこに働く作用が、すでに身体感から距離を持ってしまう場合だ。が、このいい方がすでに脳の罠にはまったいい方なのかもしれない。

で、ここに一冊の詩集がある。近澤有孝さんの『指を焼く』。この詩集の詩篇は、死への恐怖を刻みながら、だからこそエロスへの渇望を引っ張り出すという身体の復権への闘いが持続する言葉として紡がれている。
詩集には20篇が収められている。冒頭の詩「カレーライスを作る」は、詩人のこの一冊の詩集への想いと呼応する。詩はカレーライスを作る行程を記述していく。その冒頭二連。

 たいくつな日曜日 キッチンに立つ
 今夜はカレーライスだ
 ひとり暮らしだから
 インスタントでかまわないけれど

 馬鈴薯の芽をむしり
 昔の恋を想いながら 新タマネギを
 スライスする包丁が踊る やはり
 こだわりがあるんだ

4行で作られた二つの連が微妙に緊張感のずれを生みだしている。それは、音の運びなのだが、その印象は、「スライスする」という言葉が行頭にきて、「包丁が踊る」という別の動詞に繋がっていることによるのかもしれない。詩集の冒頭にこの詩がくる。作られるのは、「カレーライス」か、それとも「詩」か。作者が考えていたのかはわからないが、「たいくつな日曜日」には、兼好法師の「つれづれなるままに」という有名な一節が重なるし、ツァラの詩句の冒頭の一節も重なってくる。つまり、冒頭の詩句は実はさりげなく収まる句ではないのだ。詩集冒頭、創られる世界は詩集を暗示から明示に換えていく。

 牛肉はやっぱり安物に限る
 そいつをたっぷりの大蒜で炒めながら
 先週 三十七歳で死んだ友だちのことを想う
 (きょうぼくは誰の一日を生きたのだろう)
 窓の外では他人の太陽が焦げついている

第三連、痛められた「大蒜」の香ばしい匂いの中に「死んだ友人」が立ちのぼる。そして、あるはずの匂いは、想念にすり替わる。それが、「きょうぼくは誰の一日を生きたのだろうか」のカギ括弧フレーズになる。それは「誰の一日」によって、次の一行へと続く。誰=他人となって「窓の外では他人の太陽が焦げついている」の詩句になるのだ。これは、想念か。「誰の一日」と「他人の太陽」は呼応せざるを得ない。人は他人の生を生きている。あるいは他人の欲望を生きている。というようなことを誰かが書いていたように思うのだが…。「ぼく」が「ぼく」の一日を生きるということは、「ぼく」が誰かの一日を生きるということなのだ。ここには他者と自己の、まなざし=まなざすという関係がすいと入り込んでいる。そして、焦げついているのは他人の生でもあるのだ。もちろん、この焦げつきは炒められる大蒜の焦げつきでもある。もうひとつ「炒める」が「痛める」という同訓異字を誘い出そうとする。

 空になった缶ビールが床に転がり
 小鳥たちが
 ミャンマー語で歌をうたいだす頃
 ある祈りにも似た痛みが噴きこぼれ
 ぼくの特製カレーライスは完成する

前の連の「窓の外では他人の太陽が焦げついている」の句が「空(から)」を一瞬、「そら」と読ませる。そして、窓の外の流れから「小鳥たち」の歌声が導きだされる。言葉は知らないが「ミャンマー語」というのが好きだな。すると仏教的な「祈り」へと言葉の連想は進むことができる。で、「ある祈りにも似た痛みが噴きこぼれ」という詩句に着地する。「祈り」は想念である。が、「痛み」は実体である。それは鍋から「噴きこぼれ」るのだ。そして、詩篇が生まれるように、また雑多なものが混ざり込んだ人の生が存在するように「ぼくの特製カレーライス」が完成する。あとは差しだされるだけだ。
最終連はこうなる。

 ほとんど血の色に煮詰まったルーを
 ふたつの食器に取り分け 赤ワインの
 グラスを傾ける「君のためにこしらえたんだ」
 闇にささやき ぼくはひとり夕餉にむかう
             (「カレーライスを作る」全篇)

差しだされる相手はいない。闇には「痛み」が残る。ここから、身体感を賭けた詩の闘いが始まる。それは、死との抗いでもあり、「存在忘却」からの果敢な帰還の軌跡でもある。

次に収録された「水の由来」が、さらに詩の方向を指し示す。この詩は最初に芭蕉の「明ぼのやしら魚しろきこと一寸」という句を引用している。ボクはこの詩にも惹かれた。

 さて水が
 濡れているか乾いているかは
 いたむ指先に
 訊ねなければならぬ
 わたしの命は
 凪いでいるか耐えてはいないか
 草の葉の裏側に
 しゃがみこんで割れた
 いもうとに朽ちたひかりを挿し
 こんでこれは問うてみたい
 もえる藁
 いつまでも裂けつづける魚
 とあかるい乳房
 痛い痛いと叫び声をあげる花々
 をひかえて誰かが
 わたしの名前を呼ぶことはないだろうか
 とまどう一行 がここにある
 ああ
 あらゆる夜をはらんで
 水はこんなにもつめたく流れているというのに
             (「水の由来」全篇)

途中から文節が壊される。助詞が次の文節につながり体言が宙づりにされる。だが、むしろそれが詩句の連続を生みだしている。これは「水」の流れをイメージしているのかもしれない。それは「生」の流れでもある。もちろんその前に、死の断絶が存在している。最後の二行に「夜」をはらむ「水」の透明な光がほの見える。それが、冒頭に引用された芭蕉の句「明ぼのやしら魚しろきこと一寸」の微かな光とつながる。また、「いもうと」と「しら魚」の「しろきこと」が痛く重なる。

表題詩の「指を焼く」は、死の訪れがエロスへの渇望のよぎりを呼び込む。そして、それはこの詩集の他の詩篇へとつながっている。
その前半。

 深夜
 ちいさな机の周りに
 ちいさな闇を呼び集め
 ぼくは ぼくの指先に
 火を点す
 ―ずぶ濡れの黒猫みたいに凍えている奴ら
 とりあえず
 やくざな糸切り歯を取りだして
 ほそい指先を噛むきつく噛む
 ちいさな痛みが
 フレッシュな血に染まって
 それが昔の恋人の
 熟れた性器に似ていることを確認したら
 ひとしきり ぼくは
 あの少女のように泣くだろう
 涙は
 人間の感情
 からあふれ出る
 唾液みたいなものだから
 ぼくは指先をそれに浸し
 そっと火を点す
           (「指を焼く」前半部)

ぼくらの生がちりちりと燃えている。身体がことばへと身もだえする。ことばが身体を求めるように。
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