著者自身が書いている。「本書は、唐木順三の事跡を正確に網羅的に追う評伝とはならなかった。それにしては、私自身の問いが多過ぎたからである」と。しかし、これだけの内容を、著者の問いや見解を指し示しながら、手際よく展開させていく渉猟的逸脱は、お見事なものである。編集人の技と筑摩を作った唐木順三たちへの敬意が、当然のように粕谷一希の気概と相まって作り出した一冊なのではないだろうか。そう、ツヴァイクの『昨日の世界』という書名を引きながら、粕谷一希は、唐木順三の時代と自分自身の時代を、時代精神に迎合するのではなく思索し、生きた時代の人々を描き出し、現在に提示しようとしている。
「要するに、今日の状況からいえば、ほとんど忘れられかけている昨日の世界のことである。(中略)私自身が身を置いていた、私の昨日の世界についてのスケッチに、少しでも興味をもって頂ける読者を見出せれば幸いである。時代に強いられた、第二次世界大戦と敗戦という深淵によって哲学することを強いられた世代の人間として、少しでも自然体で平明に書いたエンターティメントと解して下されば幸いである」
ここには、哲学する精神と身体が存在している、その価値が語られている。と同時に、その時代を、様々な中心と周辺から語っていく、語りのエンターティメントがある。日本の一時期の京大哲学科の才能個性の興味深い紹介にもなっている。
今、唐木順三の本は、文学全集収録以外では、ほとんど絶版になっているようだ。『三太郎の日記』や三木清を思いだし、『二十歳のエチュード』を思って、ちょっとへへへと思い、和辻哲郎や九鬼周造を読んでいなかったことに気づいた。そして、西田幾多郎。この本で紹介されている入門書を手にしようか思った。そしてそして、もちろん、唐木順三。中世に、「無常」に、「無用者」にと思索を深めていく唐木を、「考える人 思想する人」として、また戦後の思想的流れの中で、むしろその思索が「反時代的」であるとすることに、独自の思想家としての唐木順三の面目を探る筆致は、唐木順三への思いが溢れ、この本の読者に、唐木の文章に触れたいという欲求を起こさせる。
出版社、いまでも、なお、出版社の役割の大きさを感じながら、せめて「あとがき」に書かれた粕谷一希の言葉に読書する僕らの希望を託してみたくなったりする。
「編集や出版について哲学することは、編集者である私の義務に思えたのである」
さらに
「唐木順三の思考の深まりと拡がりを考えることを通して、理念型としての編集と出版の意味を、具体的に実感できるのではないかと私は考えたのであった」
この本、出版社は「藤原書店」。がんばれ!出版社。
「要するに、今日の状況からいえば、ほとんど忘れられかけている昨日の世界のことである。(中略)私自身が身を置いていた、私の昨日の世界についてのスケッチに、少しでも興味をもって頂ける読者を見出せれば幸いである。時代に強いられた、第二次世界大戦と敗戦という深淵によって哲学することを強いられた世代の人間として、少しでも自然体で平明に書いたエンターティメントと解して下されば幸いである」
ここには、哲学する精神と身体が存在している、その価値が語られている。と同時に、その時代を、様々な中心と周辺から語っていく、語りのエンターティメントがある。日本の一時期の京大哲学科の才能個性の興味深い紹介にもなっている。
今、唐木順三の本は、文学全集収録以外では、ほとんど絶版になっているようだ。『三太郎の日記』や三木清を思いだし、『二十歳のエチュード』を思って、ちょっとへへへと思い、和辻哲郎や九鬼周造を読んでいなかったことに気づいた。そして、西田幾多郎。この本で紹介されている入門書を手にしようか思った。そしてそして、もちろん、唐木順三。中世に、「無常」に、「無用者」にと思索を深めていく唐木を、「考える人 思想する人」として、また戦後の思想的流れの中で、むしろその思索が「反時代的」であるとすることに、独自の思想家としての唐木順三の面目を探る筆致は、唐木順三への思いが溢れ、この本の読者に、唐木の文章に触れたいという欲求を起こさせる。
出版社、いまでも、なお、出版社の役割の大きさを感じながら、せめて「あとがき」に書かれた粕谷一希の言葉に読書する僕らの希望を託してみたくなったりする。
「編集や出版について哲学することは、編集者である私の義務に思えたのである」
さらに
「唐木順三の思考の深まりと拡がりを考えることを通して、理念型としての編集と出版の意味を、具体的に実感できるのではないかと私は考えたのであった」
この本、出版社は「藤原書店」。がんばれ!出版社。