著者は、公認心理師・臨床心理士という肩書になっている。
「現代思想」や「ユリイカ」「こころの科学」などに初出の文章を収めた一冊。「暴力」という問題について考えていた時に出会った本だった。
依存症、DV、虐待、トラウマなどを生みだす背景、その現れ方、そしてそこにある制度や権力の問題、それを含めた語彙や現在の対処法の問題などを、
臨床を基盤にしながら記述していく。
そこには報告、思索、提言があり、ほんのちょっとだけでも知ったつもりでいた自分自身が、実は何も知らないでいたと気づかされた。
と、同時に自分自身の中にある価値観がどんなに自らを縛っているか、あるいは心地よく思わせているか、
だからこそ、それがどんなに疑わしいものか、おぞましい(?)あるいは、おそろしい(?)ものかと思わせる本だった。
そんな本は結構多くて、というか最近、そんな思いばかりする。
黒川伊保子を読んでもそうだったし。そうだそうだと思いながらも、ああ、そんなだったよなと思ったり、
えっ、こっちの感覚でいたよとか感じて愕然としたり。
少し前に読んだ『戦争は女の顔をしていない』には、あるはずだと思っていたのに、気づかないようにしていた何ものかに連れだされて出会わされた。
開き直れば、だからこそ、本を読むのだが……。
で、この本の中にフーコーの考えを引いた部分がある。
「ある行為をどう定義するかを〈状況の定義権〉と呼ぶが、それこそが権力そのものであると哲学者M・フーコーは述べた。」と書き、
DVの父親が「家族という状況の定義権は自分にあると信じて疑わなかったが」と続く。家族であれば、これが家族の中での自身の権力発動そのものになる。
考えてみれば、同様のことを国家間でも行ってしまう。「暴力」という構図の中では個対個の関係が、本来複数性を持つはずの集団対集団の関係でも同じ構図で起こりうる。
さらに、この本に書かれた「洗脳」の方法にまで触れれば、集団が巨大な一個の個になり得る状態が見えるのかもしれない。
「結婚と同時に、彼らは、状況の定義権を妻から奪うこと(妻に許さないこと)に腐心する。いや、楽しみながらそれを行うと言ってもいい。
植物にたとえれば、妻の育ってきた土壌から根っこを抜き、自分と同じ鉢に移植する作業に似ている。根っこを抜くために有効なのは、
否定し罵倒することでそれまでの妻の依拠していた自信を破壊し打ち砕くことだ。身体的暴力はそのための一つに過ぎない。
根っこを引き抜いてしまえば、あとは自分の植木鉢のルールに従って育てるだけである。これはあらゆる洗脳に共通のプロセスだ。」
結果、妻は夫の定義の「ワールドだけが彼女たちの世界」になり、「自発的服従によって支配は貫徹される」と書かれる。
かつて国家が、現在もおそらく国家が行う、集団が行う「洗脳」は、すでに社会的最小単位でも行われているのだ。
いや、すでにではなく、構図として同時的に相補的にあるのだ。
補完と連続。暴力の連鎖というが、それは微細と極大ではなく、遍在と偏在でもなく、様々なる様態であり、擬態なのかもしれない。
この本の痛みの否定と承認の文章も面白かった。
痛くて泣いた相手に、「痛くないよ」と言うのと、「痛いの痛いの飛んでけ」の違い。痛いの感覚主体を奪われるとどこにいくのかという問い。
それが生存の基盤を奪うということになるという言葉は、ちょうど並行して読んでいた高橋源一郎の『ぼくらの戦争なんだぜ』と重なった。