パオと高床

あこがれの移動と定住

信田さよ子『暴力とアディクション』(青土社 2024年3月5日)

2024-05-29 03:48:24 | 国内・エッセイ・評論

著者は、公認心理師・臨床心理士という肩書になっている。
「現代思想」や「ユリイカ」「こころの科学」などに初出の文章を収めた一冊。「暴力」という問題について考えていた時に出会った本だった。

依存症、DV、虐待、トラウマなどを生みだす背景、その現れ方、そしてそこにある制度や権力の問題、それを含めた語彙や現在の対処法の問題などを、
臨床を基盤にしながら記述していく。
そこには報告、思索、提言があり、ほんのちょっとだけでも知ったつもりでいた自分自身が、実は何も知らないでいたと気づかされた。
と、同時に自分自身の中にある価値観がどんなに自らを縛っているか、あるいは心地よく思わせているか、
だからこそ、それがどんなに疑わしいものか、おぞましい(?)あるいは、おそろしい(?)ものかと思わせる本だった。
そんな本は結構多くて、というか最近、そんな思いばかりする。
黒川伊保子を読んでもそうだったし。そうだそうだと思いながらも、ああ、そんなだったよなと思ったり、
えっ、こっちの感覚でいたよとか感じて愕然としたり。
少し前に読んだ『戦争は女の顔をしていない』には、あるはずだと思っていたのに、気づかないようにしていた何ものかに連れだされて出会わされた。
開き直れば、だからこそ、本を読むのだが……。

で、この本の中にフーコーの考えを引いた部分がある。
「ある行為をどう定義するかを〈状況の定義権〉と呼ぶが、それこそが権力そのものであると哲学者M・フーコーは述べた。」と書き、
DVの父親が「家族という状況の定義権は自分にあると信じて疑わなかったが」と続く。家族であれば、これが家族の中での自身の権力発動そのものになる。
考えてみれば、同様のことを国家間でも行ってしまう。「暴力」という構図の中では個対個の関係が、本来複数性を持つはずの集団対集団の関係でも同じ構図で起こりうる。
さらに、この本に書かれた「洗脳」の方法にまで触れれば、集団が巨大な一個の個になり得る状態が見えるのかもしれない。
「結婚と同時に、彼らは、状況の定義権を妻から奪うこと(妻に許さないこと)に腐心する。いや、楽しみながらそれを行うと言ってもいい。
植物にたとえれば、妻の育ってきた土壌から根っこを抜き、自分と同じ鉢に移植する作業に似ている。根っこを抜くために有効なのは、
否定し罵倒することでそれまでの妻の依拠していた自信を破壊し打ち砕くことだ。身体的暴力はそのための一つに過ぎない。
根っこを引き抜いてしまえば、あとは自分の植木鉢のルールに従って育てるだけである。これはあらゆる洗脳に共通のプロセスだ。」
結果、妻は夫の定義の「ワールドだけが彼女たちの世界」になり、「自発的服従によって支配は貫徹される」と書かれる。
かつて国家が、現在もおそらく国家が行う、集団が行う「洗脳」は、すでに社会的最小単位でも行われているのだ。
いや、すでにではなく、構図として同時的に相補的にあるのだ。
補完と連続。暴力の連鎖というが、それは微細と極大ではなく、遍在と偏在でもなく、様々なる様態であり、擬態なのかもしれない。

この本の痛みの否定と承認の文章も面白かった。
痛くて泣いた相手に、「痛くないよ」と言うのと、「痛いの痛いの飛んでけ」の違い。痛いの感覚主体を奪われるとどこにいくのかという問い。
それが生存の基盤を奪うということになるという言葉は、ちょうど並行して読んでいた高橋源一郎の『ぼくらの戦争なんだぜ』と重なった。
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ヨン・フォッセ『だれか、来る』河合純枝訳(白水社 2024年1月5日)

2024-05-24 15:58:58 | 詩・戯曲その他

2023年にノーベル文学賞を受賞したノルウェーの作家の初の邦訳作品。
戯曲、小説、詩など広い執筆活動を展開している作家で、解説によると本人は自身を「詩人」と定義しているらしい。
で、この作品は戯曲である。
第7場からなり、登場人物は、彼、彼女、男の三人。場は海に面した入江にある家の庭とその中に限られている。
その家はノルウェーの西海岸の入江にあり、人の暮らす場所からは遠く、フィヨルドの海岸を連想させる。
彼と彼女は人から離れて、二人だけの暮らしをしたいと、この家を買い、逃げて(?)来た。

彼女 (陽気に)もうすぐ私たちの家に入れる
彼  おれたちの家
彼女 古いすてきな家
   他の家から遠く離れて
   そして他の人たちからも
彼  君とおれ二人だけ
彼女 だけではなくて
   二人で 一緒
   (彼の顔を見上げる)
   私たちの家
   この家で一緒に住む
   あなたと私
   二人だけで 一緒

これが冒頭の入りの会話だ。
二人だけの、二人で一人の暮らしを求める。だが、すでに二人には不安が兆す。
「だれか 来る」、「きっとだれか やってくる」と。期待して待つ「だれか」ではない。そして、来るのは予感ではなく、ほとんど確信に近い。
すでにベケットの『ゴドーを待ちながら』がベースにあるのだろうと推察できる。
ただ、「ゴドーが来た」といったそこからパロディーや二次的創造を行った戯曲ではない。

やってくるだれかをめぐる彼と彼女の会話の中にあるずれ。そして、訪れた男をめぐる彼と彼女のまなざしの動き。
彼らはわずかなまなざしの動きで、相手の心を自分の心を微妙に絡ませていく。それは交差と離反を繰り返す。静かに孤独が沁みだしてくる。
相手への疑いだけではなく、疑いを生みだしていく孤独が戯曲から立ちあがってくる。
やって来ないゴドーというのは辛かったが、現れてしまうだれかというのも辛い。
来るだれかによって、訪れる状況の怖さは、何もホラーだけではないのだ。
彼と彼女と男は、この入江の中で静かな生活を営めなかったのだろうか。なぜ、営めないのだろうか。

引用した部分でもわかるように、セリフは、セリフの訳は、詩のような行替えをしながら、短い会話を刻んでいく。
そして、たくさんの「間」が置かれていく。まるで、その「間」の中に存在のありかが隠れているように。
何かが起きるわけではない。ただ、ここには何も起こらないが存在を包む何かがある。人をずれさせる微妙な状況の動き。
その時、存在はどこか疎外される。求める状況から逸らされるように。

家のなかにある以前住んでいた人の生活の痕跡が、累積する時間と死の気配を伝えている。
作られた演劇空間自体が、そこに登場する人物を少しずつ不安にさせ、おびやかしていく。

戯曲なので演出によってさまざまな演劇ができるだろうと思う。その演出的解釈も広く取り得る戯曲だと思った。

また、解説が懇切だ。
それによると書かれた言葉は、ノルウェーの二つの公用語のうち西海岸で使われる少数派の、辺境語ともみなされがちな「ニーノルシュク」。
この言葉は「書き言葉」であるということで、フォッセはそれを「話し言葉」として使う試みを行っているらしい。その地域言語が世界へと出かけていく。すごいな。
それにしても翻訳はたいへんだっただろうと思う。
含意のある日本語だと思った。
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