パオと高床

あこがれの移動と定住

パトリシア・ハイスミス「かたつむり観察者」小倉多加志訳(早川書房『11の物語』)

2016-06-26 17:23:34 | 海外・小説

田島安江という詩人の詩にこんな一節が出てくる。

 畑に雨が降ると
 カタツムリがどこからか現れる
 パトリシア・ハイスミスの短篇に
 カタツムリに殺される男の話が出てくる

で、気になっていながら、いつか忘れていた作家の名前に出会った。
今回こそは彼女の小説一つぐらい読もう。何度読もうとしながら忘れてしまっていたか。
この本は11の物語からなる短編集。裏表紙の紹介文は「忘れることを許されぬ物語11篇を収録」とある。

主人公ノッパード氏は台所のボウルの中にいた2匹の食用かたつむりが行う優雅ななまめかしい振る舞いを
目撃する。そして、そのかたつむりの繁殖行動に彼は惹きつけられてしまう。産卵していくかたつむりを
書斎で飼う彼。かたつむりは増殖を重ね、書斎は怖ろしい状況になっていく。
むかし、「ウルトラQ」にナメゴンというナメクジの怪獣が現れたが、あの怪獣も粘液質の皮膚感覚を伴っ
た気持ち悪さがあったが、これはそれに、さらに、小さいものが無数にいるというざわつくような皮膚感覚
まで加わる。確かに「忘れることを許されぬ」小説だ。というより忘れないだろう、これは。かりに忘れて
しまうと、梅雨の時期などにふいに記憶が復活しそうだ。

かたつむりを観察し、惹かれたものが、逆にかたつむりの中に埋没してしまう恐怖。ただ、この小説はそん
な理屈はいらないのかもしれない。ただ、崩れている。その危険な快楽がある。
それにしても、かたつむりを熟視し続ける感性というものがあるのだということが、面白い。そう、ボクの
嗜好から気味悪いと思ったが、千差万別、嗜好には多様性があるのだ。とてつもなく愛らしさを感じる感性
だって、もちろん、あるのだ。
それから、かたつむりの求愛行為は、この小説に書かれているようなのだろうか。そうだとしたら、確かに
優雅で官能的だ。それを見つめる観察者は、超一級の観察者だと思う。
小説の原題は訳通り、そのものずばりで、「The Snail-Watcher」。
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日原正彦『163のかけら』(ふたば工房)

2016-06-18 09:45:17 | 詩・戯曲その他
詩集名の通り163篇の短い詩によって構成された詩集だ。それぞれの詩には数字だけが打たれていて題名はない。

「かけら」は最初から「かけら」としてあるのだろうか。作者はあとがきで書く。

  かけらはかけらであるにすぎません。それらがいくつ寄り集まったとしても、
 一つの統一体を為すことはありません。

ただ、「かけら」は統一された全体が崩れて「かけら」になったのではないだろうか。あらゆるものが存在しながら、
いや多分存在すら不明のものまでが含まれた全的な世界が崩壊したときに、詩人は紡ぐように「かけら」を生み出して
いくのかもしれない。日原さんが描き出した163の「かけら」に触れながら、崩れた世界の「かけら」から世界の影
に、世界の実相に触れようとする言葉の身震いのようなものを感じた。それは、作者が書くように「統一体」を為そう
とするものではないのかもしれない。なぜなら統一体として考えるには世界は矛盾に充ちている。他者を自己に取り込
む統一は欺瞞なのかもしれないという思考や、生に向かうように死にも向かうというベクトルの相反性への思い、言葉
に定着させた途端にすり抜けていく言葉たち、なくなることによってしか実在を証明できないかのような「もの」の群
れ、それらを感じる感性やそれらがよぎる思索には、統一し体系化される世界は、どこか強引すぎるものなのかもしれ
ない。むしろ、「かけら」が「かけら」としてある世界の姿こそが親和性が高いものなのかもしれない。
だから、詩語も相反する姿を見せる。詩的な喩などの修辞を嫌ったような詩句と詩的な言葉に吸引されていくような詩
句、詩と非詩が共生する。そして、そのことが言葉への信頼から不信を経て、言葉が世界であることの否応なさの中で
言葉を宿命的に引き受けなければならない詩人の姿と呼応する。

 あなたは知っているか
 詩人はことばの操り師ではない
 ことばの栽培家ではない
 ことばの飼育者ではない
 彼はことばの家でことばと言い争った末に
 ことばに絶望して家出した者だ
 だが 結局
 長いさすらいの末に
 ことばへと帰ってきた者である
 総身を
 傷だらけの無言のままに
         (125)

そして、この「無言」の帰宅をした者は、次の章でこう書きつける。

 詩は 自分という家に住んでいる
 自分のことを書くものではなく
 
 自分という家から出てゆく
 自分のことを書くものだ

 花はひらいておのれの美しさを忘れ
 鳥は飛んで空の深さを忘れる
         (126)

帰還はない。美しさや深さから切り離される今と明日へ、投企し続けるしかないのだ。しかも、この投企はどうしよう
もなく死を宿しているが、今こそ、この時、には生である。

 私は光の降りそそぐベランダに立つ
 降りそそぐ光によって
 立たされていると言っても同じことだ

 私は生きている
 生まれていない私とともに
 死んでしまった私とともに

 生かされている
        (129)

思索的な詩を引用してしまったが、この詩集の魅力は思索の動きだけにあるのではない。それが詩句と絶妙のバランスを
取っている詩も魅力的なのだ。

 深い木下闇のなかを
 鼻先を青臭くさせて抜けてきた猫よ

 死骸ではなく
 死 は
 どんなふうに匂うのか
       (55)

とか、

 夜の仄明るい窓から ぼくらが
 揺れる樹の葉のさやぎをのぞくように
 樹は 青黒い葉の窓からじっと
 ぼくらの心のゆらぎをみつめている

 樹がぼくらをさやぐのか
 ぼくらが樹をゆらぐのか

 世界にとっては同じことだ
        (58)

なども。
この詩の「ぼくら」とは誰なのだろう。背後に静謐な死の気配がある。擬人法が遣われている。だから、まるで樹の気持ち
になっているようだが、そんなことはない。むしろこれは、実存の対峙である。見るー見られるの関係の逆転あるいは同質
性だ。サルトルなら嘔吐したのだろう。だが、詩人は、これを世界の側から見つめる。樹と「ぼくら」のいずれの自己にも
依拠しない。ただ、「みつめる」になろうとしている。そして受け入れようとする。それが静かな痛切感を滲ませる。
これは、こういう詩句も生みだす。

 悲しい目で見あげても
 嬉しい目で仰いでも

 それがどうした
 銀杏は
 ただ単に銀杏である

 黄金色だなんて言うな
        (81)

突き放しているのではない。「ある」を「ある」に返しているとでも言えばいいのだろうか。
生まれて死ぬ。世界はそれを繰り返す。関係の糸が張りめぐらされ、関係づけられていくと同時に関係性と切り離されて
存在する「ある」の独自性を見つめる。しかし、それは独自性でありながら等質でもあるという非情さも抱え込んでいる。
それらを詩人は描きだしていく。決して傲慢にはならず。非情の眼差しを持ちながらも言葉はぬくもりを帯びている。だ
から、読者は深く考える前に飛び込んでくる言葉を受けとめることができる。そこから思考がゆらりと立ちあがってくるのだ。
どこに付箋をはるか。その時の心の状態が決めてくれるだろう。
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恒成美代子『秋光記』(『現代女性歌人叢書10』ながらみ書房)

2016-06-12 11:05:05 | 詩・戯曲その他
秋色に、雲か風か日ざしのような白が刷毛のよう流れる、端正でありながら瀟洒な装幀の歌集だ。

「秋光」という言葉に引かれた。「しうくわう」と仮名づけられている。
秋の光は「白秋」でありながら、柔らかな光を注いでいる。私たちの日常は、守るや守らないに関わらず、
そこにありながらそこを離れる気配を孕む。春の日ざしはまだ日常を育てず、夏はまぶしさに思わず眼を
背けてしまう。秋が静かに日々を木漏れ日の中に置く。冬をどう思うか、それはいまだ「玄」なる中にあり、
今、この時がまさに秋光に包まれる。この日ざしは射すものではない。包むものかもしれない。

 深みゆく秋は秋のやさしさにムラサキシキブのむらさきの珠 (「さびしい指」)
 秋光のやはらに差してこんな日は〈平凡〉といふ暮らし尊ぶ(「秋光記」)

ある時期、退屈な日常は唾棄すべきものだという疾風のような時があった。だが、私たちは日常が、
常に非日常の侵犯にさらされていることを知ってしまった。日々は忘れ去られるものと残り続けるものを分かちながら、
でも堆く積みあげられていく。
実はこれは伝統的な表現である短歌そのものの世界とも重なっているように思う。その豊穣な歴史の中に歌人の営為が
つながれている。おそらく、短歌の持つ、言葉への信頼感は、歌人が受け入れるにしろ反発するにしろ、その短歌の歴史と
今ある自身がつながれているという感覚によって、保証されているところからくるのかもしれない。
例えば

 いはばしる垂水のごとくしぶき立て出掛くる夫に窓ゆ手を振る(「旧・長酣居」)

この一首、「いはばしる」は枕詞だから「垂水」がくるのは当然と言えば当然だが、だからこそ
「いはばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」を連想するし、そうなると万葉集とこの歌との
下の句の段差が際立って面白いのだ。
で、そこまで思えば「窓ゆ手を振る」があの有名な歌「あかねさす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖振る」とも絡まって、
思わず笑ってしまう。もちろん、こう思わなくても、上の句と下の句の落差で十分面白いのだが。
他にもいくつかの歌があるのだが、「ははそはのはは」が用いられた歌は、斎藤茂吉の歌とも重なりながら胸に迫ってきた。
歌人の独自の言葉の力を持ちながら、それを書きつないできた多くの歌人たちの言葉が根となり支えている力を感じる。
だからこそ選び抜かれた言葉が、通常僕たちが日常的に使う言葉の姿をまとっていても別の深層を持っているだ。
例えば

 決断の時いまなりや しりぞくもすすむも躊躇ふ有明の月(「冬の沼」)

何を決断するかは歌集の中から読者として想像するのだが、歌は作者の決断を離れて読者それぞれの決断に変わる。
「有明の月」がいい。この月が時間を超えて、そこにあるのだ。
この歌、決断に困ることがあってずっと悩んでいるときに思わず口ずさみそう。この「冬の沼」から二首。

 久留米より抱へて帰る大根の重たさは〈愛〉の重さといふべし
 岸の辺の一樹映して泰然としかも澄みゐる冬の沼あり

歌集の楽しさは同じ素材がどう歌の時間を生きたかが感じられるところにもあって、こんな二首。

 南京黄櫨の種子より育てし一木のもみぢ散りゆき素裸となる(「嘘つぱち」)
 南京黄櫨のまろき新芽のほぐれ初め露したたりて朝の日を受く(「平常心」)

この二首の間に12ページの隔たりがあって、そのページの隔たりに、めぐる季節分の時が横たわっている。もちろんそこに
多くの歌がある。また、「種子より育てし」には「南京黄櫨」と共にあった歌人の生きた時間が重なっている。それが歌一首と、
歌相互の間からにじみ出ているのだ。これは歌集の醍醐味の一つだと思う。
いけない、いけない。引用しすぎてはいけない。
お気に入りの歌を並べだしたらきりがないので、現在の熊本への思いを込めて歌集の中から江津湖の一首を。

 雨霧は江津湖をつつみかなたより水鳥の声かりそめならず(「雨の江津湖」)

漢詩が杭州西湖を詠んだのとは違った、短歌の面持ちと情感がある歌だと思う。
歌集には花の歌も多いが季節は少し違うが、雨ということで、

 丈高き皇帝ダリアも雨に濡れ彼方に霞む耳納連山(みなふれんざん)(「筑後往還」)

博多のこれからの季節に向けて引用一首。この言葉がこういうふうに詩語になるのだという歌。

 「博多祇園山笠」がすめばほんたうの夏になるのだ 博多の街は
                     (「ほんたうの夏ー博多祇園山笠」)

冒頭漢字の固有名詞で攻めて、「が」から「の」までの平仮名並びと「ほんたう」という歴史的仮名遣い表記。
これが「本当」ではなく「ほんたう」というのがいいな。「のだ」の断定もいいな。「町」が「街」なのも。
少し言葉をずらすことで普段遣いの言葉が違ってくる。そうだ。言葉は先取して熟成させるのだ。

 ゆふがほの種子まだ固くもうすこし待たねばならぬ 待つことだいじ(「秋光記」)


歌集は母と私の日々を一つの流れとして持っている。その流れにボクは心を掴まれた、歌集最後の一首まで。
もちろん歌集中の歌は様々な姿を見せてくれる。再読するときは、どの一首に心が止まるだろうか。
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