対話への接近が、詩を演劇空間に近づける。その対話の楽しみは、対話の成立と同じだけの対話の不成立のうちにある。それは、ずれ続ける主体間の交流であり、対話の枠組みの広がりは、ずれの連鎖の広がりになる。ただ、そこに収束の境界を刻むのは現代の不幸の体現である。対話の無限空間は、現代にあっては実は対話の不可能性という限界設定で区切られてしまう。それが、哀しいのか。あるいは笑えるのか。
ある時期、ボクらが出会ったポストモダンは、出会ってしまったと出会うことができたの両方を天秤にかけながら、ボクらの微妙な宙づりを実践していった。そして、それは着地点の見極めがたさを準備はしたが、決して、中空を用意はしなかった。なぜなら、そこには過剰なシニフィアンとシニフィエのせめぎ合いがあったからだ。それがボクたちに開いた地平は、中空とは別の地平だったのだ。着地の困難は浮遊の宿命であって、浮遊の空虚を語っているわけではない。言葉のしなやかな強靱さを生み出すために、意匠がしつらえられる。その鮮度を支えるのは、決して純度ではない。であれば、詩が近接しようとする演劇空間は、有効な地平を切り開くものなのかもしれない。
「六分儀」という詩誌の樋口伸子さんの詩「うまおいかけて」。この題名は「うまをおいかけて」ではない。助詞は省かれている。この詩は、こう始まる。
うまがおいかけてくるのです
え うまが?
そう、「が」という助詞で始まるのだ。主体は相手に委ねられている。そこに、受け応えする対話の相手が現れる。その対話空間で主体はどうにか確保される。聞かれることで、聞かれた相手は主体性を保つのだ。もちろん、聞くー聞かれるの関係としての成立である。繰り返して引用する。
うまがおいかけてくるのです
え うまが?
はい 馬がですね まいあさまいばん
ほう 毎朝毎晩 どこから?
そりゃ うしろからですよ へんですか?
いや へんじゃないけど
あーんして 大きな声を出して
馬の声をだすんですか
いえ あなたの声ですよ
まあ いやらしい せんせ
さくらさいて ちって またさいて
別役実を連想するか、寺山修司を連想するか。対話にはなっているのだが、対話が成立しているわけではない。聞かれたことに応えているが、共感された空間が作り出されているわけではなく、しかし、共時的な場ではある。対話の形式が場を生み出しているのだ。そして、その対話は一方の精神に移行する。さらに、文字。ひらがなと漢字の追いかけっこがある。しかし、それも均衡のバランスに徹底されるわけではない。この連での立場は「せんせ」と「あなた」であるわたし=患者となっている。「うま」「うしろから」「声」「いやらしい」が微妙にそのいやらしさに収斂していく。しかし、それは「うま」に何を読むかで変わるのかもしれない。と、思わせておきながら、この「うま」、実は「馬」そのものでもあるようで、というのも、第二連が「おんな」になるからだ。それぞれを喩として、比喩されたものを考えるより、強迫する何ものかと考えていいのかもしれない。第二連はこうなる。
おんながおいかけてくるのです
え おんなが?
はい 女がですね まいあさまいばん
ほう 毎朝毎晩 どこから?
そりゃ まえからですよ へんですか?
いや へんじゃないけど
あーんして ちょっと声を出して
女の声を出すんですか?
まさか きみの声ですよ
そんな はじしらずな せんぱい
きみの声だよ なにが恥知らずなもんか
それよりちゃんと診察してくださいよ
研修じゃないのですから
ほら あの女が また窓の外に
はながちって ちって またさいて
第一連の言い回しをなぞりながら、二連ははみ出していく。「せんせ」は「せんぱい」になっているのだが、第一連からの「せんせ」と患者の図式は残り続ける。一連の患者は女だろうが、二連では、患者は「男」になっているようだ。もちろん特定はできない。ただ、一連の患者が、二連では「おいかける」側の「おんな」になっているようで、そうすると、診察してもらっている男は、第一連で診察していた医者になり、第二連で診察する医者はその第一連の医者の「せんぱい」の医者になる。患者と医者の連鎖。さいて、ちる「さくら」から「はな」へは、時の経過か。すると第三連が、どうつながるかに興味が湧く。どこにむかって動かすのか。ここで、強迫に追跡のテーマが重なり出す。それは、追うと追われるの実体探しになる。が、その前に、追跡は「お巡りさん」を呼び込む。
かんじゃがおいかけてくるのです
え かんじゃ ですか?
そうです 患者が まいあさまいばん
ほほう 毎朝毎晩 どこから?
あっちからも こっちからも へんでしょ?
ははぁ それはへんですな
もっと話してください調書をとりましょう
そんな 脅してもだめですよ お巡りさん
なにが脅しですか 初めから説明をして下さい
「かんじゃ」が「おいかけてくる」のだが、その「かんじゃ」が医者だったのだから、すでに「患者」と「医者」は循環し始める。つまり、医者である患者を診た医者は、次に患者になって、別の医者に診せるわけだから。それが、「あっちからも こっちからも」ということになるのだ。そして、相談相手は、医者ではなく、「お巡りさん」になる。なぜか。追うと追われるの関係は、探偵と犯人、あるいはお巡りと市民の関係だからだ。
ここから一気に対話の転換が始まる。お互いの立場表明をするように混乱が混乱を生み出す対話空間が出現する。
いや その目はわたしを疑っています
きっと犯罪者にしようとしています わたしを
でもね せけんが許しませんよ世間が
犯罪者を追うのはわたしの務めなのです
ほらね そういって 追っかけてくる
「わたし」という一人称が登場する。語り手は自分を人称を使って語る。聞かれたことへの応答ではなく、「わたし」が「わたし」を主張する。調書をとられている「わたし」ととっている「わたし」が記述される。追われる強迫観念が「わたし」に言葉を吐かせる。
ドーン と机を叩いたって喋りませんからね
あんたは毎日わたしをつけ回しているでしょ
あんたこそストーカー 立派な犯罪だ
なにをいってるんですか支離滅裂なことばかり
ちゃんと出るところに出て話してください
へっ 地を出してきましたね
つぎはカツ丼を出すつもりですか
医者の立場からいえばあれはよろしくない
それは善良なカツ丼に対する冒涜です
そちらこそ善良な市民を侮辱している
いや ただしい日本語を凌辱するものだ
演劇の対話の場が再現されている。「カツ丼」の笑いなどは、ある古風さが、むしろ共同体への幻想を示しているようだ。「冒涜」「侮辱」「凌辱」の移動に限らず、セリフがセリフを誘発しながら、不条理と条理の境を駆け抜ける。表現は、その表現形態を作者がつかみ取った始まりを、滲ませる。それは、かつての言葉を詩の中で復権する作業になる場合もある。一部中略するが、その後、詩句は以下のようにつながって、第一連から三連を位置づける。
はは 何かといやぁヒンヒン馬みたいに
だから 馬が追ってくると初めにいったろ
あれは女だったろうが さくらのせいにするな
大体あんたは患者か医者か おい!
オイとはなんだ 一般市民を愚弄するのか
あんただって 一般警官を愚弄してるぞ
お巡りだなんていうな 犬じゃないんだ
官憲の犬っていうじゃないか 猫ならいいのか
それは一般犬や一般猫に失礼だろうが
せめて黄粉黒豚くらいにしてくれ
これじゃいつまでも埒があかない
仕切り直しをしようじゃないか
この部分の最初四行で、馬から患者まで、男と女が入れ代わって記述される。演技による仮装が読みとれる。言葉が支配の触手を伸ばしている。そう、馬から「さくら」が出てくるのだ。馬肉は「さくら」である。
また、「官憲」や「犬」という言葉が、ある時代性を持った言葉となって、復権される。むしろ、その時代の残映を引きずり込むように。先程も書いたが、寺山たちの活動を連想する。あるいは山上たつひこの過激なマンガの残像を見る。暴かれていくのは、言葉が言葉を支配していく権力の構造かもしれない。警官と市民のやりとりは、追跡のテーマから権力の問題につながる。もちろん、この権力が強固な反権力を呼び込むことは、すでにない。むしろ、ネッワーク化し、移行し続ける権力の流動化が見てとれる。はたして、権力を糾弾した反権力は、単に糾弾するための反権力の言葉によっては表現の獲得にはなりえなかった。いわゆるアングラといわれた演劇は、権力の構造を舞台に創出することで、その演劇自体が反権力の時間と場所を呈示し得たのだ。舞台の中に支配―被支配構造があるように、劇場とその外に置いては日常―非日常といった支配と被支配のせめぎ合いが成立していた。それは政治的言説や日常的言語の枠の外から、それ自体の足下をすくった。それが、現在のように権力の委譲が流動化し日常化した場合、それに対峙する言葉の空間は、どのような成立の場をもつのだろうか。その問いに対する、一つの表現のあり方が、この詩の演劇的空間になっているのかもしれない。日常の裂け目を狙って、そこから非日常の異形性を引っ張り出し、逆に日常を異化するという常套的な手法が、まず、ある。あるいは、徹底して日常と乖離した言葉を使い、別の時空を生み出そうとする営為に賭ける手法もあるのだろう。この詩は、その手法を演劇に帰している。日常と乖離せず、観念や情感の宿らない言葉を使いながら、対話自体で別の場である対話空間を作り出そうとしている。わざわざ、バフチンを登場させるのは大仰かもしれないが、場に出会わせて、その場を共有しようとしたときに現れた方法のように思えるのだ。「仕切り直しをしようじゃないか」のあと、この連を終わらせる詩句は、
望むところだ 詩人じゃあるまいし
死後硬直した詩語の使いまわしなんて
である。そして、最終連の前の連、出前のように登場するのは「調書」である。
おまたせしました
こちら調書になります
これでよろしかったでしょうか?
はい ぜんぜん 大丈夫です
ねつ造される「調書」とまでは言わない。しかし、お手軽な調書の中に、「わたし」は位置づけられる。だが、追跡を重ねた「わたし」は、すでに本来性からは遠くにきてしまっている。最終連は不思議な明るさが詩を包み込む。
空はくるりと裏返しになり
犬と猫が笑いながら次つぎに降ってきた 馬も
これはたのしいどしゃ降りだ
けれど ぼくの帰る家は
もう なかった
(「うまおいかけて」一部省略)
「わたし」ではなく人称は「ぼく」になっている。追いかけていく主体は、「ぼく」を残していて、「調書」の記述者を登場させる。この追い続けた結果、登場した「ぼく」には、もう「帰る家」はない。このラストを突き放しととるか、一抹のかなしみととるか。「たのしいどしゃ降り」が導き出すのは、やはり明るいニヒリズムではないだろうか。
この詩、強固な権力や近代に対して、アンチやポストが生み出した流れの、それ以降に思いを馳せていく方向性が、現在との関係でとり得る詩の姿のひとつではないだろうかと思う。
もちろん作者にとって、ここまでボクの書いた堅苦しい読みは、しなやかさにとっての邪魔に過ぎないのではないかという気もしているのだが。
ある時期、ボクらが出会ったポストモダンは、出会ってしまったと出会うことができたの両方を天秤にかけながら、ボクらの微妙な宙づりを実践していった。そして、それは着地点の見極めがたさを準備はしたが、決して、中空を用意はしなかった。なぜなら、そこには過剰なシニフィアンとシニフィエのせめぎ合いがあったからだ。それがボクたちに開いた地平は、中空とは別の地平だったのだ。着地の困難は浮遊の宿命であって、浮遊の空虚を語っているわけではない。言葉のしなやかな強靱さを生み出すために、意匠がしつらえられる。その鮮度を支えるのは、決して純度ではない。であれば、詩が近接しようとする演劇空間は、有効な地平を切り開くものなのかもしれない。
「六分儀」という詩誌の樋口伸子さんの詩「うまおいかけて」。この題名は「うまをおいかけて」ではない。助詞は省かれている。この詩は、こう始まる。
うまがおいかけてくるのです
え うまが?
そう、「が」という助詞で始まるのだ。主体は相手に委ねられている。そこに、受け応えする対話の相手が現れる。その対話空間で主体はどうにか確保される。聞かれることで、聞かれた相手は主体性を保つのだ。もちろん、聞くー聞かれるの関係としての成立である。繰り返して引用する。
うまがおいかけてくるのです
え うまが?
はい 馬がですね まいあさまいばん
ほう 毎朝毎晩 どこから?
そりゃ うしろからですよ へんですか?
いや へんじゃないけど
あーんして 大きな声を出して
馬の声をだすんですか
いえ あなたの声ですよ
まあ いやらしい せんせ
さくらさいて ちって またさいて
別役実を連想するか、寺山修司を連想するか。対話にはなっているのだが、対話が成立しているわけではない。聞かれたことに応えているが、共感された空間が作り出されているわけではなく、しかし、共時的な場ではある。対話の形式が場を生み出しているのだ。そして、その対話は一方の精神に移行する。さらに、文字。ひらがなと漢字の追いかけっこがある。しかし、それも均衡のバランスに徹底されるわけではない。この連での立場は「せんせ」と「あなた」であるわたし=患者となっている。「うま」「うしろから」「声」「いやらしい」が微妙にそのいやらしさに収斂していく。しかし、それは「うま」に何を読むかで変わるのかもしれない。と、思わせておきながら、この「うま」、実は「馬」そのものでもあるようで、というのも、第二連が「おんな」になるからだ。それぞれを喩として、比喩されたものを考えるより、強迫する何ものかと考えていいのかもしれない。第二連はこうなる。
おんながおいかけてくるのです
え おんなが?
はい 女がですね まいあさまいばん
ほう 毎朝毎晩 どこから?
そりゃ まえからですよ へんですか?
いや へんじゃないけど
あーんして ちょっと声を出して
女の声を出すんですか?
まさか きみの声ですよ
そんな はじしらずな せんぱい
きみの声だよ なにが恥知らずなもんか
それよりちゃんと診察してくださいよ
研修じゃないのですから
ほら あの女が また窓の外に
はながちって ちって またさいて
第一連の言い回しをなぞりながら、二連ははみ出していく。「せんせ」は「せんぱい」になっているのだが、第一連からの「せんせ」と患者の図式は残り続ける。一連の患者は女だろうが、二連では、患者は「男」になっているようだ。もちろん特定はできない。ただ、一連の患者が、二連では「おいかける」側の「おんな」になっているようで、そうすると、診察してもらっている男は、第一連で診察していた医者になり、第二連で診察する医者はその第一連の医者の「せんぱい」の医者になる。患者と医者の連鎖。さいて、ちる「さくら」から「はな」へは、時の経過か。すると第三連が、どうつながるかに興味が湧く。どこにむかって動かすのか。ここで、強迫に追跡のテーマが重なり出す。それは、追うと追われるの実体探しになる。が、その前に、追跡は「お巡りさん」を呼び込む。
かんじゃがおいかけてくるのです
え かんじゃ ですか?
そうです 患者が まいあさまいばん
ほほう 毎朝毎晩 どこから?
あっちからも こっちからも へんでしょ?
ははぁ それはへんですな
もっと話してください調書をとりましょう
そんな 脅してもだめですよ お巡りさん
なにが脅しですか 初めから説明をして下さい
「かんじゃ」が「おいかけてくる」のだが、その「かんじゃ」が医者だったのだから、すでに「患者」と「医者」は循環し始める。つまり、医者である患者を診た医者は、次に患者になって、別の医者に診せるわけだから。それが、「あっちからも こっちからも」ということになるのだ。そして、相談相手は、医者ではなく、「お巡りさん」になる。なぜか。追うと追われるの関係は、探偵と犯人、あるいはお巡りと市民の関係だからだ。
ここから一気に対話の転換が始まる。お互いの立場表明をするように混乱が混乱を生み出す対話空間が出現する。
いや その目はわたしを疑っています
きっと犯罪者にしようとしています わたしを
でもね せけんが許しませんよ世間が
犯罪者を追うのはわたしの務めなのです
ほらね そういって 追っかけてくる
「わたし」という一人称が登場する。語り手は自分を人称を使って語る。聞かれたことへの応答ではなく、「わたし」が「わたし」を主張する。調書をとられている「わたし」ととっている「わたし」が記述される。追われる強迫観念が「わたし」に言葉を吐かせる。
ドーン と机を叩いたって喋りませんからね
あんたは毎日わたしをつけ回しているでしょ
あんたこそストーカー 立派な犯罪だ
なにをいってるんですか支離滅裂なことばかり
ちゃんと出るところに出て話してください
へっ 地を出してきましたね
つぎはカツ丼を出すつもりですか
医者の立場からいえばあれはよろしくない
それは善良なカツ丼に対する冒涜です
そちらこそ善良な市民を侮辱している
いや ただしい日本語を凌辱するものだ
演劇の対話の場が再現されている。「カツ丼」の笑いなどは、ある古風さが、むしろ共同体への幻想を示しているようだ。「冒涜」「侮辱」「凌辱」の移動に限らず、セリフがセリフを誘発しながら、不条理と条理の境を駆け抜ける。表現は、その表現形態を作者がつかみ取った始まりを、滲ませる。それは、かつての言葉を詩の中で復権する作業になる場合もある。一部中略するが、その後、詩句は以下のようにつながって、第一連から三連を位置づける。
はは 何かといやぁヒンヒン馬みたいに
だから 馬が追ってくると初めにいったろ
あれは女だったろうが さくらのせいにするな
大体あんたは患者か医者か おい!
オイとはなんだ 一般市民を愚弄するのか
あんただって 一般警官を愚弄してるぞ
お巡りだなんていうな 犬じゃないんだ
官憲の犬っていうじゃないか 猫ならいいのか
それは一般犬や一般猫に失礼だろうが
せめて黄粉黒豚くらいにしてくれ
これじゃいつまでも埒があかない
仕切り直しをしようじゃないか
この部分の最初四行で、馬から患者まで、男と女が入れ代わって記述される。演技による仮装が読みとれる。言葉が支配の触手を伸ばしている。そう、馬から「さくら」が出てくるのだ。馬肉は「さくら」である。
また、「官憲」や「犬」という言葉が、ある時代性を持った言葉となって、復権される。むしろ、その時代の残映を引きずり込むように。先程も書いたが、寺山たちの活動を連想する。あるいは山上たつひこの過激なマンガの残像を見る。暴かれていくのは、言葉が言葉を支配していく権力の構造かもしれない。警官と市民のやりとりは、追跡のテーマから権力の問題につながる。もちろん、この権力が強固な反権力を呼び込むことは、すでにない。むしろ、ネッワーク化し、移行し続ける権力の流動化が見てとれる。はたして、権力を糾弾した反権力は、単に糾弾するための反権力の言葉によっては表現の獲得にはなりえなかった。いわゆるアングラといわれた演劇は、権力の構造を舞台に創出することで、その演劇自体が反権力の時間と場所を呈示し得たのだ。舞台の中に支配―被支配構造があるように、劇場とその外に置いては日常―非日常といった支配と被支配のせめぎ合いが成立していた。それは政治的言説や日常的言語の枠の外から、それ自体の足下をすくった。それが、現在のように権力の委譲が流動化し日常化した場合、それに対峙する言葉の空間は、どのような成立の場をもつのだろうか。その問いに対する、一つの表現のあり方が、この詩の演劇的空間になっているのかもしれない。日常の裂け目を狙って、そこから非日常の異形性を引っ張り出し、逆に日常を異化するという常套的な手法が、まず、ある。あるいは、徹底して日常と乖離した言葉を使い、別の時空を生み出そうとする営為に賭ける手法もあるのだろう。この詩は、その手法を演劇に帰している。日常と乖離せず、観念や情感の宿らない言葉を使いながら、対話自体で別の場である対話空間を作り出そうとしている。わざわざ、バフチンを登場させるのは大仰かもしれないが、場に出会わせて、その場を共有しようとしたときに現れた方法のように思えるのだ。「仕切り直しをしようじゃないか」のあと、この連を終わらせる詩句は、
望むところだ 詩人じゃあるまいし
死後硬直した詩語の使いまわしなんて
である。そして、最終連の前の連、出前のように登場するのは「調書」である。
おまたせしました
こちら調書になります
これでよろしかったでしょうか?
はい ぜんぜん 大丈夫です
ねつ造される「調書」とまでは言わない。しかし、お手軽な調書の中に、「わたし」は位置づけられる。だが、追跡を重ねた「わたし」は、すでに本来性からは遠くにきてしまっている。最終連は不思議な明るさが詩を包み込む。
空はくるりと裏返しになり
犬と猫が笑いながら次つぎに降ってきた 馬も
これはたのしいどしゃ降りだ
けれど ぼくの帰る家は
もう なかった
(「うまおいかけて」一部省略)
「わたし」ではなく人称は「ぼく」になっている。追いかけていく主体は、「ぼく」を残していて、「調書」の記述者を登場させる。この追い続けた結果、登場した「ぼく」には、もう「帰る家」はない。このラストを突き放しととるか、一抹のかなしみととるか。「たのしいどしゃ降り」が導き出すのは、やはり明るいニヒリズムではないだろうか。
この詩、強固な権力や近代に対して、アンチやポストが生み出した流れの、それ以降に思いを馳せていく方向性が、現在との関係でとり得る詩の姿のひとつではないだろうかと思う。
もちろん作者にとって、ここまでボクの書いた堅苦しい読みは、しなやかさにとっての邪魔に過ぎないのではないかという気もしているのだが。