ほんとうに久しぶりにカーを読んだ。謎解きの探偵小説を味わう。
読むとやっぱり、面白い。
探偵を務めるフェル博士は、数多いる名探偵の中でも選りすぐりの名探偵の一人だ。
あらすじは、文庫の作品紹介を参考にすれば、
「小さな町の菓子店の商品に、毒入りチョコレート・ボンボンがまぜられ、死者が出るという惨事が発生した。」
ということが始まり。
ただ、小説はイタリア、ポンペイでの登場人物たちの暗示的な会話、行動をプロローグにしている。
村の実業家マーカスが、みずからの心理学テストの寸劇のさなかに殺される。
奇抜な着想は、その寸劇つまり殺人現場が、映画撮影機で記録されていたことだ。明白な現場の記録はある。
そこに居合わせた人物たちの目撃証言が重なっていく。ただ、それには心理学的フィルターがかかって、
記憶はそれぞれずれていく。
居合わせた誰が犯人か。そして、トリックは、動機は。
目撃証言の曖昧さをめぐる考えや毒殺への講義を織り交ぜて、小説そのものが犯罪と探偵小説そのものへの
考察にもなっていく。
いまや古典と言われる探偵小説が持つ風格と様式を漂わせる本格もの。この世界はいいな。
2016年に話題をさらったアンソニー・ホロヴィッツの『カササギ殺人事件』は、
古典、特にアガサ・クリスティーへのオマージュに満ちていた。古典的な推理小説を書く作家が主人公で、
彼の小説の中の謎解きと、その彼をめぐる現実の事件をめぐる謎解きという二重の構造が採られ、
入れ子構造の推理小説になっていた。抜群に面白い小説だった。
ただ、いまでは、かつての探偵小説は、こういう小説構造でしか書かれないのだろうと思った。
そうだよな、でも、古典は古典としてあるところが、作品の強みだ。
かつての本格ものに触れたくなれば、その本を手に取ればいいのだ。
訳が新訳になっていて、この文庫は2016年の発行だった。
以前、読んだカーの小説より、読みやすくなっているような気がした。
さまざまな新訳がでると、翻訳についての考え方や、
翻訳の仕方に違いがあるのだということがわかる。
結局、日本語の小説になる、そのなり方の違いなのかもしれない。
読んでいて、かなり余計な負荷がかかるのは、やはりつらい。
古典的な味わいを持ちながら読みやすさを備えている新訳が、最近は多いと思う。