ニヒリズムにニヒリズムで返す。諦観には諦観を返す。表現することは自身の身体を通過させるものかもしれないが、
だからといって外部に立つことが選択されないわけではない。時代の中にあることは、その時代を見つめる地点では
時代の外部者であることも求められるのかもしれない。そのときに、諦観やニヒリズムが生まれたとしても、それが
言葉を生みだすときには、言葉は諦観やニヒリズムの先に行く。いや、行ってしまおうとする。そこに表現が現れる。
詩集『蜜月』の序詩としておかれた「埋草について」は、こう書き始められる。
埋草には
出来るだけ無意味なことを記そう
だが、同時に詩はこう結ばれる。
消し忘れた無意味が
意味を孕むことがあるから
埋草には心して無意味なことを記そう
表現が発せられて進みいく、あるいはさまよいいくことが引き受けられる。それは、現代と対峙することも引き受けて
いるようだ。ただ、その対峙はそれこそ、ただ対峙するのではない、警句であったり逆説であったり喩であったり、
言葉が作りだす世界が同様に作りだされた世界と挌闘する。そのさまが詩になっていく。
詩「真っ白い紙」は、こう始まる。
真っ白い紙が眼の前にある
紙の上は荒涼たる冬の原野だ
あなたにだけは真実を伝えたいと
もう長いことここに座っている
そして、三連ではこんな詩句が続く。
鼠の消えた街では
顔を無くした者同士が命の軽さを論い
風が運んでくる妖しげな呪文に
聞き入っていた
比喩と直接性のある第一連から現代へとすいと飛躍する。格好いいなと思う。そして、着地は、
気が付くと負け残りの夕焼けが
真っ白い紙をいつまでも染めていた
となる。赤く染めあがる真っ白い紙。白と赤のどちらものイメージが残る。
例えば、こんな詩句もいい。「海への手紙」。
溢れる時間の海で
溺れかかったことがある
空は底抜けに青く
庭には蟬時雨が降っていた
4行のなかに感覚が埋めこまれ、海、空、時間のただ中にあって音に包まれる存在を感じる。
コロナ禍での日々を描いた7章からなる「長い休暇—一週間の処方箋」のまなざしも詩が詩であることを引き受けようとしている。
自在でありながら、詩が他の表現ジャンルと抗っている。
その抗いが詩の中に書き込まれているところがすでに詩の徳俵なのかもしれない。
「詩が、追い越されていく」と
二十年も昔にきみは書いた
それなのに今では詩を抱えると沈んでいく
相変わらずわたしは
〈私小説的神話〉の囲いの中にいる
高圧線の上のしょんぼりした雲
などというメールをいつまで待つ気か
「詩が、追い越されていく」と書いた詩人は山本哲也だった。この「長い休暇」は、あっ、と思える詩句がふんだんにある。
それをみんな、書きしるすわけにもいかない。ボクの中でとっておこう。
ボクたちは、かつて詩人が書いた世界のあとを、「わたし」では凍りつかない世界を生きている。
わたしが倒れても
世界が凍りつくようなことはない
屋根の上のぺんぺん草が戦ぐだけだ
(「弔歌」冒頭)
だが、その中でも、自我の皮を剝き続けながら、自分自身を探し続ける。自身と影、自分自身と自分の中の他者、
いずれもがいずれかがわからなくなる影と実体。剝き続ける辣韮。その芯のなさ。詩「揺らぐ影」はこう書く。
辣韮の皮を剝いたことはないが
辣韮を剝く猿の気持はよく解る
剝いても叩いても
果実の芯に行き着くことはない
草臥れ果てた挙げ句に
今日も数匹の猿が発狂した
詩は、画家がかつて描いたような、そんな鏡に映り続ける自分自身を、それ自体が影なんだと見なそうとする。
猿の真似をして世渡りする気は無いが
一つ向こうの道筋には
今も憧れが棲んでいる
だから追い越して行った影が
いつも後ろから追いかけてくる気がする
本当はおれたちが影だったと
猿に教えてやろうか
「憧れ」は、いつも「一つ向こう」にある。追いかけながら追いかけられるのは、時間がそうであるように、連続の夢を見続けるからだろう。