ハン・ガンの小説は、あっ、エッセイも、どうして、こうも切迫しながらも、そこにある時間の緩やかなやわらぎを
伝えてくれるのだろう。
切実に、切々と、取り返せない過去が、今ここにある現在が、私を蔽えば蔽うほど、私はここから、明日へと、ゆっ
くりと、じわじわと、私を私へと導いていく。
時々刻々と形を変える透明な断崖の突端で、私たちは前へと進む。生きてきた時間
の突端で、おののきながら片足を踏み出し、意志の介入する余地を残さず、ためらわ
ず、もう一方の足を虚空へと踏み出す。
それが、どこに至るのかはわからないけれど、
それが、どこへ行くのかわからないからこそ、
私には、取り返せない過去があるのだと囁きかえるようだ。だからこそ、そこにあった時間を受け入れながら、まだ
訪れない時へと踏みだす。
囁きは、ことばを残しながら、ことばを大切にしながら、それでも、明日へとことばは消えていく。
だから、ハン・ガンの小説は、進んでいくほどに、ことばが散文脈から詩のようになっていく。削がれていきながら、
消えていきそうになりながら、ことばを慈しむように残していく。
そんな、ことばの流れに、連れ去られる。
この『すべての、白いものたちの』では、すべての、白いものが立ち現れる今、白いものたちの世界に連れて行かれる。
作者である「私」の姉は生まれて2時間で死んだ。母の「しなないでおねがい」の呼びかけもかなわず。「私」は、
姉が生後すぐに死んだから産まれてきたと思う。
だから、もしもあなたが生きているなら、私が今この生を生きていることは、あっては
ならない。
今、私が生きているのなら、あなたが存在してはならないのだ。
闇と光の間でだけ、あのほの青いすきまでだけ、私たちはやっと顔を合わせることがで
きる。
と、「私」は綴る。
「私」はワルシャワに来て、しきりに過去がよみがえる。「白い街」ワルシャワ。ヒトラーにより破壊されつくした街。
その街の夥しい死。そして、それを抱えて生きてきた日々。ワルシャワは再生していく。その街に招かれていった「私」は
そこで、よみがえる記憶と共に、姉の気配を感じる。その姉の気配と向き合い、「私」の中に死者を呼び込んで生きていこ
うとする。生活の中に寄り添うように存在する「白いものたち」。街を、夜を、蔽う「白いものたち」。「私」はそれらを
丹念に感じとる、そして、その「白いものたち」と生きていく。
産着が壽衣(死者の衣装)になった。おくるみがひつぎになった。
そんな時間を、そんな存在を感じながら。
この小説は、小説へとなっていこうとすることばたちで、できている。いかにもの小説的な意匠はない。
ここには、ことばが小説的なものから離れるように置かれている。感性と思索が、そのままここにある。その感性や思索が
まとうべきことばとひとつになってここにある。読者はそんなことばに、そのことばがつくりあげる小説に出会う。
『少年が来る』でも、ハン・ガンは光州事件の死者の声を聴きとろうとしていた。
この本のあとがき「作家の言葉」で、ハン・ガンは書く。
私の生をあえて姉さん−赤ちゃん−彼女に貸してあげたいなら、何よりも生命につい
て考えつづけなければならなかった。(中略)私たちの中の、割れることも汚されること
もない、どうあっても損なわれることのない部分を信じなくてはならなかった−信じよ
うと努めるしかなかった。
ハン・ガンのことばが響く。静謐で、しみわたるような音色が。
スティールの弦を弓で曳いたら、甲高い音が響く−悲しい音色が、また不思議な音色が。
それと同じように、これらの言葉たちで私の心臓をこすったら、何らかの文章は流れ出て
くるだろう。
流れ出す言葉たちが「白いものたちの」音をたてる。微細であり、はかなげでも、長く響く強靱さを秘めた音が。