パオと高床

あこがれの移動と定住

ウン・ヒギョン「妻の箱」水野健訳(岩波書店)

2014-10-22 10:10:30 | 海外・小説
岩波書店の『現代韓国短編選』の上巻に収録されている一冊。出版が2002年で、上下二巻。上巻は90年代の小説で編集されている。
ウン・ヒギョンは、短編集『美しさが僕を蔑む』からも数編読んだが、今回の「妻の箱」も面白い。作者は1959年生まれで、この小説の発表は97年だから、38歳の時になる。「李箱文学賞受賞作」だ。
冒頭から引き込まれる。作者のオリジナリティを感じさせる導入なのだ。

  最後に妻の部屋に入ってみる。
  青を基調とする壁紙、壁にむかって置かれたドイツ式の机と、窓際の
 安楽椅子。その間に、正体の知れない、かすかな香りが漂っている。そ
 して、箱たち。

そして、妻の部屋に置かれた箱の中味の描写に移る。

  妻の箱には、過ぎ去った時間に、彼女の上を通り過ぎた傷口が保存さ
 れている。人は傷が回復した後にも、身体に残るその傷の痕跡によって
 傷を記憶する。彼女はその痕跡を保持するように、部屋の片隅に箱を積
 み上げた。

箱が残り、妻がいない部屋。

  一番上にある箱を開けてみる。粗雑な貝のネックレスが横たわってい
 る。思い出す。新婚旅行先の記念品の店で、このネックレスを買った。
 思い出す。そのとき、妻の瞳に映った海、その海に向かって、籠に拾い
 入れておきたいほどの、澄んでコロコロ転がった彼女の笑い声。
  だが、妻はもうここにはいない。妻のドイツ式の机の蓋が固く閉じら
 れたのと同様に、そしてその机の上にいつも置かれていた消しゴムの黄
 色い鉛筆、それが永遠に暗闇に埋もれてしまったように、妻という存在
 は廃棄された。

すでに、ここで、妻はいないが、死別したのではないと思わせる。
それまでの「私」と妻の時間。小説は新興都市に引っ越してきてからの時間が描かれる。それは、お互いの意志がすれ違う時間となり、静かな抑圧が妻をさいなむ時間であり、「私」が妻との齟齬に気づいていく時間である。そして、妻はただ眠ることのみを求めるような状況に陥っていく。こわれていくといってもいいのかもしれない。
日常の具体的な出来事や、物事が積み上げられていく。その下を通奏低音のように情感が流れていて、それが描写を単なる事物の積み上げではないものにしている。憤りや恨みがあるはずのものをどこか穏やかに包み込み、現在を生きることの悲しみの受容のようなものに換えている。
小説は、2人の関係を決定づけた出来事を執拗に書きはしない。むしろ、その出来事自体は、日常の集積の結果として訪れたものであるかのように描かれている。それがむしろ痛さを増幅する。
情感を宿しながら、どこか淡々とした筆致が、存在の輪郭をなぞりながら、その中にあるどうしようもなさのようなものを掬い取っていく。それは、自分と他人の距離であり、孤独を埋める術のなさであり、自らを静かに脅かす抑圧なのかもしれない。そして、欲求は穏やかに湿潤する。
「私」は妻を「灰色の建物」に連れていく。

  深い森の中にあるそこは、彼女を閉じ込めている新興都市の自宅や不
 妊クリニックと同様に灰色の建物だったが、はるかに平穏に見えた。そ
 こには希望など入り込む余地がないからだ。彼女はもう、空しい希望を
 持つこともないだろう。

ラストで「私」は、かつて妻が行った森の道に車のハンドルを切って入っていく。「土饅頭の墓」に覆われた山道を、汗を滲ませて走る。ここには現代という時代が森によって暗示されているのかも知れない。そして、そこにある死。実質的な無名性の死もあるだろうし、お互いがお互いの存在を消すという死もあるのだろう。

  彼女は私の同意なしには、そこから一歩も出ることはできない。彼女
 は大丈夫だ。私がやって来ることを待つことで、私の愛情に応えている。
 今日、彼女の部屋は存在しなくなった。

結局、「私」は妻を「私」の箱の中に入れてしまったのかも知れない。妻の時間は、刈り取られてしまった。だが、それは同時に、お互いの時間からの開放にもなるのだろうか。最後はこう終わる。

  ほどなく視野が広がる。ありがたいことに、はるかなかなたに細い舗
 装道路が見えている。

道路はある。だが、それは「はるかかなた」であり、「細い」道路なのだ。しかも、山道ではなく、走行することにはもってこいの、舗装された道路だ。

訳者が違うというだけではなく、書かれた時間の違いだと思うが、『美しさが僕を蔑む』の小説よりも、文に叙情があるような気がする。『美しさが…』の小説は、より淡々として、アイロニーが宿っていた。考えてみれば97年と2007年。10年の時の経過がある。95年作家デビューということだから、「妻の箱」は、デビューしてすぐの頃の小説になるのか。


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パク・ソンウォン(朴晟源)「デラウェイの窓」安宇植(アンウシク)訳(作品社)

2014-10-11 12:17:48 | 海外・小説
韓国現代小説家のアンソロジー『いま、私たちの隣りに誰がいるのか』に収録されている小説。

パク・ソンウォンは『都市は何によってできているのか』で、面白い作家だと思った。その時、この作家は都市の神話を描きだしたいのだと書いたが、この「デラウェイの窓」は都市の神話あるいは都市伝説を描いた小説。デラウェイという謎の写真家をめぐる話だ。
主人公の「ぼく」は間借り人を住まわせることにする。そこに男がやって来た時から、デラウェイという伝説の写真家が、主人公の周りで噂されていく。人々が、ある時期から盛んに語りはじめながら、最近死んだという本人の実態に迫るものを何も見いだせず、また、その写真そのものにも出会えない写真家デラウェイ。数人のものが、これがついに見つけた彼の写真だというものを見せ、また、主人公の「ぼく」も、これはデラウェイの写真ではないかと思う写真に出会うのだが、どうしてもそれが確実ではない。いわば「うわさ」の中の伝説的写真家であるデラウェイ。果たして、デラウェイは実在したのか、彼は何者なのか。「ぼく」を初めとして、その写真家の存在を聞いた者は、デラウェイという存在に出会いたいと考えるようになり、彼に取り憑かれてしまう。「うわさ」が作りあげていく存在から、逃れられなくなる。そして、彼らは、それを他の者に伝えることで、さらに「うわさ」は実体化していく。そこにはデラウェイを作りあげた者がいて、それを社会的に広めていく現代社会の情報に対する精神があり、社会構造がある。
主人公は、その伝説に縛られながら、一方でその伝説の仕掛け人を見つめるまなざしを持つ。情報が作りだす人格。実体のないものに実体感を与え、それを実体のないまま実在させてしまう現代社会のーあっ、現代だけには限らないのだがー構造を小説は描きだしている。想像力と言葉を持つ人間が生みだす幻想の共有化なのかもしれない。

冒頭に写真家デラウェイの言葉として引用されている、

  窓というものは、真実をうかがうことができるチャンスだ。
  もしも窓がなかったら、四角い壁の中に閉じ込められている真実をど
 のようにして救い出せるというのだろうか。

という言葉は、写真家デラウェイの写真を解読する言葉であると同時に、この伝説の仕掛け人を見つけだす窓という意味を持ち、小説の主人公「ぼく」の視線を暗示している。また、それは、情報が四角い壁の中で作られることを指し示しながら、壁の中に閉じ込められた真実を見る窓の必要性を語っている。主人公の位置と現代社会の問題点を端的に表現した言葉である。

この小説の面白さは、作りあげられた写真家の写真にある。
彼の写真は、一見、何でもない平凡な静物や人物なのだが、その被写体の中の何かを反射できる部分に、別のものを写し込んでいるところが魅力なのだと語られる。例えば、静物画「食卓の上の世の中」では、食卓に置かれたスプーンをよくよく見ると、そこに兵士が農夫を射殺している光景が浮かび上がってくるというように。つまり、のどかな食卓ではなく、食事をするはずの者は、もう食卓に戻れないということがそこには写し込まれている。と、いった架空の写真についての説明が、実は面白いのだ。そして、それが、何だか今を投影している。おまけに、この写真の中の写し込みを発見したのは、視力の弱いアマチュア写真家が拡大鏡で見ていた時だとなっている。噂の作られ方、物語の作られ方をうまく挿入している。僕らは身の回りの些細なことから、それこそ世界開闢におよぶ膨大なことがらまでを、どんな物語で構築しているのだろうか。そして、それを見る窓から、救い出される真実というものはあるのだろうか。
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