数年前、歌人の木下龍也と岡野大嗣、それに詩人の平川綾真智という3人によるトークイベントに参加した。
そのとき木下龍也が、他の仕事をせずに短歌だけで生計を立ていると語り、その一つとして、依頼者からのお題をもとに短歌をつくり、
封書にして送るという個人販売を行っていると語っていた。
この本の扉書きによると、4年間で約700首。その中から依頼者から提供を受けた100首によってできた一冊。
例えば表紙。
お題「まっすぐに生きたい。それだけを願っているのに、なかなかそうできません。
まっすぐに生きられる短歌をお願いします。」
それに対する短歌。
「まっすぐ」の文字のどれもが持っているカーブが日々にあったっていい
本文冒頭。
お題「自分を否定することをやめて、一歩ずつ進んでいくための短歌をお願いします。」
短歌。
きつく巻くゆびを離せばゆっくりときみを奏でゆくオルゴール
たいへんな作業でありながら、楽しい仕事でもあるのかもしれない。
料理の提供と同じで、依頼者の満足を得られなければ、成り立たない。
依頼者がどう思ったかは、想像するしかないが、本書の読者であるボクは、うまいなと唸ってしまう。
お題との寄り添い方、離れ方、裏切り方、共感度が抜群の距離にある。
で、でてきた短歌はいい具合に直裁でありながらも、べたじゃない。
また、作っている作者の側から考えると、お題があり、その依頼者である「あなた」がいることで、「私」から離れられる。
その分、ただ、空想でなりきる他者ではない、ある程度のリアリティを担保しながら、「私」語りからは開放される。
実際書いている本人はヒヤヒヤの緊張感を持っているのだろうが、やはり愉しさがあるのではないのだろうか。
ことばは、相手に対して投げだされるものである。と、考えれば、表現の自然な状態が依頼者と提供者の契約の中で実現されているのだろう。
そして、そこに貨幣価値が伴えば商取引は成立する。
多大な付加価値があるのは、創りだされた短歌の魅力によるのだろう。
かつて、どこかで谷川俊太郎が、自分は自分のために詩を書くというより相手や依頼があって書いている
というようなことを語っていたような気がする。
「私」性は、創造の場において濃淡を変えていく。拠って立つ場所は「私」にのみあるわけではないのだろう。