パオと高床

あこがれの移動と定住

高岡修『月光博物館』(ジャブラン2013年12月25日発行)

2014-02-21 11:34:26 | 詩・戯曲その他
詩は挌闘の現場なのかもしれない。それを忘れてはいけないのかもしれない。叙事と言葉の格闘の軌跡をみせた杉谷さんの詩集があった。この高岡さんの詩集は、言葉が言葉と格闘するとでも言えばいいのだろうか。あらかじめ生まれている詩語が、生まれだそうとする詩語によって激しく緊張する。すでにある詩語は、そぎ落とされる恐怖と塗りこめられる危険を感じ、生まれ出づるものの声に身もだえする。それこそが、生まれ出るものなのだ。詩語が再生する。その現場が詩の強固な魅力となる。そして、言葉が刻む言葉との格闘は、言葉とイメージの格闘でもある。冒頭に置かれた詩は、そんな詩の現場を描きだしている。

 暁の空があんなに赤いのは
 そこに夢の溶鉱炉があって
 一夜の僕らの夢のすべてを溶かしているからである
                  (「溶鉱炉」全篇)

溶鉱炉に投げ込まれた言葉はイメージもろとも溶かされる。その高温の臨界点から言葉は一気に冷却される。急激な温度差によって熱を宿したまま凝結する言葉。溶けこんだものを内包しながら張り出してくる切り取られた言葉。削り取られ、そぎ落とされたあとに残された言葉は、イメージを抱え込んで、詩とそうでないものとの懸崖を示し、詩として屹立する。その佇まいが、格好いい。

 右手と左手ではどちらがより懐疑的なのか
 いくつもの自爆テロのニュースを煮詰めてパンに塗りつける朝
 水平に置くとバターナイフはすぐに瞑想しはじめる
                  (「朝食」全篇)

 蟷螂の斧がまさぐっている濡れた太陽の青いへり
 鳥とは飛翔する奈落である
 生まれたばかりの虹がひとつ鳥の砂嚢で擦りつぶされる
                  (「雨後の慣習」全篇)

詩集冒頭三篇を並べてみた。これは「世界と、その微分を質量する三行詩」という題でまとめられている11篇の三行詩中の三篇である。世界は微分されている。その微細と極大。まなざしは、まなざされたものの背後に膨大な世界の存在が兆す。凝縮された三行は、凝縮されたエネルギーの分だけの質量を持つ。そこに、現代への鎮魂の気配まで宿っているようなのだ。この三行詩群の最後に配置された一篇。

 反物質にはあきあきしている
 僕らの世界にあって盲しいるとはより深く生きるということだ
 朝毎のテーブルの花瓶には僕らの切り裂かれた眼の花々が飾られる
                  (「眼の花々」全篇)

詩集『月光博物館』は冒頭の「世界と、その微分を質量する三行詩」11篇に続いて、「世界と、その構造に関するノート」という章題でまとめられた、6篇の詩、そして10篇の章からできている「月光博物館」という詩で構成されている。短い詩句で構成されているものから、比較的長い詩まで、様々なスタイルを示す。ただ、どの詩も言葉の切れが鋭い。今、僕たちがいる世界の構造と現代という時間の構造がまなざされる。そこには、悪意と危機が、ひそみ、また間欠する。

 世界は残像のなかに浮上する
 わけても殺されたものたちの最後の残像にあって
 世界はひときわ鮮明となる
         (「世界と、その夕映えの構造に関するノート」冒頭)

あるいは、
 
 ひとつの視姦から無数の視姦へ
 鎖としてつながれた鉄の輪のひとつひとつの眼である僕ら

 僕らは、僕は、視姦の青空を所有する
 僕らは、君は、視姦の偏執的な傾斜を所有する
 僕らは、君らは、視姦の淫らな深層へ美意識の全てを投げ入れる
        (「世界と、その視姦の構造に関するノート」一部)

僕らは、時代の構造のまっただ中に投げ入れられる。そこで何を見つめることが可能なのか。圧倒的な力の気配におののいてしまう。出会うものは何か。見つめられる自らと見つめる自らは決して分裂しはしない。しかし、それは構造化された世界システムに絡め取られているからなのだ。が、また、そのことによって言葉が抗う地平が生まれる。

 僕らは柩構造のなかへ誕生する
 まるで言語という方舟構造のなかへ誕生するかのように
       (「世界と、その柩の構造に関するノート」冒頭)

生に射しこむ月光は、死を孕み、様々なものに変異する。それ自体時間を超える存在でありながら、有限な事象を捉えて放さない。ゆえに、月光は「博物館」になる。

 その月光博物館には
 外壁はおろか
 いかなる内壁も存在しない
 入口とおぼしきところを過ぎると
 そこはもう月光だけの世界である
      (「月光博物館 00」冒頭詩)

こうして「月光博物館」に招き入れられる。

 01

 まず月光の森がある
 月光の湖があり
 月光の砂漠があり
 月光の都市がある
 もちろんそれらはどれもが現実のものより遥かに縮小されたものであ
  るが

これが「01」章の書き出しである。「02」は、こう続く。

 02

 次は博物史としての月光のエリアである
 月光もまたその始源より
 死と誕生をくり返しているのである

僕らが招き寄せられた「月光博物館」は、〈月光言語のエリア〉である。そこでは、

 殺意という一語においてしか語りえないその美意識によって
 月光言語のエリアは
 限りなく美しく
 そのまま
 自我の卵状を形成しているのである
      (「月光博物館 06」終部)

言葉を生みだす世界の構造は、言葉によって構造化されながら、言葉によって透徹される。顕わになるのは詩がみせる人と世界とのスリリングな現場である。

ドナルド・キーン『日本文学史 古代・中世篇四』土屋政雄訳(中公文庫)

2014-02-13 11:19:54 | 国内・エッセイ・評論
ドナルド・キーン単独の日本文学通史である。僕が今回読んだのは、その一部も一部、ほんの一部、「古代・中世篇四」の中の、「新古今集の時代」。
面白かった。単に学問的な(お勉強的な)本ではなく、歴史を読む愉しさを味わうことができた。
歴史的資料を示し、それから推察できることを書く。そこに一般性とキーンの着眼が書き込まれている。文学的資料も当然、提示され、それについての鑑賞、批評を加えていく。きちんとした手順が踏まれているのだ。しかも、その手順が堅苦しさを感じさせない。通史的な流れと同時に、その作品、作者のそれぞれにも言及していく。また、手法やスタイルの特徴や文学史的な位置も記されていく。つまり、面と垂線で描きだされた立体性があるのだ。読む「文学史」の醍醐味かもしれない。

「新古今の時代」は序文、「本歌取り」、「歌合」、「定歌数」、「後鳥羽院と『新古今集』の編纂」、「『新古今集』の内容」、「藤原定家」、「西行」という章構成になっている。
例えば、「本歌取り」。

  『新古今集』の歌人の借用しかたには、いくつかの暗黙の前提がある。
 まず、歌人に作歌意欲を起こさせるのは、自然観照や情緒的な直接体験
 にかぎらないということである。過去に読んだ歌の数々も、それに劣ら
 ないインスピレーション源となりうるし、むしろ、過去の作品となんの
 関係もない歌より、その一部を下敷きにした歌のほうが深い内容をもち
 うると、『新古今集』の歌人は信じていた。また、一読して本歌がわかる
 ことを読者(同じ宮廷社会の住人)に望んでいた。そして、その本歌か
 ら何百年もあとに生きている作者が、本歌の意味をどう変化させること
 で自分だけの感情を伝えようとしたのかを、読者が的確に読み取ってく
 れるものと期待した。この手法を「本歌取り」と呼ぶ。本歌取りが『新
 古今集』以前から行われていたことは、すでに見たとおりだが、その可
 能性を最も深く追求したのは『新古今集』である。

そして、『古今集』の僧正遍昭の歌と式子内親王の歌を例に引く。

 わがやどは道もなきまで荒れにけりつれなき人を待つとせしまに
              (僧正遍昭)
 桐の葉も踏み分けがたくなりにけりかならず人を待つとなけれど
              (式子内親王)

さらに式子内親王の歌は、『和漢朗詠集』の白居易の句に基づいていて「いっそう大きな余韻を生んでいる」と書き示す。

 秋の庭には掃(はら)はずして藤杖(とうちょう)に携(たずさ)はて
 閑(しず)かに梧桐(ごとう)の黄葉(こうよう)を踏(ふ)んで行(あ
 り)く
               (白居易)

このあとにも幾つかの歌を引き、「本歌取り」の変遷を語り、比重の変化や美意識の動きなどを論じる。そして、こんな推察を加える。

  『新古今集』の歌人たちが本歌に使った歌には、平安朝がその黄金時
 代にあったとされる三百年ほど前の作品が多い。宮廷社会が無秩序の恐
 怖におびえずにすんだ過去……その過去への郷愁が、本歌取りという形
 をとって、『新古今集』の「新古典主義」を生んだのかもしれない。
 (中略)
 だが、平安末期に貴族階級が没落して厳しい生活を強いられ、過去の歌
 に栄光の時代への憧れをかきててられるようになったことと、本歌取り
 が方法手論的な自覚のもとに行われるようになったことことのあいだに、
 なんの関係もないとは考えにくい。

このあと、藤原定家が提唱した規則が要約される。

 一、『古今集』『後撰集』『拾遺集』の三代集を中心とする古歌(『万葉集』
  や『後拾遺集』も含まれる)のうち、すぐれたものを本歌とし、その
  一、二句、せいぜい二句と三、四字程度を取り込む。
 二、取った歌句は一首全体の中で本歌と異なった箇所に置くことが望まし
  い。
 三、四季の歌を取って恋や雑の歌を詠むというように、本歌の主題をすっ
  かり変えることが望ましい。

 また、近い過去を含め、同時代の歌から取ることは厳しく戒められた。

ただ、この本でも引用されているが、定家自身がこの戒めを破って詠んだ歌もある。寺山修司、どうする?

95ページほどのうち30ページほどが「藤原定家」の章になっている。定家と後鳥羽院との確執や定家とそのライバルとの話などのエピソードが面白い。そして、ドナルド・キーンによる鑑賞と批評が書き込まれた定家の歌を味わうことができる。こんな一節が書き込まれている。

  定家が青年時代に詠んだ歌は、その難解さから「達磨歌」と批判され
 た。禅問答のようにわかりにくいという意味である。後年、目に見えて
 保守的になってからは、歌もわかりやすくなった。しかし、長い間批評
 家泣かせだった達磨歌も、象徴的イメージによって三十一文字の中に哲
 学的観念を盛り込んでいる点が、今日の歌人には魅力的に映るらしい。

もちろん定家を批判しているわけではない。本邦雄などなどを連想できて愉しい。

片山恭一『その鳥は聖夜の前に』(文芸社)

2014-02-07 22:01:19 | 国内・エッセイ・評論
父の死に立ち会う息子である作者のノンフィクションである。作者は、父の死という事態に対峙し、それを受け入れていく。父の生を描き、死というものを問おうとしている。

  父が亡くなって三カ月が経った。しかし父の死に、まだ慣れることが
 できない。もちろん毎日悲嘆に暮れているわけではない。悲しみや沈痛
 な思いは、日を追って薄らいでいく。普段は、父のことも、父の死のこ
 とも、忘れて過ごしていることが多い。でもふと、「もう父はいないん
 だなあ」と思って不思議な気持ちになる。

と、書き出される。欠落するということ。そこには、確かにあった生があり、その確かであったはずの生が消えている。けれど、生の欠落は、「欠落」という言葉だけでは欠落のままなのだ。

  考えてみれば、私が生まれたとき父はすでにいたわけで、父がこの世
 にいない時間というのは、一瞬一瞬がはじめての体験なのだ。これはち
 ょっと大変なことだと思う。

そして、父が私と出会う前の時間、私が生まれたあとの私が知りえなかった父の存在への探求が始まる。それは、父の生の輪郭を描きだすことなのだ。子どもは、子どもの立場でしか父を知らない。また、その家族の中ではいつまでも子どもの立場でしか家族を知らない。だが、父が父でありながら、紛れもない一個の人格であったこと、父の生があったこと、それをひとつひとつ辿る作業は、家族という人の集まりをもう一度問うことになっている。と同時に、これは誰もが体験するであろう個人的な体験から、それでも、それが唯一で変えることのできない体験であるということを抜き差し難く語る。一般的でありながら、個別的なこと。個別的でありながら普遍的なこと。それは、なお、他者の顔という倫理の問題への示唆に富んでいるのだ。

一人の特定な「あなた」を見つめることは、「あなた」の顔を見つけだすことであり、「あなた」に顔を与えることなのだろう。そして、それは不特定な誰かを「あなたたち」にし、そのそれぞれを「あなた」へと変えていくことなのかもしれない。一人の特定な「あなた」と向き合うことは、だから、不特定な誰かの、その顔を、見いだすことにつながるのかもしれない。
だが、その一人と向き合うには、どれほどの真摯さが求められるのだろう。一人の死がある。その一人の人間の死と向き合うことにかけられた一人の人間の生は、死にいく者の生と釣り合うために、どれほどの真摯さを求められるのだろうか。一人の死と向き合うことは、その人の生と対峙することである。その人の生を見つめることで、死は生を吸引する死の側への弁証法から生の側へと吸収される弁証法への懸命な転換を企てようとする。その一点において、死は生者の意識の中で乗り越えられようとするのかもしれない。
片山恭一さんは、「父」に「あなた」の顔を見いだす。一貫して「死」をめぐる思索を、「死」を乗り越える生のすべを思索してきた片山さんは、死にゆく「父」の顔を見つめる。

このエッセイが、単なる死のつらさの情感だけを伝えてくるものではないことは、まず、そこに生きた父を描きだそうとする強固な意志によるのかもしれない。もちろん、朝鮮半島に生まれ、短歌やその他の趣味に生き、さまざまな個性を発揮する「父」の人生自体の起伏の面白さもある。エピソードの1つに、宇和島で司馬遼太郎を接待する話があるのだが、これは司馬の『街道をゆく』の宇和島の章と照らし合わせると見事に重なって合点がいく。などなど、読者である以上、そのエピソードの面白さを享受してしまう。
もうひとつは、作者が感じたこと、考えたことの持つアクチュアルな点にある。例えば、患者はどの時点で患者になるのか。又、施される治療とその必然性をどう考えればいいのか。

  だとすれば、「癌」という病気をめぐり、この社会でつくり上げられ、
 共有されているイメージが間違っているのではないか。癌は恐ろしい病
 気というイメージが、早期発見・早期治療というスローガンが、そうし
 たものに加担している医療や行政やビジネスが、決定的に悪しきものな
 のではないだろうか。
  一人でも多くの癌患者を救おうと努める医師や、癌を撲滅しようとし
 ている社会が善良なものであることを、私は疑っているわけではない。
 しかし善良でありつつ、間違っていることはある。善良である人たちが、
 善良である社会が、善良であることによって、一人一人の患者を苦しめ、
 追い詰めているということはありうるのだ。

さらに、自分たちを閉じ込めている思考や認識の枠に触れ、フーコーの「装置」という概念を引く。

  それぞれの時代に、同時代の者たちを閉じ込める思考や認識の枠組み
 が存在する。その枠組みのなかで、私たちが受け入れている真理が形作
 られる。さらに真理によって正当化される権力、すなわち法や権利や規
 則体系や実践の仕組みが生まれる。ミシェル・フーコーが「装置」と呼
 ぶものだ。私たちを取り囲むようにして作動している、知と権力と真理
 の装置である。こうした装置のなかに、医療行為も組み込まれている。
 (略)
  癌患者になるということは、まさに知と権力と真理の装置にとらわれ
 ることである。(略)しかし、完璧な装置というものはありえない。(略)
  私たちが受け入れている真理も、確実に誤謬の可能性を孕んでいると
 言える。(略)現在、癌に対して標準的に行われている治療は、百年後に
 は間違いなく、一般の人たちを驚かせ、少なからず戦慄させるものにな
 っているだろう。

と、医療をめぐる思索と批判を記述する。これが、現代の中に生きる僕たちなのだ。憤り、不満を持ち、さらに冷静に疑問を感じ、問う。多くの人が、心の中で行っていることでありながら、声にならずに封じ込んでいること。しかし、この声が記述されているのだ。ここには作者と同じ立場に立つ多くの「あなたたち」がいる。作者は、そこに自身の顔を与えている。
そして、このエッセイのジャンル的な越境性は、このエッセイの持つ小説的な広さにある。エッセイが狭いといっているのではない。父の生を描きだす軸がありながら、今、臨場している死と対峙する現場があり、それをめぐる声がある。この声は複数制を持っている。もし、医療をめぐる問いが2人の人間によってなされたら、そこには登場人物が動きだす場が生まれる。また、死それ自体についての思考が語られる場面もあるのだ。「私」をめぐる物語への契機も強く感じられる。もちろん、作者にとってはこんなことを書かれることは大きなお世話なのかもしれないが。そんな契機を孕みながらも、それでもエッセイであるところに、むしろ僕はリアルの根を感じている。作者は、それをたぐるように、その根の上を歩いていく。読者の選択に委ねるように、作者が見つめ、感じ、考えた様々な事柄が、作者によって投じられていく。そんな中に、次のような部分があった。

  胃癌の手術を受けたあとの父が、身体や自然への回帰に重きを置いた
 歌をたくさん残している理由について考えてみよう。まず言えることは、
 父が歌に読んだ身体や自然は、普段は透明で見過ごされているというこ
 とだ。私たちが身体を意識し、自分の身体を他人のように感じるのは、
 たいてい体調のすぐれないときである。なんらかの不具合が生じている
 とき、それまで寡黙で透明であった身体は、にわかに自己の存在を主張
 し、不透明な実在感を帯びてくる。これが身体への回帰の実情であるよ
 うに思う。

私が思おうと思うまいと実在している身体の先行性。これが現象の始まりである。だが、意識が遅れてやって来る。意識は二元論を求める。なぜか、身体にはそもそも二元論はないからだ。と、すでにここで意識は二元論的世界観を滑り込ませる。しかし、「不具合」は、身体が先行的に勝ち取って身体の存在を主張する。「回帰」という言葉が遣われている。で、あっ、と立ち止まるのがこれに続く次の部分だ。

  このとき私たちは、身体を時間として経験していると言っていい。病
 むことは時間にとらわれることである。発熱や痛みや嘔吐とともに、私
 たちは不透明で物質化した時間のなかにとらわれる。

そして、父の短歌が一首、置かれる。

 流れ行く刻を尊く思ふのみ無策に過ぎゆく病床の吾は

このあとさらに作者は思念する。

  身体とは時間である。身体へ回帰することは、したがって時間への回
 帰を意味している。しかも父の場合、時間への回帰は両義的であった。
 癌という病を体験した者にとって、それは病気から遠ざかっていく恢復
 の時間であるとともに、老いや死へと運ばれていく時間、さらには再発
 の可能性を孕んだ時間とも言える。
  こうして時間は希望であるとともに、不安を帯びたものになる。

刹那の時間の中では再発への危機は回避される。しかし、時間の永遠性に回帰することは、それこそ永遠にできないのだ。

  時間は残酷で、自然は慈悲深いと言うべきだろうか。時間は一方向に
 流れるが、自然は循環し、回帰し、反復する。それが「生命」という言
 葉にたいして私たちがもつ、根源的なイメージだ。

そして、私たちはそのイメージを持ちながらも一回性の生を生きなければならない。

  私たちが生きるということは、時間を一方的に生きることであり、人
 生において回収できるものは何もない。だからこそ、循環し回帰し反復
 する自然の営みに、しばし足を止め、目を凝らしたくなるのだろう。

「私」は「私」を時間の中で構築しながら一個の「私」という自己を認識する。それが刹那で切れたとき、「私」は分断される。身体も同様なのだ。激しい細胞の入れ替わりの中で自己は自己を時間の中で構築する。しかし、身体にとって時間は身体の限界である。永遠の時間の前に有限な時間が存在する。それは身体として、ある。だからこそ、

  死は虚無であると言われる。だがそれで、いったい何を言ったことに
 なるのだろう。虚無とは、この世界において無になることである。しか
 し「かけがえのない」ものは、もともとこの世界には帰属していない。
 したがって死が虚無であるかぎり、死は「かけがえのない」ものを奪う
 ことはできない。死の虚無化によって、生物学的に破壊され、物質的に
 消滅するのは、この世界に帰属しているものだけだ。

存在している、存在していた身体の「かけがえのなさ」によって、世界に帰属しているものを、その帰属から解く。

  この世界に帰属している私たちが、この世界に帰属しているもののな
 かに、まさに「かけがえのない」という、この世界に帰属していないも
 のを見出す。私が死の直前の父のなかに見出したのは、そのようなもの
 だった。だから私は、父の死に同意することができる。私は父との関係
 のなかに、死の虚無化によって奪われることのないものを見出すことに
 よって、父の死に同意することができるのだ。


「かけがえのない」ものが奪われる、そんなつらさから脱け出すために、「かけがえのない」ものが、時間から脱出することを企てる。そもそも、かけがえのなさとは、死によっても交換されたりするものではないのだと思い至る。だからこそ、かけがえがないのだ。

医学は、生物学的に死と戦う。だが、その場合、同時に死は生物学的に訪れることになる。朝日新聞の2月4日のインタビュー記事で片山さんの言葉として、「医学は生を対象にするもの。だから死や死後を考えることは、文学にとって大きな仕事だ」と改めて感じたと書かれている。文学は、その生物学的な死に人間の顔を与える。死に「同意することができる」ための奪われない絶対性を探り、描きだそうとする。
古墳やピラミッドは、権力者が空間支配を果たしたのち、時間からの支配を逃れようとして、造られたモニュメントだ、というような誰かの文を読んだことがある。時間の支配から逃れて逆に時間を支配し永遠性を獲得しようとする。始皇帝の求めた不老不死、そしてその挙げ句の始皇帝陵しかり。だが、文字の誕生によって記述されることが生まれる。歴史が記述されるようになると、巨大モニュメントは姿を消していくと、その文には書かれていた。文字による歴史記述での時間の乗り越え。これは、もちろん権力者の話で、権力者の欲として語ってしまえば、それまでだ。が、僕らが僕らの日々の中で遣う文字も、ただ消えていくだけのものではないのだ。あまりにも消え、消される文字が多いのだが。
そして、作家は、「かけがえのなさ」を「かけがえのなさ」として定着するために記述する。そこに残された言葉が、消えゆくものを残すのだ。
あとがきで書く。「死者はいったい何歳なのだろう?」と。そして、「多様な年齢の父」を「追憶し」、「対話を交わすこともある」と作者は告げる。「懐かしさ」という関係にたどり着くまでに記述された「あなた」の顔があり、「あなたたち」の時間があり、それは、誰もが迎える「私たち」の時間でもあるのだろう。死に「同意する」ことができるまでの思考の軌跡が、やわらかく手渡される。

「その鳥は聖夜の前に」飛び、そして残る。飛んだものは実体で、残ったのが影なのだろうか。飛んだものが影で、残ったものが実体だろうか。どちらも、まぎれもないひとつの実体なのかもしれない。

ウン・ヒギョン(殷熙耕)「疑いのススメ」呉永雅(オ・ヨンア)訳(クオン)

2014-02-01 15:31:36 | 海外・小説
『新しい韓国の文学』シリーズの一冊。このシリーズはとにかく面白い。
今回のウン・ヒギョンの短編集『美しさが僕をさげすむ』もパラパラと読んでいるが、面白い。その冒頭の作品。偶然と必然をめぐる問いの中に、現代社会で生きる僕たちの心の処方のずれを描きだしている。

小説は、割引率が高い、列車の4人向かい合わせの相乗り席に乗る場面から始まる。本当にそういう座席があるのだろうか。韓国の列車は確かにほとんど2人がけで、場所によって4人向かい合わせがあるようになっている。きっと、その4人席は安いのかもしれない。切符は4人一組になっている。だから、その切符を買った者は、一緒に乗り込まなければならない。主人公のイ・ユジンという女性、男、そして女子高生の友だち2人が、乗り合わせる。この4人で話が進むのかと思ったら、これは偶然性ということへの契機である。動きだす列車。ユジンは思い出の中に入る。

ここからが、小説の中心のストーリーになる。ユジンは、偶然書店であった同姓同名の男性と待ち合わせをしている。そこに現れた男は、自分は待ち合わせた男の双子の弟だと告げる。そして、兄は悪魔だと言う。兄は、すべてを計画して、必然的にユジンに出会って、必然的にユジンの心を手にしたのだと語るのだ。しかも、弟である自分になりすまして。ユジンは、それを受け入れない。自分たちの出会いは偶然であるとして自称弟と対峙する。2章はほとんどが会話である。「神はサイコロ遊びをしない」という弟と「神はサイコロ遊びをする」というユジンとの「疑い」の応酬。現代人は、どこに根拠を求めていくのだろう。3章では、それに韓国でよく語られる「運命の人」という言葉も絡んでくる。「運命の人」とは、偶然なのか必然なのか。何を持って人は相手を「運命の人」ととらえるのか。話は、双子が双子であるという証明もなされない。おそらくこの双子は一人の裏表なのだろう。
訳者があとがきで「ユーモアというよりアイロニーを用いた」感性と書いているが、その距離感が独特の魅力をだしている。
会話の一部を抜いてみる。ユジン、弟の順。

 「思いがけないからこそ、偶然というんじゃないんですか?」
 「人というのは、偶然の出来事に意味を見い出します。(略)問題は、人
 がそこに特別な意味があると思いたがるという点でしょう。(略)偶然が
 繰り返されたと思い、そこに運命的という意味を見たんじゃないですか」
 「あなたは、その必然的な因果関係というものを、何としてでも見つけ
 だすというのですね」
 「兄が、あなたについてすでに多くの情報を把握していたとすれば、あ
 なたと自分の間に偶然が重なるように見せかけることも、さほど難しく
 はなかったはずです。結論としてあなたが思う運命のようなものは存在
 しない。『神はサイコロ遊びをしない』という科学者の言葉を知っていま
 すね?」
 「それなら、『神はサイコロ遊びをする』という結論が出ていませんで
 したっけ?(略)」
 「規則に基づいて判断し、準備しなければ世界は混乱に陥りす。(略)」

と、こんな感じで運ぶ。ユジンは負けずにジョン・レノンのことばというものも引いてくる。

 「わたしたちが計画を立てている間に起こった偶然こそが、その人の人
 生だというジョン・レノンの言葉を、あなたは聞いたことがあるかどう
 か知りませんけど。」

ふふ、と笑いが出てくる。だが、うすら寒さがどこかにある。共感ではないが妙な納得を感じる。寄る辺なさが根拠を求めてあがいているような感傷がよぎる。生きる処方をめぐる問いがボクらをボクらの今とつなごうとしている。たとえ、その処方が適していないとしても。ユジンは兄の存在を信じる。あの日、マンションを訪ねてきた男は兄だと思いながら、彼の言葉を思いだす。

  あの日マンションを訪ねてきた男の言葉を、ユジンはしばらく忘れる
 ことができなかった。世の中というのは、それこそ、勝手気ままに転が
 っていくんですよ。汚れや憎悪、嘆きであふれています。正直、どんな
 ふうに生きたって構わない世界だと思います。僕が誰だろうと何の関係
 もない。この世が、すべて精密に計算されたシナリオ通りに動くと思い
 ますか? そうだとしたら、僕はおそらくシナリオ通りには跳ばないウ
 サギなんでしょうね。

「跳ばないウサギ」という比喩がいい。そのあと、最終章の4章で冒頭の列車の中の場面に移って、ウサギの習性についての話が書かれる。

  ウサギは敵を見つけた瞬間から、無条件に跳び回りだすんだよ。何の
 規則もなく勝手気ままに跳びはねるのさ。どこに跳んでいくかわからな
 いから、どんな作戦を練ったって無駄ってわけ。シナリオ通りに跳びは
 ねてたら、とっくにキツネかタカに捕まって食べられてるかもしれない。
 女子高生たちが問いかけた。そうやって好き勝手に跳び回って、よりに
 よって敵が行く方向に走っていくような運の悪いウサギもいるんです
 か? そうなったら無残にも食べられちゃうんじゃないですか? 男が
 突然大きな声で笑った。

論理的な背景と比喩などを駆使した表現が面白く転がっていく。

この短編集の表題になっている短編「美しさが僕をさげすむ」は、ダイエットを始める男の話だ。短い章の切り出し方がシャープな展開を生みだしている。ダイエットをめぐる原始の人類の自己保存能力と現代人の欲望とのディレンマが、エピソードに思索を交えて表現される。
情感は削がれている。ただ、現代を拒絶しているのではない。現代を生きる自分たちを見据えて、その心を描きだすことで時代を生きる者への問いと受容を示している。

あっ、偶然と必然の違いというより、偶然が運命という必然になるという流れと、計画的に誂えられた偶然を装った嘘の運命との違いなのかもしれない。