パオと高床

あこがれの移動と定住

植村和秀『昭和の思想』(講談社選書メチエ)

2011-04-23 14:12:53 | 国内・エッセイ・評論
まず、この語り口調の平易さにほだされる。
さらに整理のよさと手際の周到さでわかりやすいという気にさせる。それで、この本、一気読みできるわけだが、本来ここにあるものの持っているわかりにくさは、思想というもの自体のわかりにくさであるわけで、さらに思想が政治思想として動く昭和を捉えようとしているものであれば、致し方ないのでは、と思う。ただ、時間軸としての戦前=戦後という区分けではなく、昭和が持っていた「二つの貌」を体現している人物を定点にして論じている本書は、この先を同じ著者の別の本で読みたくさせる魅力を持っていた。

著者は、「理の軸」と「気の軸」を設定する。そして、「理の軸」の右に平泉澄を左に丸山眞男を置く。この「理の軸」は「政治理念によって自己形成することを生の理想とし、理念によって論理的に再構成することを重視」する軸とされる。そして、平泉澄を「皇国史観というものを非常に明晰に、論理的に作り上げた人物」として右に配置する。一方の丸山眞男を「国民主権」にこだわり、「民主主義の理念」を「人間の生の理想としてみんなに身に付けてもらいたい」と考えていると捉え、現実を「遠慮なく批判」していく人物として左に置いている。そして、この二人がそれぞれ右翼左翼の両方から反発されるのは、右翼左翼からの反発というよりも発想方法の違う「気の軸」からの反発だったのではないかと論じている。

では、「気の軸」には誰を持ってきているかといえば、ポジティヴな方向が西田幾多郎、ネガティヴな方向が蓑田胸喜となる。ポジは積極的、創造的、ネガは消極的、否定的と考えてくださいと語られる。「気の軸」の発想方法は、「絶対的なるものを求め、根源からの起動を目指し、流れや勢いに乗って気力を競い合います」とされ、「普通の意味で政治的ではない。この世のもの以外のものを見ている」と「理の軸」の政治性に対比させる。
ところが、昭和の思想は、二〇世紀の思想であり、二〇世紀の思想は、国家と社会が区別しえない関係になっているという点に置いて、政治思想の様相を帯びるということで、いずれもが、「昭和期の引力」に引きつけられ、政治に関与していってしまうとして、著者は「昭和の思想」を俯瞰していくのだ。
この「立体交差する二つの軸」から「昭和の奇妙な精神風土の本質」を解読しようとしている。
平泉澄や蓑田胸喜について、ボクは全く知らなかった。この人物の紹介を受けたというだけでも、この本、面白かった。
さらに、最終章の「二〇世紀思想史としての昭和思想」での、二〇世紀を「政治化の時代」として「国家がトータル」になっていくという論述がなかなかだった。
では、二一世紀は。
植村和秀は「あとがき」で、「グローバル化と情報化の急進展による、歴史的な変動期」に突入していると書いている。であればこそ、昭和の中にあった複数の思想の解読が必要とされるのかも知れない。
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小池昌代 林浩平 吉田文憲編著『生きのびろ、ことば』(三省堂)

2011-04-16 09:53:48 | 国内・エッセイ・評論
書名が、ちょっと強すぎるが、これが詩人たちの思いであると考えよう。

「言葉は生きているのだ。話し言葉も書き言葉も、時代の気風を背負い、どんどん変化し、それ自体で生命を持っている」だから、「言葉をコントロールしようとすること自体、おかしなこと」であり、「言葉を使っている」と考えているが、「本当は言葉の方に使われているのかもしれない」という思いを持って、「そんなイキモノである言葉」を、「さまざまなテーマのなかへ。手から離して、ほうり込んで」みて、仕上がった一冊。この小池昌代が書いた「まえがき」の文章に、すでに小池昌代の文体があるようにも感じたのだが、詩人13人による詩とことばをめぐる表現集。
そのラインナップは、
平田俊子【笑い】悩める東京タワー
藤井貞和【文語】文語に会うとき
小池昌代【ことばとエロス】言葉以前
杉本真維子【ことばと肉体】沈黙する身体
田口犬男【路上のことば】対話篇〈それはたまねぎではない〉
林浩平【挨拶】文体と儀礼感覚
高橋順子【間】「間」について
正津勉【オノマトペ】内奥の声
吉田文憲【方言】〈うだでき〉場所の言葉
建畠哲【死語】死語のレッスン
伊藤比呂美【まじない】私のまじない
四元康祐【翻訳】〈詩の共和国〉への通行証
阿部嘉昭【ネット詩】ナルシスから離れだしたネット詩
である。

「言葉は、その根っこを、言葉のない世界に、深く浸している。その根を持たない言葉は、ただの浮遊する記号となってしまう。」と書く小池昌代の文章は、言葉の交感性と交換性に触れていて興味深かった。言葉のない世界を翻訳しながら、言葉のない世界にふたたび連れていかれる感じが伝わってきた。これはさらに、四元康祐のエッセイの、実際の「翻訳」という行為に繋がっていき、「詩と根気よく付き合って、複数の視線の重なりのうちに立体的に捉えてゆく試み方は、必然的に批評性を帯びてくる」という複数視線の交流する詩の場を提示している。原詩の直訳から翻訳への実作も記述しながら書かれた四元の文章は面白い。
面白いといえば、やはりの伊藤比呂美で、「私見であるが、詩にはもともと三つの役目があると思っている」と書きだすや、その三つは「うた」「かたり」「まじない」だとなり、「その中で、〈まじない〉に、わたしは執着している」からあとは、伊藤比呂美の「語り」に巻き込まれてしまう。
他には平田俊子の「笑いは詩の目的地ではなく、踊り場のようなものだ」と書く、入沢康夫と伊藤比呂美の「笑い」のセンスの違いなども含んだエッセイはどこか笑える。そして、この「笑い」が田口犬男に引き継がれているのだ。

言葉について考え、詩に触れると、小池昌代が「まえがき」で書いていたように、「日常が、世界が、違って見えてくる」のかもしれない。「ものの表面をおおっていた〈あたり前〉の皮膜が、一枚、まずぺろりとむける。一枚、もう一枚と、さらに深く、世界をむいていくのは、これを読む、読者の役目である」のかもしれない。なぜなら、読者も言葉の世界にいるわけであり、言葉の世界にいるということは、常に別の言葉の世界への通路に接しているということになるのだから。
ただ、今、ボクらは、日常と違った世界を見ることではなく、現実としてある世界を違えて、日常を取りもどすことに繋げようとする力を詩や言葉の中に見いだそうとしているのかもしれない。現実を、世界を違って見るために、日常であったはずのものを復元する言葉を求めているのかもしれない。
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