樋口一葉を読んだときに、この系譜に位置する作家は誰なのだろうと考えてみたが、そうそう系譜で小説を読んでいるわけでもないし、とにかく読んでいない作家が多いわけで、なかなか難しいのだが、尾崎翠と矢田津世子という名前が思い浮かんだ。似ているというわけではなく、単なる連想なのだが、この文庫に収められている作品から『神楽坂』と『父』を読んでみた。
一葉にある文体のリズムやうねり、色彩や音、押し込められた情念や胸を打つ情感はなかったが、微妙な情感を感情移入せずに、客観性を持って書いている距離感があった。小説は1935年、36年に書かれている。その当時の文学の流れのなかで、矢田津世子が選び取った、あるいは書き得た表現のスタイルがこれだったのかもしれない。微妙な心理の葛藤が執拗とならない節度を持って表現される。社会性が単なる告発とならずに、受け容れがたさを受容してしまっている姿として描き出され、そのことでむしろ時代の構図を浮き彫りにする。制度への疑いと、制度を受け容れている自分たち自身への批判という両方を持ちながら、さらにその中で生きている自分たちの愚かさのようなものや、やるせなさのようなものを突き放さずにいる作家としてのスタンスが小説を味わい深くしている。
『神楽坂』の本妻と妾の葛藤。「爺さん」が妾宅に行っている間に虫を刺したり、あるいは、その間に病床にありながら縫い物をしたりする妻の行為の凄さ。一方で妾のお初は、より楽な場所を得ようとして正妻になることを拒みながらも、正妻への夢も持ち期待もしてしまう。依存する愚かさと依存して生きる不幸を伴ったしたたかさ。そのお初によって生活を成り立たせる母。本妻に尽くしながら娘のように暮らす種は、本妻の死後養女への可能性を持ってしまう。そんな女性どうしの葛藤の上に立ち、舵を取りながら自己の欲望を満たしつづける「爺さん」。家父長制が持つ社会の権力の構図が描き出されている。
『父』でも、家制度の待つ権力が描かれる。父によって認められ、可愛がられることで家の中でのポジションを確保する娘や妻や妾たち。彼女たちは、お互いが思いやりを示しあったり、反発しあったりするのだが、その心の動き自体が家父長制を支えてしまっているということが、この小説では紡ぎ出される。それは、生きていくための姿でありながら、そう生きざるを得ない社会的不幸であるのだ。
どうして、こんな時代なの?で、どうしてあなたたちってこうなの?そして、私たちって何でこうなの?といった声が小説から聞こえてくるのだ。この「私たちって」において、小説は川村湊が解説で指摘するように森鴎外の『雁』などと一線を画すのだろう。樋口一葉と同様に作家としての闘いのようなものが感じられた。これは、もちろん女性であり作家であるということが、否応なしに引き受けざるを得なかった闘いであるのかもしれない。
系譜的には、どうだろう?樋口一葉の系譜というのはないのかもしれない。でありながら、樋口一葉の系譜でない作家もいないのかもしれない。とか、ぐるぐる問答で。
一葉にある文体のリズムやうねり、色彩や音、押し込められた情念や胸を打つ情感はなかったが、微妙な情感を感情移入せずに、客観性を持って書いている距離感があった。小説は1935年、36年に書かれている。その当時の文学の流れのなかで、矢田津世子が選び取った、あるいは書き得た表現のスタイルがこれだったのかもしれない。微妙な心理の葛藤が執拗とならない節度を持って表現される。社会性が単なる告発とならずに、受け容れがたさを受容してしまっている姿として描き出され、そのことでむしろ時代の構図を浮き彫りにする。制度への疑いと、制度を受け容れている自分たち自身への批判という両方を持ちながら、さらにその中で生きている自分たちの愚かさのようなものや、やるせなさのようなものを突き放さずにいる作家としてのスタンスが小説を味わい深くしている。
『神楽坂』の本妻と妾の葛藤。「爺さん」が妾宅に行っている間に虫を刺したり、あるいは、その間に病床にありながら縫い物をしたりする妻の行為の凄さ。一方で妾のお初は、より楽な場所を得ようとして正妻になることを拒みながらも、正妻への夢も持ち期待もしてしまう。依存する愚かさと依存して生きる不幸を伴ったしたたかさ。そのお初によって生活を成り立たせる母。本妻に尽くしながら娘のように暮らす種は、本妻の死後養女への可能性を持ってしまう。そんな女性どうしの葛藤の上に立ち、舵を取りながら自己の欲望を満たしつづける「爺さん」。家父長制が持つ社会の権力の構図が描き出されている。
『父』でも、家制度の待つ権力が描かれる。父によって認められ、可愛がられることで家の中でのポジションを確保する娘や妻や妾たち。彼女たちは、お互いが思いやりを示しあったり、反発しあったりするのだが、その心の動き自体が家父長制を支えてしまっているということが、この小説では紡ぎ出される。それは、生きていくための姿でありながら、そう生きざるを得ない社会的不幸であるのだ。
どうして、こんな時代なの?で、どうしてあなたたちってこうなの?そして、私たちって何でこうなの?といった声が小説から聞こえてくるのだ。この「私たちって」において、小説は川村湊が解説で指摘するように森鴎外の『雁』などと一線を画すのだろう。樋口一葉と同様に作家としての闘いのようなものが感じられた。これは、もちろん女性であり作家であるということが、否応なしに引き受けざるを得なかった闘いであるのかもしれない。
系譜的には、どうだろう?樋口一葉の系譜というのはないのかもしれない。でありながら、樋口一葉の系譜でない作家もいないのかもしれない。とか、ぐるぐる問答で。