パオと高床

あこがれの移動と定住

ケリー・リンク「パーフィルの魔法使い」柴田元幸訳(早川書房)

2016-03-27 10:40:11 | 海外・小説
『プリティ・モンスターズ』収録の一篇。
これはよく出来た小説だ。裏表紙に「傑作ファンタジー」と書かれて紹介されていたけれど、シンプルな線があるので入りやすい。
例えば、この小説集の「プリティ・モンスターズ」に比べるとということだが。もちろん、入りやすさという話であって、
「プリティ・モンスターズ」の構造の複雑さは凄いと唸ってしまうわけで。
オニオンとハルサという、いとこ同士の二人。ハルサは魔法使いの召使いとしてパーフィルに連れていかれる。そこで、魔法使いに
奉仕させられるのだが、魔法使いは姿を見せない。家族や人々の危機を魔法で助けてもらおうと願うのだが、魔法使いは現れないし、
魔法を使わない。その中で、彼や彼女たちが生き抜いていく、築いていく未来への希望の力が詩情を滲ませながら描き出されていく。
オニオンとハルサは心を覗くことができる。また、ハルサは先を見る能力を持っている。そんな二人の成長物語としても読める。
どこか筒井康隆の七瀬シリーズ『家族八景』を思いだした。そして、宮崎駿のアニメも連想した。宮崎アニメの影響はあるのかもし
れない。この小説は2006年の発表だから、それもありかも。

  オニオンの頭の中で声が聞こえた。「坊や、心配するな。すべてうまく行く、
 あらゆる物事はうまく行く」。トルセットの声のような、少し面白がっている、
 少し悲しげな声だった。

トルセットは、魔法使いの召使いを買いに来る、魔法使いの召使い頭である。この人物も魅力的だった。
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司馬遼太郎「高野山みち」(『街道をゆく9』から)朝日新聞出版

2016-03-24 09:31:54 | 国内・エッセイ・評論

 九度山とは町の名で、山ではない。

あっ、司馬節の始まりだ。
久しぶりの『街道をゆく』。「高野山みち」は短いけれど、やはり司馬遼太郎はいい。
「真田庵」から始まる。今年はドラマで騒がしいだろうなと思う。そこから、幸村親子をたどって、紀ノ川の舟着き場から
高野山への「町石道(ちょういしみち)」のとば口に至る。思索は江戸期の年貢から空海や白河院をめぐり、「高野聖」に
行き着く。街道を経ながらあちらこちらと往き来しながら、あるこだわりが現れるとそこに、テーマのようなものが浮かび
上がる。ここでは、高野聖が、それにあたる。当時の正規の僧と私度僧である「聖(ひじり)」の関係を辿り、聖の役割と
その変質を追う。一方で真言密教の流れとして、そこから流れた立川流も絡める。後醍醐天皇の南朝と北朝の異なる思想世
界にも触れる。さらに聖による密教から阿弥陀信仰への方便のような移行も語る。また、聖の中から重源という魅力的な人
物を引き出すと、彼を造型していく。この人物へのまなざしは作家だなと思う。
作家だなといえば、描写にもそれはあって、こんな描写が出てくる。

  やがて赤い欄干の小さな橋をわたった。ここからむこうは、結界であるらしい。
 路傍にヒメシャガが群生していて、露が結晶したような紫の小さな花をつけていた。

と思うと、真言立川流に帰依したとする後醍醐天皇について、

  後醍醐天皇というのは、宋学の尊王攘夷思想に熱中したが、熱中のあまり、日本の
 みかどと本来絶対的な専制権力をもつ中国皇帝とおなじであり、おなじであるべきだ
 とする政治的信仰をもつにいたった。南北朝の争乱は、この天皇とそのまわりの公卿
 たちの熱狂的な宋学研究からおこったと見られなくはない。
  一方、北朝の天皇では禅宗に凝る人が多かった。禅宗を一つの認識論としてみれば
 まことにあっけらかんにものごとを見切ってしまうという思想で、政敵への呪いや政
 敵を殺す調伏を事としていた当時の密教とはまるでちがった思想世界であるといって
 いい。

と、南北朝の思想世界の差異について思索する。
描写と思索。それが司馬遼太郎の文章の流れ、文体と一致する。読む醍醐味が横溢する。のみならず、司馬遼太郎が空腹を
抱えてカレーライスの店を探したり、迷ったりの臨場感とユーモアが楽しい。この緊張と弛緩。そして司馬遼太郎が持つ思
索の余裕に包まれて、街道を歩く読書の快楽に浸ることが出来る。
そう、

  息切れしないように石段をゆっくり登ることにした。

というように、せわしなさと離れて、ゆっくりと。

 テレビの「100分de名著」という番組で司馬遼太郎の特集を放送していた。磯田道史の話は面白いな。何か本を探して
みよう。
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ケリー・リンク「墓違い」柴田元幸訳

2016-03-09 11:45:31 | 海外・小説
早川書房から出版された『プリティ・モンスターズ』の最初に収録されている小説。
本当に久しぶりに読んだケリ-・リンク。やはり面白かった。

この本、各小説のタイトルの裏に挿画があって、一節が添えられている。この「墓違い」では、小説の中で出てくる像が描かれている。
その像は、頭がもげた聖フランチェスコ像に、ガネーシャ象神という象の顔をした神の頭を載せたものだ。そして、添えられた一節が、
「誰だって、うっかり違った墓を掘り返してしまうことはある。」なのだ。
ドキッとしながら、クスッと笑ってしまう。まず、誰だって、墓を掘り返したりしないだろうと、思ってしまう。が、そのあり得ないこ
とがあり得ても平気で、それでいながら奇妙なのがケリー・リンクだ。
笑いながら、切なくて、怖い。スリリングで突拍子もないのに、あたりまえのように描かれて、そのあたりまえさの中に入っていきなが
ら、奇妙さが面白い。とんでもない出来事が起きているのに、起きていないようで、あれ、この何もなさって普通じゃんと思うと、その
状況自体がとても普通じゃないことを思い起こす。拘束されずにせき立てられずに、いつか踏み外している快感。それが、楽しい。
この小説の書き出し。すでに語り手と登場人物がいる。一気に奇妙さへ。

 あんなことになったのもみんな、マイルズ・スペニーという、あたしがむかし知っていた男の子が墓泥棒の真似事を
思いついて、ガールフレンドだった、死んでまだ一年も経っていないベサニー・ボールドウィンの墓を掘り起こそうな
んて了見を起こしたからだった。目的は、ベサニーの棺に入れた自作の詩の束を取り戻すこと。入れたときはロマンチ
ックで美しい行為に思えたわけだけど、実は単にすごく間抜けな真似だったのかもしれない。何しろコピーも取ってお
かなかったのだ。

と、こう始まる。ユーモアを交えながら、ワクワクさせる。スペニーは彼女を亡くし、彼女に捧げる詩を棺に入れて埋葬した。詩人に
なりたい彼は、詩のコンクールに出品する作品を考えたときに、埋葬した詩の束が素晴らしかったと思い、どうしても取り戻したくなる。
そして、墓を掘り起こしてしまうのだ。そして、掘り返した墓が、……。ここから、表紙裏の一節と、その一節から、読者によっては逸
れていく、あるいは予想通りの、物語が紡がれる。どちらにしても面白いのだ、意表を突かれても、突かれなくても。そして、後半何だ
か、切な哀しさがふっとよぎる。ページにして30ページほど。すぐに他の作品も読みたくなってしまう。

こんな一節もあった。

 詩人とは、瞬間の中で生き、と同時に瞬間の外に立って中を見ている存在であるはずだ。

フーム。谷川雁という詩人は「瞬間の王は死んだ」といって詩をやめたという。
もうひとつ。印象に残った場面。墓を掘り返したときに、そこに眠る女の子が口を開く場面。

 「トントン(ノックノック)」と彼女は言った。
 「え?」とマイルズは言った。
 「トントン」と(略)女の子はもう一度言った。

いいよな。
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