パオと高床

あこがれの移動と定住

ハン・ガン『少年が来る』井手俊作訳(クオン「新しい韓国の文学15」2016年10月31日)

2016-12-17 02:12:35 | 海外・小説

  雨が降りそうだ
  君は声に出してつぶやく。
  ほんとに雨が降ってきたらどうしよう。

小説は、こう始まった。この本を読み終えたとき、気がつくと、外は冬の冷たい雨が降っていた。韓国語では、雨と血は表記も
発音も違うけれど、似た音「ピ」。光州事件を描きだした小説の書き出しは象徴的だ。

読み終えたときに風景が一変してしまうような小説がある。『少年が来る』は、そんな小説だった。そして、小説が即時性では
なく、時間を踏みしめるようにして成熟し出来事を獲得していくものだということを改めて感じた。その時間の風化を擦り抜け
て現れだしたものの姿が痛く、辛い。
と同時に胸に迫り、ひたひたと浸潤してくる。しかも、これは、起こった事実の持つ事態からだけではなく、書かれた小説がも
つ魅力に貫かれていて、むしろ小説の想像力と創造力が事態を構築しているといえるのだ。痛く、辛いが小説を読む愉しさに出
会わせてくれる。それを「愉しさ」といっていいのだろうか。いや、どのような状況が描かれていてもしっかりとした小説を読
むことは愉しさなのだ。

この小説は7章からなる。第1章で登場する同じ時間、同じ場所にいた彼ら、彼女たちが、各章での中心人物になる。ハンガンの
小説的挑戦は、この各章で人称を使い分けていることだ。韓国の小説は基本、一人称で書かれるものが多い。三人称の主人公で
あっても、小説で書かれていく語りの人称は一人称になる。例えばAさんが主人公でも、小説の中では「私は」と書かれていく
ことが多い。だが、ハン・ガンはその人称を使い分けているのだ。
しかも、単に実験のための実験ではない。光州事件に出会った者たちのそれぞれを書き分けることで、共通の時間を生きながら、
共通の暴力を受け、共通の痛みを負った、しかし、個別のかえがたい生を描きだしているのだ。

第1章は、市民に対する軍の鎮圧発砲による大量の死者を安置した尚武館(サンムグァン)から始まる。友を探しに来る中学生の
トンホ。その友チョンデとチョンデの姉のチョンミ。死者を拭きあげ安置する作業を行うソンジュ姉さん、ウンスク姉さん。学生
デモをまとめるチンス兄さん。そして、トンホを迎えに来る母。軍隊は最後の一斉攻撃を始めようとしている。その中で、作者は
中学生のトンホに語りかけるように「君」という人称を使って小説を始める。6章までで、死者の魂となった人称までも使い切って、
このそれぞれが受けた暴力と負った傷を描きだす。ただそれを糾弾し告発するのではない。むしろ鎮魂し、暴力の持つ暴力性の不
条理を見つめる。不条理というよりは異常な条理といえばいいのか、国家の非人道的な合理。そして、その暴力がいかに癒やしが
たく心を痛め続け、それでも人がそれを抱えて生きていくのかを表現していく。人間性の尊厳と人間の野蛮さ。どちらへも裏返る
表裏の危うさと体制の恐ろしさ。個別の生への仮借なき暴威に対する生の静かな問いかけ。

  魂には体がないのに、どうやって目を開けて僕たちを見守るんだろう。

  今、尚武館に居る人たちの魂も、鳥のように体からいきなり抜け出したのだろうか。驚いた
 その鳥たちはどこに居るのだろう。

デモへの圧搾は、鎮圧だけでは終わらない。連行された者たちへの、その人間の尊厳を奪うための狡智で残虐な拷問が待っている。
また、子や知人を失ったものは、その喪失から逃れられない。

  ガラスは透明で割れやすいよね。それがガラスの本質だよね。だからガラスで作った品物は
 注意深く扱わなくてはいけないよね。ひびが入ったり割れたりしたら使えなくなるから、捨て
 なくてはいけないから。
  昔、僕たちは割れないガラスを持っていたよね。それがガラスなのか何なのか確かめてみも
 しなかった、固くて透明な本物だったんだよね。だから僕たち、粉々になることで僕たちが魂
 を持っていたってことを示したんだよね。ほんとにガラスでできた人間だったってことを証明
 したんだよね。

最終章では作者ハン・ガンとおぼしき人物が語り手になる。ハン・ガンは1970年光州生まれ。80年の光州事件の時は10歳ほどである。
事件の時はソウルに住んでいる。朝日新聞の書評で蜂飼耳はこう書いている。

  子供の時に生じたこの出来事がいかに深い傷と衝撃に満ちた主題かということは、この小説
 そのものが語る。作家には、いつか書こう、と思うテーマがある。本書はそうした意気込みと
 緊張感を確実に伝える。(朝日新聞2016年12月11日 日曜版読書欄)

全斗煥(チョンドファン)による粛軍クーデター、軍部掌握をきっかけにして起こった民主化運動の象徴的な事件は、「スパイに
扇動された」とされ韓国内では報道管制が引かれる。外信により事件は伝えられ、また、次第に「光州での暴動」とされた事態は、
その規模や内実が明らかになっていく。ハン・ガンの中でも、長い日月を経て、積み重なるように思いが蓄積していったのではない
だろうか。

  ある記憶は癒えません。時が流れて記憶がぼやけるのではなく、むしろその記憶だけが残
 り、ほかの全てのことが徐々にすり減っていくのです。カラー電球が一つずつ消えるように
 世界が暗くなります。

だが、小説がやって来る。

  始めるのがあまりにも遅かったと私は思った。(略)
  しかし今やって来た。どうしようもない。(252)

そうして、小説はやって来た。

  真っ暗な芝生の下で踏んでいるのは土ではなくて、細かく砕けたガラス片のようだ。

ガラス片を踏みしめながら、だが、確実にやって来た。今、まだ蔓延する暴力の時代の真っ只中に。
問いが残る。

  つまり人間は、根本的に残忍な存在なのですか? 私たちはただ普遍的な経験をしただけな
 のですか? 私たちは気高いのだという錯覚の中で生きているだけで、いつでもどうでもいい
 もの、虫、獣、膿と粘液の塊に変わることができるのですか? 辱められ、壊され、殺される
 もの、それが歴史の中で証明された人間の本質なのですか?
  

冒頭は、2014年のセウォル号転覆事件を連想させた。また、今回の朴槿恵大統領退陣のデモは、ちょうど光州事件の頃学生だった
人の子どもたちも参加しているのではないかと思うと、恨の解消に向かうエネルギーだという気もする。それが朴正煕の子の退陣
に向かっているということに歴史の繋がりを感じた。

それにしても、すごい小説だった。ハン・ガンは『菜食主義者』を2013年春に読んだときに圧倒されたが、今回はさらに、また心を
つかまれた。

そういえば、テレビドラマの『第五共和国』と『砂時計』、よかったな。



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藤維夫「畠も森も」(詩誌「SEED」42 2016年10月10日)

2016-12-12 11:12:18 | 雑誌・詩誌・同人誌から
決然と決別する。
ことばが美しさを得るときはどんな時だろう。ことばも、花の美しさについて小林秀雄が、
美しい花がある。花の美しさというようなものはない、と語ったように、ことばの美しさというようなものはなく、
美しいことばがあるだけなのだろうか。いわゆる美辞麗句がむしろ輝かず、醜悪であるはずのことばが光りだすときだってある。
ことばの輝きは関係が生みだすものなのだろうか。だが、一方で確実に醜悪なことばというものもあると思う。
それを醜悪と感じる感性の基盤まで考えれば、醜悪と感じること、それさえも、疑わしいのかもしれないが。
詩のことばが、常用のことばに抗ったのと同じように、いかにもな詩のことばを疑いだして、詩語それ自体にも
抗い始めたのはいつ頃からだろう。
と、こんなことを考えるのは、藤さんの詩にあることばが決然と決別して、そのことによって強さと美しさを
獲得しているように感じたからだ。いわゆる詩語っぽさと一線を画し、なお俗語の浸食からも逃れていることばの姿があるからだ。

詩「畠も森も」は、こう書き始められる。

 やさしさに道は続いて
 畠のまわり 樹木には無数の鳥がとまっている
 季節を忘れるはずはなく
 しばしば風は流れて行く
 見慣れた風景の道沿いの
 はるかに遠く駅舎はまだ残っている

流れるようなことばが「はるかに遠く」にある駅舎へと連れていってくれる。これは、今残る駅舎でありながら、
なぜか記憶の中の駅舎のように時間のはるかも感じさせる。だから、次の連がくる。

 少年の若いときは戦しかなく
 畠も森もすでに眠ったままだった
 歳月も痛み
 状況の働く間は短い

過去の時間が流れ込む。しかしこれは今へと繋がる時間の仮借なさも孕んでいる。ことばは平易だが、歳月や状況という、
なにげないことばも詩のことばになっているように感じる。

 生活の倦みと波頭の間遠い舟歌
 時がきて 柔らぎかけた記憶の奪還
 明日も今日も無視することはできそうもない
 とほうもない無限の果てでやはり一直線はかぎりがある
 そしてがばっと跳ね起きるしかないだろう

この連の一行目は不思議な繋がり方をしている。比喩が併置されているのだ。波頭とは寄せてくる生活の倦みだ。その比喩と
比喩されるものを併置して、まだるい舟歌を流す。若いときの戦の季節を抜け、平穏にあって、「記憶の奪還」を果たしても、
それは奪還できるものでありながら、無視することができずに訪れてしまうものでもある。忘れられることの幸せということ
もあって、忘れられないことの辛さもあるのだ。そして、記憶が奪還されるということは、それだけ時間を消費したことにもなる。
若さの戦の季節とは別に、今度は迫り来る時(とき)との日常的な抗いがある。日常の中で、朝起きたくないという実存の延期は
「かぎり」を前にして「跳ね起きるしかないだろう」になる。存在を立ち上げ続ける日常の営為が、実は「もの」的存在を
「こと」的存在にするのかもしれない。

 いまさらよこしまに捩じれようとしても
 多くの四季の流れと同じようにどこかに消えると
 孤独が解消した花の咲く庭には誰もいない

孤独の解消はヒトの不在の中で初めて可能になる。巡るものでありながら消えていく四季それぞれ、ヒトの不在の中で時間だけは
それでも流れる。最終連はこうなる。

 だれもかまってくれない沿道の雑踏で
 どこへ行こう
 巷の終焉を見る前に旅立つ
 火の王国とやらの幻想の
 うすまる肉体の血の流れは早い
 おお今は炎暑の真夏なのだから
 きっとフルートの音色も遠ざかってしまった

畠も森も抜けてしまうのかもしれない。雑踏は終焉に向かっているのかもしれない。それは自身の旅立ちとも重なる。
その前に自らは真夏の孤独の先へと進もうとしている。音のない先へと。
だが、この最終連は詩が復活するように詩語が立ち現れているのだ。詩のことばとなって詩語が再来する。
長い時を経ても、ことばへの信頼が失われていないことを、詩は告げている。
ことばの強度は美しさを支える。
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坂多瑩子『こんなもん』(生き事書店 2016年9月30日)

2016-12-10 02:10:20 | 詩・戯曲その他

坂多さんの詩は、いつも、どこかに連れていってくれる。
連れていかれるのは、とんでもない時空の果てではないのだが、間違いなく、時空の裂け目のとんでもない場所だ。
記憶と今がごっちゃになって、それがそのまま自分と他者とを、かつてと今とに住みつかせる。
 そこでは怖さが懐かしさと共にある。そして、怖さはユーモアと併走するし、ファンタジーは残酷さと同伴する。
坂口安吾の「文学のふるさと」が、彼の「ファルスについて」と表裏の硬貨だったように。突き放される孤独は、
いつか受け入れられる孤独の集積を探して、言葉がプリンとこぼれ落ちる。
そこでは、リアルがいつも反リアルで、「反」といっても、カウンターというよりは「汎」に近くて、それが狭隘な
リアルを穿つ。だから、怖愉(こわたの)しい。
 どの詩にしようかと悩んでしまう。で、やはり冒頭の詩「魚の家」。

  砂場で
  砂を
  掘っていたら 掘っていたら
  砂は
  海の匂いをさせて
  海の底だった

 もう、この冒頭で連れていかれる。どこへ、それはわからない。ただ、「掘っていたら」、「海の底に」連れていかれ
るのだ、しかも「匂い」で。だから砂場はもう、変貌する。砂場は砂場のまま、砂場なのに、海の底なのだ。で、

  そこでは
  父の
  もう
  とけてしまった骨の
  すきまから
  小さな魚が生まれている
  うたうように
  うめくように
  それらは
  ひとすじの道をつくっていく

 ここで、「父の骨」と「魚」が出会う。時間なんていう観念ではない。堆く埋もれ積まれた地平が泳ぎだすようで、
短い行替えが、むしろ切れずに連続を生んで、「ひとすじの道」をつくる。どこへ。次でまた展開する。

  遊んでいた子どもたちが
  帰ったあと
  あちこちに
  砂の家がちらばっていた
  くずれかけた階段の下で
  尾ひれのない
  一匹の魚が空をみている

 ここに何を感じるか。何だか置いてけぼりの魚がいる。魚の孤独があるじゃないか。放たれた魚が空を見ている。
「尾ひれのない」魚。もう泳げない魚か。身のくねくねで進む魚もいるのだろうが。進む道筋を持たない迷子のような魚か。
それともヒトの喩としての魚かもしれない。そうして、いるはずの私はどうなるのだろう、どこにいるのだろうと思っていると、
次の連でさらに連れていってくれる。「あたし」は迷って帰りつくのだ。

  あたしは
  二度も道に迷って
  家に帰った
  台所では
  母が
  魚の頭を落としている
  あたしは
  子どものふりをして
  「タダイマ」といった
  卓袱台のある
  へやに
  父の写真が飾ってあり
  頭のない魚が行儀よく並んでいた
                   (「魚の家」全篇)

 クスッと笑いながら、ドキッとする。この感じにつかまれる。収束しているようで、むしろ開かれる、
この感じが心地よい。
 もう一篇。表題詩「こんなもん」の書き始め。これも引き込まれる。

  すると柩がおいてあった
  蓋をもちあげてみるとくるんとまるめたような肉のかたまりが入っている
  粘土みたいな
  発酵状態がいいのか皮膚はとても丈夫そうでつやつやしている
  しかしこんなものが家の中にあるのはまずい
  まずいものは埋める
                (「こんなもん」冒頭6行)

 と書き始められる。続きを読みすすめたい、でも、ちょっと立ち止まりたい。そんな気分にさせてくれる。
 装幀や文字などといった詩集全体まとめて、創られた世界が魅力的な一冊だった。
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エイミー・ベンダー『レモンケーキの独特な寂しさ』管啓次郎訳(角川書店 2016年5月31日発行)

2016-12-06 13:02:00 | 海外・小説
 他人の痛みが入りこんできて、自身の痛みと反応しあってしまったときに、人はどうやってその痛みを抱え込みながら、
それでも成長していくのだろうか。
 過剰と欠如。適切という状態ははたしてあるのだろうか。
 ボクたちは自分に出会う前に他人に出会ってしまうのではないだろうか。だから、関係の過剰と欠落にいきなり向き合い、
あとから自分を重ね合わせていく。そして、そのずれに突き放されながら、結局、自らを探し始めるのかもしれない。そんな
歩みはじめが再生への希望になるのかもしれない。
 
 と、小難しく考えてしまうのはボクの悪癖だ。
 ひりひりするかなしみが、ユーモアや奇抜な着想、意表をつく比喩、あとがきに書かれている「生まじめな思索とひそかな涙」
などを織り交ぜながら表現されているのが、エイミー・ベンダーの魅力なのだ。

 カバー裏に記されているように、9歳の誕生日にローズは母の作ってくれたレモンケーキを食べて、母の感情を味わってしまう。

  ひと口食べてはこう考えたーうん、おいしい、いままででいちばんおいしい
 ーでもひと口ごとに、不在、飢え、渦、空しさがあるのだ。母が、娘である私
 のためにだけ作ってくれた、このケーキに。

 幸せに暮らしていたはずの自分たちの中に、母の渇望を感じとってしまう。
 この日から彼女は、食べると、それを作った人の感情を看取してしまうという特別な能力を身につけてしまう。工場でそれを作っ
た人がいらいらしながら不満を込めて作ったとか、このパセリを摘んだ人はぞんざいな気分で摘んだとか、

  バターは屋内で飼われている雌牛からとったものなので、ゆったりとした
 味わいに欠けている。卵はかすかに、遠くてプラスティックみたいな味がし
 た。こうした材料のすべてが遠くでぶんぶん唸るような音を立てていて、ぜん
 ぶを混ぜてドゥをこねた職人さんは、怒っていた。

といった具合に。
 彼女は食べものが食べられなくなる。むしろ自販機の食品の方が彼女には食べやすいものになる。ローズは、この秘密を兄の友人
ジョージ以外には内緒にして生きていく。
 そして、成長していく過程で母の秘密に気づき、父の持つ距離感に迷い、失踪を繰り返す兄が持つ世界との違和に出会ってしまう。
それは、自分自身の世界との違和感にも繋がる。

 小説はローズ9歳から10数年間の成長を追っていく。ローズがどうやって、この特殊な才能と折り合っていくか。家族皆が抱えるかなしみを、
どう受けとめていくか。そして、また兄のジョゼフが比較されるように綴られていく。神童のような才能を持ち、母の期待と愛情を一身に
受けながら、失踪を繰り返す兄。謎めく兄の秘密も面白い。ローズとジョゼフ。二人の姿に現代を生きる姿が宿っているように思う。
 うん、少しニュアンスは違うけれど、カバー裏にある言葉が示すように、
「生のひりつくような痛みと美しさを描く、愛と喪失と希望の物語」だ。じわりとほのかに、だが。
そして、それが、ベンダーの魅力であり。

 ジョゼフについてが特にそうだが、解読や解説をしていかないのが、いい。だから、読者は、ひとり静かに、あるいは人と語らいながら、
小説の背後を想い、自分の想像力を付加していける。余地がある小説っていいな、やっぱり。


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