パオと高床

あこがれの移動と定住

唐十郎『少女仮面』(白水社『少女仮面/唐版 風の又三郎』)

2013-07-28 01:06:25 | 詩・戯曲その他
唐十郎のセリフが突然読みたくなって、読んだ一冊。
という、このいい方、ちょっと不思議な言い回しかも。セリフを読みたくなるということに、少しだけ違和感。でも戯曲として書かれているわけだから、読むわけで。戯曲を読む面白さっていうのも、ある。あれこれ、想像しながら言葉と場面を追っかけるのだ。そんな時、圧倒的に面白いのは三次元になっている脚本であって、二次元の脚本は、二次元のセリフが書かれた本は、面白くない。それは、きっと芝居やドラマになってもつまんないのだと思う。いや、読むだけより、もっと、つまんないのかも。本を読む場合は、二次元の脚本でもセリフがよければ読めちゃうわけで。でもね、きっと、そんな脚本は、セリフもつまんないような気がする。で、二次元、三次元といういい方をすれば、岡田惠和や宮藤官九郎は時間軸が四次元に向かっているのかも。
それにしても、唐十郎、佐藤信、寺山修司が好きだな。これに、別役実と清水邦夫を加えてしまえば、なんだか、一時代が現れそうで。

戯曲を読む場合、そこには蠢く身体がある。唐には、有名な『特権的肉体論』があるけれど、唐のセリフから弾け出す身体は、時間を超えたがりながら、超えられない身体の、超えようとする限界が出現するようだ。そのとき想像力が跳躍の軌跡を描くのだが、それを描きだす現前とした舞台が魅力だ。
でも、今は、本の話。
『少女仮面』は、この戯曲自体が「特権的肉体」への渇望を舞台にしている。そう、戯曲を追う作業とは、見果てぬ夢の身体を求める作業なのかもしれない。

一幕三場のこの芝居、冒頭第一場のト書き。

 花道に二人の少女がうずくまっている。明るくなると一人は少女だが、
 もう一人は少女フレンドをかかえた老婆。二人はゆっくりと、そして力
 強く、黒い靴下をあげている。モモには赤い大きなガーター。

そして、主役の少女・貝のセリフ。

 貝 ねえ、おばあさん、春日野さんが「嵐ヶ丘」に行ったとき自分がヒ
  ースクリッフの役をやっているのでヨークシャの荒野を横切るときに
  なって、あの二人の愛の亡霊と三角関係になるのじゃないかとひやひ
  やしたと言っているのだけどあれはわくわくしたのじゃないかしら?
 老婆 それは難解ね。
 貝 もし、わくわくしたのなら、おばあさん、それは不謹慎だと思われ
  る?
 老婆 貝、本当のことを言うと、永遠の処女の考えることは油断ができ
  ないよ。
 貝 永遠の処女って?
 老婆 そりゃ、ヅカ・ガールさ。おまえの春日野さんの話だって、あた
  くしには嵐ヶ丘が嵐ヶ丘を訪問したように思えるのさ。
 貝 何故、春日野さんが嵐ヶ丘なの?
 老婆 すてたパンツに聞いてごらん。

あっ、と、もう引き込まれる。始まった芝居のわくわくが伝わってくる。ヅカ・ガールをめざす少女・貝は、往年のスター春日野に弟子入りする。春日野は『嵐ヶ丘』の彷徨うヒースクリッフとなって、少女にキャサリンを見る。愛の乞食となっているヒースクリッフとキャサリン。セリフは続けて、冒頭部分で鋭角にテーマに迫る。

 貝 ねえ、おばあさん、冷やかすのはやめて、一言だけ言って、春日野
  さん何を知っていたの? ヒースクリッフとキャサリンが、嵐ヶ丘を
  ほっつき歩きながら乞いていたものは何なの?
 老婆 亡霊が、いつも欲しがるもの、それはー
 貝 それはー?
 老婆 肉体。

そして、歌が入る。唐の作詞の歌だ。「時はゆくゆく/乙女は婆アに、/それでも時がゆくならば、/婆アが乙女になるような、Uターンの秘術を誰が知ろう。」そのあと、

 貝・老婆 (二人、口をそろえて)何よりも、肉体を!

そこに、メリー・ホプキンスの「悲しき天使」が響いて、暗転。格好いい。
この後、腹話術師と人形が現れる。これは、第二場とともに名場面を作る。腹話術師が影になり、人形が実体になっていく転換が行われるのだ。腹話術師の方が人形の附属品になっていく。自律的に動く人形は腹話術師を狂気の中に沈める。先行的に勝ち取られる身体と考えることもできるが、そんな理屈よりも、行為主体の中に宿る全体性のイメージの方が強いのかもしれない。もちろん、戯曲である。演出はそこに演出意図をこめることが過剰にできるはずだ。支配・被支配の構図を浮き立たせることも可能だろうし、身体と精神の二元論も可能だ。聖と俗を持ってくることもできるだろう。ただ、流れからいって、身体の問題は切り離せないだろう。

嵐ヶ丘の荒野を彷徨う、春日野と貝。ヒースクリッフとキャサリン。嵐ヶ丘は春日野の中で満州平原になる。過去にスターとして生きた場所。甘粕大尉が現れる。そして、スターであった春日野の肉体を求めた防空頭巾の女たちが登場する。ファンであった彼女たちは、かつて春日野の肉体を奪っていった者と位置づけられる。その肉体を返しに来たのだと言って出現するのだ。肉体は時間の一回性の中にある。しかし、それが時空を超えることは可能なのか。だが、時空を超えたとして、そこに現れる肉体は過去の仮借ない責めを現在にもたらすのではないだろうか。私は私のアイディンティテを時間の中で構築する自己として獲得する。そのことにおいて、そこにある一個の身体は時間の総体として苛酷な刻印を持つ。永遠に少女のままで少女ではいられないのだ。少年のままで少年ではいられないのだ。だから、現在の身体にとって、過去は幻影になる。意識が介在した作りだされた幻になるのだ。防空頭巾の三人は春日野に迫る。

 三人 みんな、返すわ。(一斉に床に置く)
 甘粕 (三人に)それだけかい?
 三人 ええ。
 春日野 あたしの肉体は?
 三人 肉体って?
 春日野 肉体よ。
 三人 そんなもの、あたしたちにくれたことあったの?
 一 あたしたちにくれたのは幻
 二 あたしたちには、あなたのおっしゃられる肉体が見えたこともなか
  った
 三 肉体はあなたが見つけるか、御亭主にあげるしか使いようがありま
  せん。
 春日野 (無言、急にハッとして)甘粕大尉、何でこの子たちをつれて
  きたの?
 
   甘粕大尉はいない。窓にマントだけがかかっている。

 春日野 甘粕っ(マントをひっぱがして)この子たちは一体何よ!?
 三人 あなたのファンよ。無名の尊いあなたのファン。
 春日野 ファンなんか欲しくない、あたしは今、ファンなんか欲しくな
  いんだ。
 三人 どこまでもついてゆきますわ。
   (歌)おおパリ、憧れのパリ(略)
 春日野 何も欲しくない、愛も肉体も。……あたしを一人にして。あた
  しはもう、亡霊でも乞食でもないんだ!

ボクらは回復としての身体という発想をどこで持ったのだろう。そこにはすり抜けていく精神とすり抜けていく身体という二つながらの乖離が前提される。それに、楔を打ち込んでいるのだ。埴谷の「あっは」と「ぷふい」が聞こえてくる。テスト氏はつまづく。ブランショは、マントを残すか。へへっ、という唐の笑いが聞こえるし、見える。
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岡田哲也『茜ときどき自転車』(書肆山田 2013年6月30日発行)

2013-07-23 21:35:46 | 詩・戯曲その他
声が聞こえてくる。何だか、最近、声にこだわっているわけではないのだが、この詩集に収められた詩篇には聞こえてくる声がある。それは、作者の静かな問いの声であり、それに応える生者、死者の声である。その声をどのように聞くか。それは、どのように流れているか。岡田哲也さんの詩集『茜ときどき自転車』の冒頭の詩が告げている。
「舟唄(バルカローレ)」として流れている。しかも、季節は秋。

 くろぐろと 茜の干潟に満ちてくる
 秋の波にも 舟を出そうよ

 さざ波が 鳥肌みたいに立っている

 ぽっきりと 帆柱みたいに父も逝き
 舫いの結びも 解けました

 沖の火は 不知火じゃろか鬼火じゃろか

 ほっこりと 月が素顔で笑う夜は
 蟋蟀(こおろぎ)の声が舟唄(バルカローレ)

 虫は からがら鳴くのかな それとも有心で鳴くのかな

 あっさりと 腹腸(はらわた)の腐った太刀魚と
 はて腹腸の まるでない船頭(かこ)

 舟は浮かんでゆくのかな それとも沈んでゆくのかな
                  (「秋の舟唄」全篇)

舟が揺れているのが見える。漕ぎ出した舟が見えるのだ。と、同時に舟に乗って見ている情景が見える。つまり、舟の外から舟を見ている自分と舟に乗っている自分の双方が、読者には見えるのである。書かれた状況だけなら読者は舟に乗る位置にいる。ところが、その乗った舟が「茜」の中で、波間に揺れているところも見えるのだ。この「茜」は境である。朝に向かうのか、夜に向かうのか。やはり夜に向かっているのか。満ちてくる波は、舟を沖へと連れだしていく。遠景がある。そして、距離を近くにする音がある。往く(逝く)と来るが、揺れるのだ。それは視覚と聴覚の往き来、遠くと近くの往来、浮かぶと沈むのはざまを描きだしていく。そして、音が、それは声になっていこうとする音が、舟を包み込む。時間は、舟唄なのかもしれない。であれば、時は時を越える。唐突に死者の時間が訪れるわけではない。それはゆるやかに往来するように「今」の中に流れこんでくる。

いとうせいこうは、小説『想像ラジオ』で、「永遠って実はこんな風なんじゃないか。広い一本道がスカッと果てしなく続いているんじゃなくて、地獄的に退屈な短距離の反復。」と書いていた。これは、その「地獄的に退屈な短距離の反復」を否定して書いていたわけではない。その「反復」の中に「永遠」があるんじゃないかといっていたのだ。聞くとは、その聞こえる刹那に時間が宿る、瞬間的な永遠の感覚なのかもしれない。音は、消えていく。また、耳がとらえる音は、実はまだ鳴っていない音であったりもする。鳴らない音をすでに予感してとらえている場合もあるのだ。なぜなら、音は聞き及んだそばから通り過ぎるから。だから、先に出かけていってとらえようともするのだ。それが、声であれば、ボクらはいまだ成っていない文脈を聞き分けようとする。徐々に成立していく声の文脈。そこには組み立てられた時間がある。

で、これで終われば、それはそれで、終わりなのだが、どうしてこうして、生きるってことは、そんなもんじゃありません、っていうのが、岡田哲也さんの詩の世界なのだ。「覆された宝石」とは西脇順三郎の有名な詩だが、「覆す」というのは、いつも常に詩の使命の一つであって。
作者が自身の痛みと共に、その覆しを表現していく詩篇は、詩語の強度のしなやかな強さに支えられている。

それにしても、「さざ波が 鳥肌みたいに」とか、「ほっこりと 月が素顔で笑う」とか、「からがら鳴く」とか、いいな。「かな」っていうのも、効いているな。
それに、「服腸」の腐った「太刀魚」と「服腸」の「まるでない船頭」という謎の言葉。これは生者と死者の別なのかなと考えたのだが、対句表現が生きている。

詩集一冊24篇の詩の中に、交感される声の所在がある。そして、滲むような痛みを重ねながらも、自らを見つめるまなざしが、どこにつながっていくのかをまなざそうとする客観性によって構築される、しなやかさ世界があった。

冒頭の詩について書いたが、他にも、「彼岸花のころ」「母星」「夕茜の唄」「鬼の日向ぼっこ」「春は自転車で」「二月九日」「漬物石」「返事」などなど印象に残った。

詩集構成は三部立て。Ⅰが「夏から秋へ」、Ⅱが「冬」、そしてⅢが「ときじくの春」となる。この構成にも詩集によって作者がめざした志向性があるのかもしれない。
「ときじくの春」。この「ときじく」、どちらの意味でとるのかな。「非時香果(ときじくのかくのこのみ)」で考えれば、「橘」で夏から早春へと香を運ぶ永遠性の象徴になる。辞書で「時じ」という言葉を引けば、ひとつが、この意味合いの「時を選ばない。時節にかまわない」だが、もうひとつ「その時節にはずれている。時期でない」という意味もある。三部構成の組み立てからいけば、「橘」の時の流れがあるように思うのだが、同時に時節にはずれているという自嘲やはじらいの感覚も含まれているように思う。「ときじくの春」、いい言葉だな。
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