煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠でないほうの火
井上法子『永遠でないほうの火』(書肆侃侃房 2016年6月20日)の一首。
作者は、1990年生まれ、福島県いわき市出身と紹介されている。
歌集装幀の青い色が持つ冷たさが、火のイメージに重なる。その火が灯になり、光とつながるまでの
「すごくさびしい」存在である「にんげん」への祈りにも似た歌たち。その歌たちは、火を宿しなが
ら水の佇まいを帯びる。透明な青は炎でもありながら水であり、結晶でもある。それは翡翠(かわせみ)の色にも映る。
燃えさかるような炎のイメージではない。火はオレンジ色の外縁に対して冷たい青の中心を持つ。
そして、そここそがより熱く。だが冷たい。表現を生み出す熱源は、表現されるほどに冷たく結晶化されていく。
それが痛く切なく美しい。
チェホフと名づけられた猫が登場する連作「そのあかりのもとで、おやすみ」の歌。
わたくしのしょっぱい指を舐め終えてチェホフにんげんはすごくさびしい
煙草屋の黒猫チェホフ風の吹く日はわたくしをばかにしている
冒頭の歌。青が、瑠璃色めく青が、翡翠になる歌。
かわせみよ 波は夜明けを照らすからほんとうのことだけを言おうか
連作「かわせみのように」へと展開していき…。
ふいに雨 そう、運命はつまずいて、翡翠のようにかみさまはひとり
青がかわせみからすべりだしてくるような一首。
紺青のせかいの夢を駆けぬけるかわせみがゆめよりも青くて
声にも色彩が染む。
聴覚を雨にとられてなつかしい彼らの声が煮こごる 青く
雨と光はにおいさえ呼び込んで、こんな素敵な一首を生む。
月を洗えば月のにおいにさいなまれ夏のすべての雨うつくしい
火が生み出すことばが熱をさげながら結晶化し、火から離れようとする。燃えさかる必要はない。
だが、灯されなければにんげんはさびしい。
この歌集は、巻頭にブランショのことばが置かれている。ブランショには、ここで引用されている
『来たるべき書物』以外に、『焰の文学』と訳されたカフカやマラルメ、そして「文学と死ぬ権利」が収められた翻訳本がある。
ランボーは詩人とは「火を盗む者」だと書いている。火中の栗を拾うではないが、火の言葉の系譜が文学のなかにはあると思う。
そして、火の言葉の系譜に繋がる人たちは、間違いなく、燃えさかるのではなく冷たく沈潜する。熱源を冷却させる。
劫火とも呼ばれるものから遠ざかるように。にんげんが宿命的に持ってしまう劫火から、その永遠から身を離すように。
そう、レンジの火、それは「永遠でないほうの火」である。だが、表現の火は永遠への火でありながら、
永遠に永遠は訪れないという痛切な火でもある。そして、さらに、ただ永遠に続いていく劫火でもあるのだ。
だから、歌う。
煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠でないほうの火
この一首、辛いときに口ずさんでしまいそうな歌である。