パオと高床

あこがれの移動と定住

坂多瑩子「豊作」と「なつのゆうぐれどき」(「青い階段」41号 2012年8月1日、「4B」4号 2012年9月20日)

2012-09-09 15:02:26 | 雑誌・詩誌・同人誌から
どっちの詩が面白いのかな~。なんて、考えながら、実は、どっちも、思わず笑えて、笑える詩って、いいよね。
では、その笑いとは何か、なんて深刻に考えるのも時間の贅沢。ただ、間違いなく言えることは、詩がぴょんとうまく跳ねたとき、ボクらは一緒にぴょんと笑える。これは抱え込んだものの深さや深刻さとは、比例しないし反比例もしない。ただ表現の移り行きとは関係するかもしれない。それから、笑うといっても、どんな笑いかもいろいろあるのだが。
とかなんとかいうより、まずは、詩誌「青い階段」41号の坂多瑩子さんの「豊作」。

 雨が適宜にふる年はいい
 こんな年は挿し木も成長がはやいのだ

すいと導入する。え、え、えと思う間に「雨が適宜にふる年」のよさの中に巻き込まれてしまう。「適宜」と「挿し木」が音の重なりを持っている。で、詩は「婆さん」に行く。

 園芸上手と
 いわれている婆さんがいた

あっ、口調を変えれば落語の語りだ。
「雨が適宜に降る年ってものはいいもので こんな年は挿し木もはやいもんでございます」、「ここに園芸上手と いわれている婆さんがいました」なんて感じで考えれば、語りの世界がつながる。

 なにしろ薪を挿し木しちゃうというすご腕の
 婆さんで
 あたしだって
 こんな才能を持ってたら
 どんなに楽しいだろうと思いながら

ますます口調が落語などの語りものめく。ふいと「あたし」を差し挟むところがうまい。

 婆さんは生ゴミだって髪の毛だって

そしてすぐ、「婆さん」に戻る。でも、読者はこの「生ゴミだって髪の毛だって」というフレーズで、ちょっと「違和」を感じはじめる。詩の世界にいくなという気配。すると、きた。

 なんでも土にさしておく

ここで笑う。ぴょんとまず、跳ぶ。で、返す刀のように、

 なんでもよく根づく

この三行、流れがあって面白いところなので、もう一度、途中で切らずに引用する。

 婆さんは生ゴミだって髪の毛だって
 なんでも土にさしておく
 なんでもよく根づく

「なんでも」がどんな「なんでも」になるのかで、詩の世界が決定する。

 指を怪我して爪がはがれたので裏庭にさしておいた
 といっていた

あっ、身体がきた。「といっていた」という距離の置き方がいい。

 キノコみたいなものがぬるっと生えてきて
 指のかたちになって
 手のかたちになって
 それから

「ぬるっ」と触感がくる。この一行がまた様子を一瞬変える。爪をさすときに予想した身体を、身体感と一緒に書き示す。「といっていた」のワンクッションが、この行を活かす。そして、土から「指」、「手」が生えてくる。ボクの好きなアメリカの作家を連想する。ただ、坂多さんは、ここの描写に拘泥しない。「それから」と書いて進めるのだ。「それから」どうなる。

 どんな風に成長したか
 婆さんからはなにも聞いていない

肩すかしをくらう。気持ちいい肩すかしだ。くすっと笑う。ただ、ここにも「違和」がある。次の跳躍への気配。「婆さん」の不在がよぎる。

 バラを挿したらバラの花

そうだろうな。でも、次が、

 スイカから赤ん坊

あっ、妊婦さんのお腹だ。スイカは妊婦のお腹。同時に、スイカの植わった土でもあって、土が母体になっている。すごい。で、スイカの赤と赤ん坊も連想でつながる。大仰に「誕生」があるとも言える。
「陰陽師」に瓜から生まれる話があったような。
そして、最終行。

 婆さんからは婆さん

まいりました。見事な一篇。「なにも聞いていない」でよぎった婆さんの不在は、ちゃんと土から現れました。「再生」があるとも言える。
流れがあるので、もう一度、「それから」以降を引用。

 それから
 どんな風に成長したか
 婆さんからはなにも聞いていない
 バラを挿したらバラの花
 スイカから赤ん坊
 婆さんからは婆さん
              (「豊作」全篇)

と、頭を下げて舞台中央から話し手は退場していくようで。

もうひとつ「なつのゆうぐれどき」という詩についても書きたかったのだけれど、ついつい「豊作」書きすぎちゃった。
「なつのゆうぐれ」は、こう始まる。

 アオダイショウだ
 黒くてまるい目をしていて
 寝不足など知らない目をしていて

この詩について、また今度、機会があったら。「なつのゆうぐれどき」も面白い。

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前野りりえ「刹那の島」(「GAGA」54号 2012年8月20日)

2012-09-08 12:03:39 | 雑誌・詩誌・同人誌から
暑い夏が去って、ホントかな、ホントに去ったのかな、とか思いながら、ここのところ朝と夜は涼しくなった。虫の鳴き声もする。日も少しずつ短くなっている。

そんな折り、涼やかな翡翠色の表紙の詩誌「GAGA」から、南の島の詩。

と、その前に、もう少し。画像ではよく出ていないけれど、今回のこの詩誌の表紙、翡翠の砂浜を巻き貝がゆるやかにすすんでいるようで。その砂浜が翡翠の色で海とも空とも感じられて、すると巻き貝が飛んでいるようにも見えて。8月に手元に来たときは、郵便の封書の中からスイと風が流れてきたようだった。
そして、ページを開いて、最初の詩。前野りりえさんの「刹那の島」に連れていかれた。

 まばゆい太陽が
 静かな月に恋をして 落とした涙
 それが島を囲むエメラルドの海になった
 そのあと巨人が生まれ
 槍投げ好きの彼らは
 赤い大地に緑したたる槍を突き刺した
 それが2億年の時を超えて生きる南洋杉

冒頭の一連。太陽、月、海、そして島。神話的時間が語り口調で表される。その神話的時間が「南洋杉」によって直立する時間として「今」と接する。「南洋杉」から神話の時代の時間が現在に滑り込んでくる。それは、現在の直線的な時間を横の時間に移しかえる。動かない時間を現在の時間の上に被せてくるのだ。この一連で、あっ、これは絵はがきなどを見て書いた詩ではないなと感じられる。絵はがきを見て詩を書いて悪いといっているのではない、ただ、この詩には、その場所にいる人の現在と、その現在を包んでいる、その場所の持つ時間があるということだ。だから、第二連へと繋がっていく。
一連二行目の「落とした涙」を改行せずに、「恋をして」の下に持ってくる行運びがいいなと思う。涙が落ちる様子が文字の視覚と一致するのだ。また、声の運びにもなっている。このタッチがうまいと思う。

 まぶたを突き刺す光の中を
 無数の青い蝶が横切っていく
 雪のように落ちてくる青い鱗粉
 これは夢なの 夢ではないの

ここに作者の現在がある。ただ、それがボクらの日常とは異なっている。それは作者のそれまでの日常とも異なっている。だから、「これは夢なの 夢ではないの」という詩句が書かれる。言葉は面白い。むしろ、この問いが「夢」ではなく「現実」であることを静かに告げるのだ。ないはあるに、あるはないになる、言葉の残像現象。そして、第三連、「からだ」は海の神話的な時間に引きずられていく。

 珊瑚のかけらでできた砂浜に身を横たえれば
 塩辛い海の中に溶けていくからだ

だが、海には膨大な時間はあるが、語られる神話的な時間はない。海は永遠へと繋がっているのかもしれないが、それは忘却の時間でもある。だから、意識は海には溶け込めない。そこで、第四連で、意識は森の神話性へと向かう。

 誘われて入り込んだ森の奥深く

この四連の一行目「誘われて」で、「青い蝶」が再び見える。が、この連では「青い蝶」は記述されない。だから、誘ったのが「青い蝶」とは限らなくなる。「誘惑」だけが浮かびあがる。

 大樹にからみつく海の色と同じ色をした
 ヒスイカズラを見つけた
 その妖しいばかりの青い色
 胸の中で増殖していくヒスイカズラ
 とても息苦しいのに
 その美しさには あらがえない
 飛べない鳥が近づいてくる森の中で
 わたしは迷子なの 迷子ではないの

海に「溶けていくからだ」という「からだ」の死。これは海との同化に死の所在を見いだしている。しかし、意識は、「美しさには あらがえない」。「美しさ」が、生きている時間である生と関係を結ぶ。それが、この島の時間の中に「切迫」を呼び込む。エロスの介入ともいえるのかもしれない。それは、同時に意識が出会う死を指し示す。「わたし」は、その生=美と死の「森」の中で迷うように問う。「わたしは迷子なの 迷子ではないの」。この問いは「夢なの 夢ではないの」とは違う。「夢ではないの」では、そう夢のような現実だと応えられるのかもしれないが、「迷子ではないの」では、「そう迷子のようだけど違うよ」とは言えないのだ。むしろ、迷いこんだんだよと、応えるのかもしれない。あっ、「違うよ、迷ってないよ」と、言ってもいいのかもしれない。美によって意識が出会う死は、すでに「青い蝶」自体が、その美しさと一緒に持っていたものなのだからだ。だから、次の連で「蝶」が現れる。

 力尽きるまで飛ぶ青い蝶のように
 誰にも捕まえられない青い蝶のように
 一度きりの命を 飛ぶことに捧げる

ここで、「わたし」は「青い蝶」に自身がなろうとしている。死の道筋を「青い蝶」に見いだしているのだ。
海から森つまり陸があり、そして飛ぶ蝶によって地上からの飛翔が語られる。ここに空が現れる。第一連で示された神話的要素が連を経て追認されたのだ。
ここまでを一つの世界として閉じたものと考える。すると、ここに別の時間の導入が欲求される。何故か、それは作者にとって、この島ではない別の時間があるからだ。それは手紙つまり言葉、文字となってやって来る。

 届けられる手紙は太陽の光で燃え尽きるから
 何が書いてあったのか 分からない

この二行からなる連が、何かかすかに痛い。文字も消えるよと言っているような痛さ。それと「分からない」の中に潜む「分かりたくない」というような思いの影。封じられた物語の気配が痛いのか、それとも別の現実があることの痛さなのか。ともかく、この連は、海に「溶けていくからだ」の詩句で現れた「忘却」のモチーフを呼びもどし、次の連へと流れる。

 夜は夜で 宇宙を見上げれば
 雨のように星が降ってきて
 その星の光が肌に当たって痛い
 忘れ去られていることも忘れて
 星の雨に身を浸す

手紙の連以降、ここにも他者がよぎる。時間の亀裂。時間の亀裂は、時間同士がこすれあって起こるものなのかもしれない。

 五感だけで生きるこの島では
 刹那を生きる切なさが
 寄せては返す波のように身を浸す

あっ、「切なさ」とは音も意味も「刹那」から来ているのだと気づかされる。あっ、逆かも。「切なさ」が「刹那」を生んだのかもしれない。というより「刹那を生きる切なさ」という音回しが作者の発見なのだ。
「刹那」とは何だろう。今しかないこと。過去から現在そして未来へという線で考えないこと。刹那が刹那の反復であるとすれば、刹那は永遠である。しかし、それはあらかじめ永遠を予定されているわけではない。また、刹那の反復は死を回避できるわけではないのだ。刹那の先には死があり、死は怖れとして存在しているのだ。そんな未来を考えないということとは違う。ただ、明日はこうなって、その先はああなって、こう変化して、ここに辿りついてなどという時間軸ではないということだ。「刹那」とは音楽の一瞬かもしれない。そこに立ち現れる五感へと連鎖する「切なさ」。もちろん、音楽である必要はない。その「刹那」、五感が想起させる一瞬の「よぎり」。それが、「切なさ」という言葉に括られる、その「刹那」の「切なさ」が、伝わってくる。

この三行に「生きる」が二度出てくる。
そして、前の連の終行もこの連の終行も「浸す」で結ばれている。しかし、この「浸す」が微妙に違うのだ。「肌に当たって痛い」星の光の「星の雨に身を浸す」。痛さに身を浸す。それは、「星の雨に」身を浸すことである。星の中に身を溶けこませていく。ところが、この連では「切なさ」が「身を浸す」と書かれている。切なさが「わたし」を覆うのである。この表現の微妙な違い。自然の中に溶けていくようでありながら、心情の中に溶けこんでしまう。身を浸すと身が浸されるの違いが「わたし」の所在と重なって、刹那の島の中に「切なさ」の繭のようなものが現れる。

あとは、神話の時間を詩においてどう閉じるかだ。
最終二連は次のようになる。

 まばゆい太陽と
 静かな月の恋が実るとき
 再び巨人が現れ
 恋を祝福して赤い大地の上で踊るだろう
 そして 太古の生き残りのこの島を
 海の中に沈める

 炎で刻みつけた文字のような記憶だけが
 海の底でたゆたうだろう
                 (「刹那の島」全篇)

最後は手紙の連にも現れた言葉のモチーフが呼びもどされる。文字は「文字のような記憶」として排される。海の誕生による島の成立から島の沈没へ。そして、海の底の記憶という忘却へ。
語るうちに語られる対象は消えていく。そして、語る時間もまた消える。どこまでを刹那と考えることができるのだろうか。ただ、語られた時間の間は、ボクらは「刹那の島」にいる。そして、ここに書かれた言葉の島は間違いなく心地良いものだった。

映像が浮かぶ視覚的な詩なのに、モチーフの動きや時間の流れ、言葉の進み具合が音楽のような詩だった。移動する空間と時間の重層性があるからなのかもしれない。もちろん、各連の運びもあるのだけれど。
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