どっちの詩が面白いのかな~。なんて、考えながら、実は、どっちも、思わず笑えて、笑える詩って、いいよね。
では、その笑いとは何か、なんて深刻に考えるのも時間の贅沢。ただ、間違いなく言えることは、詩がぴょんとうまく跳ねたとき、ボクらは一緒にぴょんと笑える。これは抱え込んだものの深さや深刻さとは、比例しないし反比例もしない。ただ表現の移り行きとは関係するかもしれない。それから、笑うといっても、どんな笑いかもいろいろあるのだが。
とかなんとかいうより、まずは、詩誌「青い階段」41号の坂多瑩子さんの「豊作」。
雨が適宜にふる年はいい
こんな年は挿し木も成長がはやいのだ
すいと導入する。え、え、えと思う間に「雨が適宜にふる年」のよさの中に巻き込まれてしまう。「適宜」と「挿し木」が音の重なりを持っている。で、詩は「婆さん」に行く。
園芸上手と
いわれている婆さんがいた
あっ、口調を変えれば落語の語りだ。
「雨が適宜に降る年ってものはいいもので こんな年は挿し木もはやいもんでございます」、「ここに園芸上手と いわれている婆さんがいました」なんて感じで考えれば、語りの世界がつながる。
なにしろ薪を挿し木しちゃうというすご腕の
婆さんで
あたしだって
こんな才能を持ってたら
どんなに楽しいだろうと思いながら
ますます口調が落語などの語りものめく。ふいと「あたし」を差し挟むところがうまい。
婆さんは生ゴミだって髪の毛だって
そしてすぐ、「婆さん」に戻る。でも、読者はこの「生ゴミだって髪の毛だって」というフレーズで、ちょっと「違和」を感じはじめる。詩の世界にいくなという気配。すると、きた。
なんでも土にさしておく
ここで笑う。ぴょんとまず、跳ぶ。で、返す刀のように、
なんでもよく根づく
この三行、流れがあって面白いところなので、もう一度、途中で切らずに引用する。
婆さんは生ゴミだって髪の毛だって
なんでも土にさしておく
なんでもよく根づく
「なんでも」がどんな「なんでも」になるのかで、詩の世界が決定する。
指を怪我して爪がはがれたので裏庭にさしておいた
といっていた
あっ、身体がきた。「といっていた」という距離の置き方がいい。
キノコみたいなものがぬるっと生えてきて
指のかたちになって
手のかたちになって
それから
「ぬるっ」と触感がくる。この一行がまた様子を一瞬変える。爪をさすときに予想した身体を、身体感と一緒に書き示す。「といっていた」のワンクッションが、この行を活かす。そして、土から「指」、「手」が生えてくる。ボクの好きなアメリカの作家を連想する。ただ、坂多さんは、ここの描写に拘泥しない。「それから」と書いて進めるのだ。「それから」どうなる。
どんな風に成長したか
婆さんからはなにも聞いていない
肩すかしをくらう。気持ちいい肩すかしだ。くすっと笑う。ただ、ここにも「違和」がある。次の跳躍への気配。「婆さん」の不在がよぎる。
バラを挿したらバラの花
そうだろうな。でも、次が、
スイカから赤ん坊
あっ、妊婦さんのお腹だ。スイカは妊婦のお腹。同時に、スイカの植わった土でもあって、土が母体になっている。すごい。で、スイカの赤と赤ん坊も連想でつながる。大仰に「誕生」があるとも言える。
「陰陽師」に瓜から生まれる話があったような。
そして、最終行。
婆さんからは婆さん
まいりました。見事な一篇。「なにも聞いていない」でよぎった婆さんの不在は、ちゃんと土から現れました。「再生」があるとも言える。
流れがあるので、もう一度、「それから」以降を引用。
それから
どんな風に成長したか
婆さんからはなにも聞いていない
バラを挿したらバラの花
スイカから赤ん坊
婆さんからは婆さん
(「豊作」全篇)
と、頭を下げて舞台中央から話し手は退場していくようで。
もうひとつ「なつのゆうぐれどき」という詩についても書きたかったのだけれど、ついつい「豊作」書きすぎちゃった。
「なつのゆうぐれ」は、こう始まる。
アオダイショウだ
黒くてまるい目をしていて
寝不足など知らない目をしていて
この詩について、また今度、機会があったら。「なつのゆうぐれどき」も面白い。
では、その笑いとは何か、なんて深刻に考えるのも時間の贅沢。ただ、間違いなく言えることは、詩がぴょんとうまく跳ねたとき、ボクらは一緒にぴょんと笑える。これは抱え込んだものの深さや深刻さとは、比例しないし反比例もしない。ただ表現の移り行きとは関係するかもしれない。それから、笑うといっても、どんな笑いかもいろいろあるのだが。
とかなんとかいうより、まずは、詩誌「青い階段」41号の坂多瑩子さんの「豊作」。
雨が適宜にふる年はいい
こんな年は挿し木も成長がはやいのだ
すいと導入する。え、え、えと思う間に「雨が適宜にふる年」のよさの中に巻き込まれてしまう。「適宜」と「挿し木」が音の重なりを持っている。で、詩は「婆さん」に行く。
園芸上手と
いわれている婆さんがいた
あっ、口調を変えれば落語の語りだ。
「雨が適宜に降る年ってものはいいもので こんな年は挿し木もはやいもんでございます」、「ここに園芸上手と いわれている婆さんがいました」なんて感じで考えれば、語りの世界がつながる。
なにしろ薪を挿し木しちゃうというすご腕の
婆さんで
あたしだって
こんな才能を持ってたら
どんなに楽しいだろうと思いながら
ますます口調が落語などの語りものめく。ふいと「あたし」を差し挟むところがうまい。
婆さんは生ゴミだって髪の毛だって
そしてすぐ、「婆さん」に戻る。でも、読者はこの「生ゴミだって髪の毛だって」というフレーズで、ちょっと「違和」を感じはじめる。詩の世界にいくなという気配。すると、きた。
なんでも土にさしておく
ここで笑う。ぴょんとまず、跳ぶ。で、返す刀のように、
なんでもよく根づく
この三行、流れがあって面白いところなので、もう一度、途中で切らずに引用する。
婆さんは生ゴミだって髪の毛だって
なんでも土にさしておく
なんでもよく根づく
「なんでも」がどんな「なんでも」になるのかで、詩の世界が決定する。
指を怪我して爪がはがれたので裏庭にさしておいた
といっていた
あっ、身体がきた。「といっていた」という距離の置き方がいい。
キノコみたいなものがぬるっと生えてきて
指のかたちになって
手のかたちになって
それから
「ぬるっ」と触感がくる。この一行がまた様子を一瞬変える。爪をさすときに予想した身体を、身体感と一緒に書き示す。「といっていた」のワンクッションが、この行を活かす。そして、土から「指」、「手」が生えてくる。ボクの好きなアメリカの作家を連想する。ただ、坂多さんは、ここの描写に拘泥しない。「それから」と書いて進めるのだ。「それから」どうなる。
どんな風に成長したか
婆さんからはなにも聞いていない
肩すかしをくらう。気持ちいい肩すかしだ。くすっと笑う。ただ、ここにも「違和」がある。次の跳躍への気配。「婆さん」の不在がよぎる。
バラを挿したらバラの花
そうだろうな。でも、次が、
スイカから赤ん坊
あっ、妊婦さんのお腹だ。スイカは妊婦のお腹。同時に、スイカの植わった土でもあって、土が母体になっている。すごい。で、スイカの赤と赤ん坊も連想でつながる。大仰に「誕生」があるとも言える。
「陰陽師」に瓜から生まれる話があったような。
そして、最終行。
婆さんからは婆さん
まいりました。見事な一篇。「なにも聞いていない」でよぎった婆さんの不在は、ちゃんと土から現れました。「再生」があるとも言える。
流れがあるので、もう一度、「それから」以降を引用。
それから
どんな風に成長したか
婆さんからはなにも聞いていない
バラを挿したらバラの花
スイカから赤ん坊
婆さんからは婆さん
(「豊作」全篇)
と、頭を下げて舞台中央から話し手は退場していくようで。
もうひとつ「なつのゆうぐれどき」という詩についても書きたかったのだけれど、ついつい「豊作」書きすぎちゃった。
「なつのゆうぐれ」は、こう始まる。
アオダイショウだ
黒くてまるい目をしていて
寝不足など知らない目をしていて
この詩について、また今度、機会があったら。「なつのゆうぐれどき」も面白い。