先にお断りします。お食事中の方は御遠慮頂いた方がよろしいかと存じます。
今日、出かけた先で個室の御手洗いを借りていた時、突然外からドアをガンッ!と引っ張られました。何の前触れもなかったのでビックリしたのですが、外の誰かはそれからも二三度ドアノブをガチャガチャと無遠慮に引っ張って、開かないことを確認したらそのまま何も言わずに去っていったようでした。
御手洗いという空間は窓も無くかなり狭いところです。しかも、使用目的が目的ですから、中にいる人はかなり気分が緩くなっているわけです。そこに、いきなり断りもなく侵入されそうになった時の緊張感たるや、なかなかのものなわけです。
今日に限らず今までにも何回も経験していることですが、いつから日本人はノックもしないようになってしまったのでしょうか?
これは私の教室でも起きていることなのですが、教室に入会した最初の頃にノックもしないで入って来ようとする生徒が多いのです。ただ、そういう場合に私は
「はい、やり直し!」
と言って部屋から叩き出してしまいます。これは大人だろうと幼稚園児だろうと同じです。
それで分かればいいのですが、中には何のことだか分からず部屋の外でキョトン(・_・)としている生徒がいます。そういう場合には
「他人のテリトリーに断りもなく入って来るんじゃないの。ノックくらいして、私の了解を得てから入っていらっしゃい。」
と言ってやり直させます。そして、次回以降それを習慣化させるようにしています。
後々聞いてみると、私に言われるまで誰からもそんなことを注意されてこなかった…という生徒が殆どでした。恐らく家の中でもトイレと言わず何処と言わずノックもせずに入っていくことに、誰も異論を唱えないのでしょう。でも、例えばその子達がある程度大きくなってアルバイトをするようになったり就職するようになったりした時に初めて最低限のマナーについて注意されるような世の中になってしまったとしたら、これはゆゆしき問題です。
昨今は親子関係にしても教師と生徒の関係にしても、友達のようなフランクな付き合い方が良しとされる傾向にあります。勿論、それ自体を否定する気はありませんが、『親しき仲にも礼儀有り』、例え気心の知れた間柄であっても引くべき一線はあるはずなのです。
ところが、これは親や教師に留まらず、最近はお祖父ちゃんお祖母ちゃんまでが子供達に対して注意をしなくなってきています。その理由が「事を荒立てて子供達に嫌われたくないから」…もう聞いていて呆れかえってしまいます。
嫌われたくないからと、世の中の大人達が子供達に教え諭すことを止めてしまえば、子供達は注意されないことに味をしめて更なる下品な行為に及ぶかも知れないのです。それが子供達の中である程度積み重なってしまった時にはもう手遅れなのですが、そうなってしまってからはヘタレな大人達は為す術も無く、ただ遠巻きに見ているだけなのです。
そこへいくと私は別に子供に嫌われようが何しようが痛くも痒くもないので、仮に生徒が礼儀を欠いた行動に出ようものなら
「ふざけんな!」
と一喝します。それで嫌になって辞めるならそれまでのこと…と思っていますが、今まで一喝した後に辞めていった子は一人もいません。それは多分、私が本音で子供達にぶつかっていっているからだと思います。
子供達は、大人達が思っている以上に大人のことを『自分に対して全力で相手をしてくれるかどうか』ということを、かなりつぶさに見ています。そこで子供達からの内心オーディションに落ちた大人は、ひたすら子供達にナメられ続けます。そして残念ながらそれは、その大人が子供達に対して、かなり豪快な一発逆転特大ホームランでも打ち上げない限り延々と続きます。
日本人が昔から大切にしてきた礼儀、礼節、思いやりという高次元な文化は、本来きちんと子供達と向き合うことの出来る大人達によって支えられてきたはずなのです。それを日本人自体が忘れかけているから『おもてなし』という言葉が流行語大賞などという下世話なものに出てきたりするのです。
私は常日頃から上品な人間でありたいと思って生活しているつもりです。『上品』というのは、何もシャナリシャナリと妙に高級なものを身につけて丁寧な言葉遣いを駆使しオホホホ…と口に手を添えてすました笑いをしているようなお高くとまった人のイメージを持たれがちですが、要は『下品な行動や言動を慎む』という意味です。
ただ、そこはあまり上品な家庭に育ったわけではないため、子供達に注意する際にかなりぶっちゃけた言い方をしてしまうことがあるので、気をつけなければいけないな…という自戒の念にもしょっちゅうかられています…。
でも、これからも私は子供達と本音でぶつかれる人間でありたいと思います。そうした大人がもっと増えていけば、少なくともノックもせずにトイレのドアを開けようとする日本人は減らせるのではないかと思っています。
今日、出かけた先で個室の御手洗いを借りていた時、突然外からドアをガンッ!と引っ張られました。何の前触れもなかったのでビックリしたのですが、外の誰かはそれからも二三度ドアノブをガチャガチャと無遠慮に引っ張って、開かないことを確認したらそのまま何も言わずに去っていったようでした。
御手洗いという空間は窓も無くかなり狭いところです。しかも、使用目的が目的ですから、中にいる人はかなり気分が緩くなっているわけです。そこに、いきなり断りもなく侵入されそうになった時の緊張感たるや、なかなかのものなわけです。
今日に限らず今までにも何回も経験していることですが、いつから日本人はノックもしないようになってしまったのでしょうか?
これは私の教室でも起きていることなのですが、教室に入会した最初の頃にノックもしないで入って来ようとする生徒が多いのです。ただ、そういう場合に私は
「はい、やり直し!」
と言って部屋から叩き出してしまいます。これは大人だろうと幼稚園児だろうと同じです。
それで分かればいいのですが、中には何のことだか分からず部屋の外でキョトン(・_・)としている生徒がいます。そういう場合には
「他人のテリトリーに断りもなく入って来るんじゃないの。ノックくらいして、私の了解を得てから入っていらっしゃい。」
と言ってやり直させます。そして、次回以降それを習慣化させるようにしています。
後々聞いてみると、私に言われるまで誰からもそんなことを注意されてこなかった…という生徒が殆どでした。恐らく家の中でもトイレと言わず何処と言わずノックもせずに入っていくことに、誰も異論を唱えないのでしょう。でも、例えばその子達がある程度大きくなってアルバイトをするようになったり就職するようになったりした時に初めて最低限のマナーについて注意されるような世の中になってしまったとしたら、これはゆゆしき問題です。
昨今は親子関係にしても教師と生徒の関係にしても、友達のようなフランクな付き合い方が良しとされる傾向にあります。勿論、それ自体を否定する気はありませんが、『親しき仲にも礼儀有り』、例え気心の知れた間柄であっても引くべき一線はあるはずなのです。
ところが、これは親や教師に留まらず、最近はお祖父ちゃんお祖母ちゃんまでが子供達に対して注意をしなくなってきています。その理由が「事を荒立てて子供達に嫌われたくないから」…もう聞いていて呆れかえってしまいます。
嫌われたくないからと、世の中の大人達が子供達に教え諭すことを止めてしまえば、子供達は注意されないことに味をしめて更なる下品な行為に及ぶかも知れないのです。それが子供達の中である程度積み重なってしまった時にはもう手遅れなのですが、そうなってしまってからはヘタレな大人達は為す術も無く、ただ遠巻きに見ているだけなのです。
そこへいくと私は別に子供に嫌われようが何しようが痛くも痒くもないので、仮に生徒が礼儀を欠いた行動に出ようものなら
「ふざけんな!」
と一喝します。それで嫌になって辞めるならそれまでのこと…と思っていますが、今まで一喝した後に辞めていった子は一人もいません。それは多分、私が本音で子供達にぶつかっていっているからだと思います。
子供達は、大人達が思っている以上に大人のことを『自分に対して全力で相手をしてくれるかどうか』ということを、かなりつぶさに見ています。そこで子供達からの内心オーディションに落ちた大人は、ひたすら子供達にナメられ続けます。そして残念ながらそれは、その大人が子供達に対して、かなり豪快な一発逆転特大ホームランでも打ち上げない限り延々と続きます。
日本人が昔から大切にしてきた礼儀、礼節、思いやりという高次元な文化は、本来きちんと子供達と向き合うことの出来る大人達によって支えられてきたはずなのです。それを日本人自体が忘れかけているから『おもてなし』という言葉が流行語大賞などという下世話なものに出てきたりするのです。
私は常日頃から上品な人間でありたいと思って生活しているつもりです。『上品』というのは、何もシャナリシャナリと妙に高級なものを身につけて丁寧な言葉遣いを駆使しオホホホ…と口に手を添えてすました笑いをしているようなお高くとまった人のイメージを持たれがちですが、要は『下品な行動や言動を慎む』という意味です。
ただ、そこはあまり上品な家庭に育ったわけではないため、子供達に注意する際にかなりぶっちゃけた言い方をしてしまうことがあるので、気をつけなければいけないな…という自戒の念にもしょっちゅうかられています…。
でも、これからも私は子供達と本音でぶつかれる人間でありたいと思います。そうした大人がもっと増えていけば、少なくともノックもせずにトイレのドアを開けようとする日本人は減らせるのではないかと思っています。