共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

今日はラヴェルの祥月命日〜自作自演と自作自編の《亡き王女のためのパヴァーヌ》

2024年12月28日 17時17分17秒 | 音楽
昨日が官庁をはじめとした業種の御用納めだったこともあってか、今日は土曜日だというのに何だか街中が静かな感じがしました。デパートやコンビニなどは普通に営業してはいるのですが、どことなく年末感が漂っているように感じたのは私だけでしょうか。

ところで、今日12月28日はラヴェルの祥月命日です。



ジョゼフ・モーリス・ラヴェル(1875〜1937年)は、《スペイン狂詩曲》やバレエ音楽《ダフニスとクロエ》や《ボレロ》、またムソルグスキーの《展覧会の絵》のオーケストレーションでも知られるフランスの作曲家です。

ラヴェルは1927年ごろから軽度の記憶障害や言語症に悩まされていましたが、1932年、パリでタクシーに乗っているときに交通事故に遭い、これを機に症状が徐々に進行していきました。同年に最後の楽曲《ドルシネア姫に想いを寄せるドン・キホーテ》の作曲に取りかかりましたが、楽譜や署名で頻繁にスペルミスをするようになり、完成が長引いていきました。

言葉がスムーズに出てこなくなったもどかしさから、ラヴェルはたびたび癇癪を起こすようになりました。1933年11月にはパリで最後のコンサートを行って代表作《ボレロ》などを指揮しましたが、このころには手本がないと自分のサインも満足にできない状態にまで病状が悪化していました。

1934年には周囲の勧めでスイスのモンペルランで保養に入ったものの一向に回復せず病状は悪化の一途をたどり、1936年になると周囲との接触を避けるようになって小さな家の庭で一日中椅子に座ってぼんやりしていることが多くなりました。たまにコンサートなどで外出しても無感動な反応に終始するか、突発的に癇癪を爆発させるなどして、周囲を困惑させたといいます。

その後ラヴェルは失語症などの権威だった神経学者テオフィル・アラジョアニヌ博士の診察を受け、博士は失語症や理解障害、観念運動失行など脳神経学的な症状であると判断しました。しかし脳内出血などを疑っていたラヴェルの弟のエドゥアールや友人たちはその診断に納得せず、1937年12月17日に血腫や脳腫瘍などの治療の専門家として名高かった脳外科医クロヴィス・ヴァンサンの執刀のもとで手術を受けることとなりました。

しかし実際にヴァンサンがラヴェルを開頭手術してみると腫瘍も出血も発見されず、脳の一部に若干の委縮が見られただけでした。もともと万が一の可能性に賭けて手術という決断をしたヴァンサンは、ラヴェルが水頭症を発症していないことを確かめると萎縮した脳を膨らまそうとして、なんと生理食塩水を頭に注入したのでした。

手術後は一時的に容体が改善したものの間もなくラヴェルは昏睡状態に陥り、意識が戻らぬまま12月28日に死去しました (享年62) 。葬儀にはダリウス・ミヨー、フランシス・プーランク、イーゴリ・ストラヴィンスキーといった作曲家たちが立ち会い、



遺体はルヴァロワ=ペレ(パリ西北郊)に埋葬されました。

そんなラヴェルの祥月命日である今日は、《亡き王女のためのパヴァーヌ》をご紹介しようと思います。この作品はラヴェルが1899年に作曲したピアノ曲で、1910年にラヴェル自身が管弦楽に編曲した作品です。

パヴァーヌとは、16世紀から17世紀にかけてヨーロッパの宮廷で普及していた舞踏のことです。ラヴェルと同じくフランスの作曲家ガブリエル・フォーレ(1845〜1924)も、管弦楽と合唱による《パヴァーヌ》を作曲しています。

原題である《Pavane pour une infante défunte》のinfanteはスペインの王女の称号「インファンタ」のことであり、défunteは第一義には「死んだ」を意味します。なので、そこから

《亡き王女のためのパヴァーヌ》
《逝ける王女のためのパヴァーヌ》
《死せる王女のためのパヴァーヌ》

と日本語では訳されていますが、défunteの第二義には「かつての、過ぎ去った」という意味もあり、ラヴェル自身はこの題名について

「亡くなった王女の葬送の哀歌」

ではなく、

「昔、スペインの宮廷で小さな王女が踊ったようなパヴァーヌ」

だとしています。

因みにこの『小さな王女』とは誰か…ということですが、



スペイン王フェリペ4世の娘で、神聖ローマ皇帝レオポルト1世の最初の皇后となったマルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ(1651〜1673)を、ディエゴ・ヴェラスケス(1599〜1660)が描いたルーブル美術館所蔵の肖像画からラヴェルがインスピレーションを得た…とも言われています。いずれにしても、この古風な曲は歴史上の特定の王女に捧げて作られたものではなくスペインにおける風習や情緒に対するノスタルジアを表現したもので、こうした表現は、例えば《スペイン狂詩曲》や《ボレロ》といったラヴェルによる他の作品や、ドビュッシーやアルベニスといった同年代の作曲家の作品にも見られるものです。

《亡き王女のためのパヴァーヌ》のピアノ版はパリ音楽院在学中に作曲した初期を代表する傑作であり、ラヴェルの代表曲の1つと言える作品です。

ラヴェルはこの曲を自身のパトロンであるポリニャック公爵夫人に捧げ、初演は1902年4月5日、スペインのピアニストのリカルド・ビニェスの手によって行われました。この曲は世間からは評価を受けましたが、一方でラヴェルの周りの音楽家からはあまり評価されなかったといいます。

曲はト長調で4分の4拍子、速度標語は

『十分に柔らかく、ただし緩やかな響きをもって(Assez doux, mais d'une sonorité large)』

と指定されています。曲の構造としては2つのエピソードを挟んだ小ロンド形式(単純ロンド形式)を取っていて、A-B-A-C-Aという構成をしています。

優雅でラヴェルらしい繊細さを持つ美しい小品であり、ピアノ版の他にも多くの編曲者によってピアノと独奏楽器のデュオや弦楽合奏など様々に編曲され、コンサートやリサイタルの曲目や、アンコールピースとしてもしばしば取り上げられています。

この曲には、ラヴェル晩年の悲しいエピソードがあります。

記憶障害や言語障害が悪化していたある日、偶然この曲が演奏されているのを聴いたラヴェルは、

「美しい曲だね。 いったい誰が書いたんだろう。」

と口にしました。なんと、自分の作品であることを忘れてしまっていたのです。

作曲当初はこの曲があまりにも人気が高かったので、若きラヴェル自身はむしろ

「大胆さに欠ける」
「シャブリエの過度の影響」
「かなり貧弱な形式」

といった天邪鬼的な低い評価をしていました。もしかしたら様々な障害を負ったことによって、最後に自分自身のこの曲に対しての正直な感想が出たのかも知れません。

そんなわけで、今日はラヴェルの《亡き王女のためのパヴァーヌ》をお聴きいただきたいと思います。先ずはラヴェル本人のピアノ演奏による録音をお楽しみください。



続いて、同じ作品のオーケストラ版をご紹介しようと思います。

オーケストラ版は1910年にラヴェル自身が編曲し、1911年に初演されました。『管弦楽の魔術師』の異名に恥じない華麗な編曲ですが、《ボレロ》や《展覧会の絵》から連想されるような大規模な管弦楽編成ではなく、むしろ、これもピアノ曲の編曲である《クープランの墓》などに近い小規模な編成です。

旋律美と知名度に加えて演奏時間が6分前後と短いため、演奏会のプログラムやアンコールピースとして取り上げられる機会も多い曲です。ただ、冒頭を飾るホルン奏者からしてみたらかなりの高音域を弱奏で吹かなければならないため大変な思いをする曲でもあり、演奏後には真っ先にホルン奏者が指揮者から称えられます。

そんなわけで、続いて《亡き王女のためのパヴァーヌ》オーケストラ版をお聴きいただきたいと思います。エサ・ペッカ・サロネン指揮によるフィルハーモニア管弦楽団の演奏で、ラヴェルの冴え渡るオーケストレーションをお楽しみください。


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