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本気


 昨年末から今年初めにかけて名古屋駅のJR高島屋で「相田みつを展」が開かれていた。元日に名古屋駅を通ったときに上のポスターが至る所に貼られていて驚いた。私は、相田みつをという人物をよくは知らないのだが、何だか彼の書や詩の売られ方があまり好きではなく、しっかりと彼の詩を読んだことがなかった。この時も、最初は「何でこんなにいっぱい・・」と思っただけだったが、あまりに貼ってあるため、つい立ち止まって読んでみた。

   なんでもいいからさ
   本気でやってごらん
   本気でやれば
   たのしいから
   本気でやれば
   つかれないから
    つかれても
    つかれが
    さわやかだから

いい詩だなと思った。忘れないようにと写真に収めた。できれば「相田みつを展」に行ってみたいと思った。私がそう言うと、妻が「本当に?相田みつをは嫌いじゃなかったの?」と言い返した。「そうだったけど、この詩はいいよ。心に沁みるよ」
 私は、食わず嫌いと言うか、先入観でまずそうだと思ってしまうともう受け付けなくなってしまう。そうした思い込みは食べ物だけでなく、小説とか映画とか歌とか、己の嗜好が先立つものにおいては甚だしい。これではいけないとよく思うのだが、なかなか直らない。何に対しても、虚心坦懐、真っ白な気持ちで向かい、そこから自分の感想を持つようにしなければならないのに、まず最初に対象物を選り好みしてして、気に入らないものは敬遠してしまう。本当によくない。

 この言葉を高3生の一人に読ませてやった。すると、「本気になるって面倒くさいじゃん」と一言で済まそうとした。「何言ってるんだ、本気で努力をしたこともない奴が」「してるって、塾に来てるじゃん」「それだけだろう、そんなの努力の内に入るか。自分でコツコツ積み重ねていくのが努力ってもんだ」「でも、疲れるよ、そんなことしたら」「だから、書いてあるだろう、本気で努力すればさわやかだって。つべこべ言わずにやってみろよ」「まあ、できたら・・」などと、最後はしどろもどろになってしまったが、実際今の高校生の多くは勉強に関して努力したがらない。大学全入時代を迎え、何もしなくても、大学が入学を許可してくれる。そんな学生を集めても仕方ないのにと私など思ってしまうが、経営上仕方ないのだろう。そのため、今の大学は実に面倒見がいい。というよりも、大学側が面倒を見なければ学生が自ら進んでは何もやろうとしない、できない生徒が多いというのが実情なのだろう。予備校の大学の入試ランキング表を見ると、F(ボーダーフリー=誰でも入れる)の評価をされた大学が実に多い。10年ほど前と比べると、最難関校を除けば、どの大学も難易度が下がっている。そうした現実を知れば、誰も勉強などしたくなくなる。AO入試とか自己推薦制度とか言われる怪しげな制度で大学が高校生をどんどん青田買いしているのだから・・。
 しかし、センター試験の受験者は多い。高校が半強制的に受けさせるという事情があるにせよ、今年の受験者は4年ぶりに増加したそうだ。したがって、あるレベルを超えれば大学入試は相変わらず難しい。大学の二極化などといわれているが、それは高校生が勉強する者としない者の2つに分かれているため、勉強した者の入る大学としない者でも入れる大学とに分かれていると言うことだ。だが、逆に言えば、勉強すればそれだけ自分の志望する大学に入り易くなったということを意味している。現在の大学入試は、努力が結果として現れやすくなっていると言ってもいいだろう。さらには、努力しなければ損だとまで断言してもいいかもしれない。確かにランクの高い大学に入ればバラ色の将来が約束されるなどという時代は終わった。しかし、ランクの高い大学が、自らの可能性を広げることのできる大学であるということは今でも言えるのではないだろうか。

 そういう思いを心に秘めながら、センター2日目に挑む学生たちが、最後まで本気で健闘してくれることを祈る。
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春の足音

 春の足音が、ほんのわずかではあるが聞こえてきた。日中晴れ渡った昨日、近所の土手にタンポポが咲いているのを見つけた。その横には名も知らぬ野の花も咲いていた。

 

そう言えば、今年は暖冬の影響でタンポポの開花が全国的に早いとTVが報じていたのを思い出した。冬の日差しは、強くはないがまぶしい。陽光を一身に集めたように咲いているタンポポは「春遠からじ」を予感させてくれる。なんとなく嬉しい。
 嬉しいことと言えば、2、3日前に鴨の集団の中に1羽だけ羽色の薄い、少し小ぶりのものを見つけた。あっ、と思って携帯のカメラに収めてみたのだが、どういうわけか枯れ葉に遮られてうまく撮れなかった。


私の足音に気づいてすぐに飛び立ってしまったので、この1枚しか撮れなかったのは残念だった。しかし、この小さな1羽が昨年の夏に見つけて、その姿もこのブログに載せたあの小鴨が成長したものだとしたら、実に喜ばしいことである。と言うのも、一度大雨が降って、その後ずっと姿を見かけなかったからだ。てっきりその時の濁流に飲み込まれてしまったものだと小鴨の悲運さを嘆いていただけに(鳥嫌いなのに・・)、もしこれが本当にあの小鴨だとしたら、その生命力の強さには感動する。
 新しい生命の芽吹く春は確実に近づいている。近くの公園に生えている杉の木には、もう花粉袋が膨らんでいた。

 

指で弾いてみたが、まだ花粉は飛散しなかった。私にとっては見たくもない杉花粉ではあるが、春の訪れを告げる使者だと思えば少しは大目に見ることもできる。
 
 今日はセンター試験の初日だ。息子を含め、何人かの塾生が日ごろの努力の成果を発揮する日がやってきた。生徒たちには、北野天満宮の梅干を分け与え、焦らず落ち着いてやりさえすればきっといい結果が出るからと、何度も言っておいたが、さてどうなることだろう。もうこうなったら、彼らが最善を尽くしてくれることを祈ることしかできない。息子と塾生の力を信じるのみである。

 

昨日、ふっと思いついてヒヤシンスの鉢植えを買った。「花開く」という縁起が担ぎたくなったのかもしれない。まだつぼみの状態のものが3球1鉢に入っている。開花すればピンクの花から芳香が漂うらしい。この花が開花する頃には、息子の進路に目処が立っているのだろうか。
 ゴジ健さんが、毎日息子のために元気魂を送ってきて下さるから、「何とかなる!必ず道は開ける!」、そう信じて今は春が来るのをじっと待とう。

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世界文学全集

 今どき、「芥川賞」など誰も気にかけないかもしれないが、新聞では受賞者が決まると必ず報道される。私も大して気にしていないが、それでも記事を見つけると一応チェックだけはする。16日に、第136回目の芥川賞に青山七恵という23歳の女性が受賞したという報道を読んだときも、「最近は若い女の子の受賞者が多いな」と簡単な感想しか持たなかった。新しい作家の作品など読むつもりはあまりないから、誰が受賞しようとさほど興味はもてない。
 しかし、現在の選考委員の顔ぶれを見たときには少し驚いた。池澤夏樹・石原慎太郎・黒井千次・河野多惠子・高樹のぶ子・宮本輝・村上龍・山田詠美の8名が現在の選考委員であるようだ。石原慎太郎の名前を見て、「へええ」と思った。東京都知事っていうのは案外閑職なんだなと初めて知った。色々物議をかもすことの多い都知事ではあるが、芥川賞の選考委員までやっているとは・・。知事の仕事に専念しろよ、と思わず突っ込みを入れたくなった。石原は「いろいろな人が都会の孤独を書いてきたけれど、この作品では特にそれが凝縮して描かれており印象深い」と感想を語ったと言うが、読み手としての石原慎太郎がどれほどのものなのか知らないので、一度読んでみなければいけないとは思った。

 と、別に石原慎太郎のことが言いたかったのではない。私は今、「文学全集を立ちあげる」(文藝春秋)を読んでいて、その中に、若い小説家たちにあてた大事なメッセージが含まれており、できれば青山さんにも一読して欲しいと思ったのである。これは、丸谷才一・鹿島茂・三浦雅士という古今東西の文学に通暁した碩学3人が、架空の世界文学全集と日本文学全集を立ち上げるという企画のもとで、全集に誰のどの作品を入れるべきかを議論していく内容となっている。私は非常に興味深く読み進めて、やっと世界文学全133巻の内容が決定したところまで読み終えた。ここまで読んできて、ただただ感心するのは、この3人の文学に対する造詣の深さだ。どうしてこんな作家のそんな作品まで読んでいるの?とあっけに取られることがしばしばだった。
 全集編纂の基本的方針は、キャノン(知識人が必ず読んでいなければならない、あるいは読んだふりをしなければならない、そういう文学作品)を選ぼうということであった。丸谷いわく、「さて、このキャノンですが、これは人間の文化にとって非常に大切なものです。人間の文化は言葉が基本になって形成されていますが、その言葉の高度なものの核心部にあるのが古典なんです。その古典を精選したリストがキャノンでしょう。ホメロスとか、「聖書」とかシェイクスピアとか、ゲーテとか、そういうものですね。日本なら「古今」「新古今」とか、「源氏物語」とか、「論語」「唐詩選」とか、そういうものがないと文明の拠り所がない。文明がグラグラ、グズグズになって、社会がうまくまともに機能しない」。ところが、最近は文学全集が発行されなくなってしまい、「キャノンを読者に読ませるための絶好の容器」がなくなってしまった。そこで、彼らが架空の文学全集を立ちあげるという魅惑的ではあるが、困難な仕事を引き受けたのだ。
 しかし、彼らはこの全集の立ちあげに、もう一つ別の意図をもって臨んでいる。それを鹿島が次のように述べている。「僕は、一年間文藝時評をやったことがあって、その時、痛感したのは、新人作家がいっぱい出てくるんだけど、彼らがほとんど昔の文学作品を読んだことがないまま小説を書いているということでした。小説というものの本質、技術もなにも知らないで、いきなり新人賞でデビューする。そして、とりあえず自分のまわりのことを二、三作書くと、もう書くこともなくなって消えていってしまう。小説の骨法がわかっていれば、もっと伸びる才能があるはずなのに、残念だなあと思いましたね」「ところがいまの日本の小説を書きたいという連中はひどくて、無知であることを少しも恥ずかしいと思っていない。信じているのは自分の感性だけなんですよ。だからこそ、今、こういうものを知らないと恥ずかしいよ、という文学全集を作りたい、作らなきゃいけない」
 
 確かに出来上がった133巻の世界文学全集のリストを見ると、ため息が出てしまう。すごいなあ、美しいなあ・・。名前は知っているが、読んだことのない作品がたくさんある・・。
 果たして、芥川賞を受賞した青山七恵さんはどれくらい読んでいるのだろう。聞いてみたい気がする。
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肩が・・・

 昨年12月23日に「五十肩?」という記事を書いた。その後、冬期講習や年末年始の行事に追われて、肩を気にする余裕もなくすごしてきたが、相変わらず左肩がすごく痛い。肩こりがひどくなった痛みのようで、揉み解そうとしても痛いだけでちっとも楽にならない。整体などに行けば少しはよくなるかもしれないが、時間が取れないし、なんとなくおっかない。痛みをとるために痛いことをされるのは勘弁して欲しいと思って足が向かない。なので、ずっと湿布を肩に貼って何とか痛みが取れないものかと念じていた。

 

 左はじか貼りの湿布で、風呂上りに貼ってから眠りに付いた。起きたら右の湿布をシャツの上から貼って一日を過ごした。いずれも温湿布でほかほか暖かく、寒い日には気持ちがよかった。冬休みの間中は毎日欠かさずこの湿布を取り替えていたので、その甲斐あってか、大分楽になってきた。そこで気を抜かずにずっと続けていればよかったものを、喉もと過ぎれば熱さ忘れる、愚か者の代表のように、いつの間にか湿布のことなど忘れてしまった。すると、また痛みがぶり返してきて、今週になると肩の痛みが高じて頭痛がするようになってしまった。首を上下左右に曲げたりしていると楽になってくるが、しばらく動かさずにいると徐々に頭が痛くなってくる。まったくイヤになる。さすがにこれではまずいだろうと、肩こりからの頭痛を和らげる薬を買ってきてもらった。


しかし、私は以前から頭痛薬を飲むと副作用が現れるので、あまり好きではない。この薬を飲んでも、やはり耳がボーンとして聞こえづらくなってしまった。それもまた困ったものなので、毎日飲むわけには行かないなと思っていたところ、妻が「じゃあ、これにしてみたら」と渡してくれたのが「ワタナベオイスター 蠣エキス」という薬だ。

 

「体に乳酸などの疲労物質が肩にたまると肩こり、頭にたまると頭痛を引き起こします。バランスよくミネラル・ビタミンを補給し、肝臓を元気にして疲れのもとを取り除き、代謝をアップさせ、体の中から元気になりましょう」と説明がある。1日分を一度に飲むとすばやい効果が現れることがあるとかで、ここ2日一度に12粒ずつ飲んでいる。さらには、最近のスポーツ選手が首に巻いている紐のようなものを塾生の一人がしているのを見つけて、「これもいいかも!」と思って薬局へ探しに行った。すると、チタンとかゲルマニウムとかいう物の間に、昔から馴染みのあるピップエレキバンの会社が出している「ピップマグネループ」というものを見つけた。

 

「ループ全体から磁気を放射。肩コリによく効きます」とうたい文句が印刷してある。ループの中の永久磁石から出る磁気が血行をよくし、コリをほぐしてくれるのだそうだ。一応「医療用具」としてあるから、何らかの効果は期待できるのだろう。さっそく首につけてみた。簡単には効果が現れるはずもないだろうが、少しでも肩の痛みが和らいでくれたら儲け物だと思っている。

 これだけ色々やってみれば一つくらいは効き目があるだろう。なんにしても寒い間は体が縮こまっているから血の巡りも悪くなる。できるだけ背筋をしゃんと伸ばして暮らしていこう。
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マフラー

 冬になっても、私の塾内での服装はカッターシャツにジャケットを羽織るだけの簡単なものである。綿パンを履いて素足でいるので、生徒からよく「寒くないの?」とたずねられるが、さほど寒いと思ったことはない。勿論それは塾の各教室が暖房設備で暖められているからなので、外に出ればやはり寒い。素足というのは、もう長い習慣で何も感じないのだが、上半身は当たり前に寒い。かと言って、外に出てもすぐにバスに乗り込むため、コートなどを着るまでもない。そこで、防寒具として私が冬になると必ずしているのが、マフラーだ。マフラーを首に巻けば、全身が暖まってくる気がするのは不思議だ。
 
 

これらは私が愛用しているカシミアのマフラーだ。左はもう10年以上使っている。娘が中高生の時には、ずっと彼女の首に巻かれていたのだが、大学生になったら、ブランド物など恥ずかしくってしてられないなどと偉そうなことを言って、私のもとに帰って来た。その間に私が自分用に買ったのが、右のものである。今ではこの2枚を併用していて、手元にあるほうをグルグル首に巻いている。
 これ以外に、弟から譲り受けた同じブランドのウールのマフラーも使っていたことがあるが、表面がチクチクしてやたら痒くなってしまったので、すぐに使うのを止めてしまった。カシミア製の方は、柔らかくて10年経ってもその肌触りは以前とほとんど変わっていない。価格は高いが、長い目で見ればカシミア製の方がずっとお得だと思う。
 マフラーの巻き方は色々あるようだが、今の私はジャケットの上から適当にグルグル巻きにしているだけだ。


妻からは、どこかの国のゲリラみたいだからそんな巻き方は止めろとよく注意される。だが、この巻き方が一番手っ取り早いし、誰も私のことなど気にかけたりしないだろうから、これで十分だ。しかし、少し前にはちょっとおしゃれな巻き方をしていた。マフラーを縦に2つに折って、それを横に2つに折る。それを首に巻きつけて、一方の端を二つ折りのマフラーの間に入れて完成。


これは学生風な感じで、すっきりしていてなかなか気に入った巻き方だが、最近では折るのが面倒になってしまってこの巻き方はしなくなってしまった。身だしなみに無頓着でいるわけでは決してない。私なりにこざっぱりしようとはしている。でも、簡単で暖かなほうを・・とついつい妥協してしまっている。これじゃあ、オヤジ化が進むばかりだ。
 これではいけないと思って、ネットでおしゃれな巻き方を探してみた。すると「ヨン様巻き」というのが写真つきで紹介されていた。私は韓流スターは好きではないのだが、物は試しにやってみた。

写真を見ながら30分ほど頑張ってみた。う~~ん、うまくいかない・・。やっぱりぶきっちょなのかなあ・・。
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中村ぁ!!

 プロ野球オリックスの中村紀洋選手の退団が決定的になったと報じられている。私は以前、このブログで「卑下と従属」という記事を書いて、中村選手を散々こき下ろしたが、まったくもってそのアホさ加減は何も変わっていないようである。あまりにお粗末過ぎて開いた口がふさがらないため、今回の騒動は無視するつもりでいたのだが、14日の中日スポーツを読んでいたら、落語家の三遊亭円丈が中村について痛快なコメントをしていたので、それを載せてみようと思った。

 今年のオリックスは大殺界の年だね。前川無免許ひき逃げ事件はおこるわ。清原、ノリの2枚看板が、ノリが退団してキヨ一枚看板になっちゃった。しかもケガしやすい清原だから”時々一枚看板”になる。生え抜きの谷はトレードに出しちゃうわ。
 どうする?どーなるオリックスだね。一番ドーなる?どーするは退団が決定したノリ自身だ。彼は「野球お坊っちゃまノリくん」って感じだね。実際のノリは知らないから違うかも知れないけど、情報で知る限りお坊っちゃまだ。
 60%ダウンはおかしい。ヒジの故障は公傷にしろ。それでダメなら自由契約にしろ。
 それをすべて代理人に任せておいて”小泉球団会長も最後に来ただけ”って、他人の事は言えない。自分も最後に交渉に出ただけなんだから・・。お坊っちゃまだよな。
 そもそも数年前メジャーに行くと大騒ぎして実際メジャーからオファーがあったら、”やっぱ近鉄がいい!”って、お坊っちゃまだね。
 しかもあれ以来殆ど活躍してない。元々ノリは打率3割を超えたのがたった1回だけ。打点王が2回、本塁打王が1回。少し年棒のバブルがあったんだ。去年2割3分!
 ワシなら土下座して謝って大喜びでサインしたね。
 ノリくんはお坊っちゃまで、数字の残せないトラブル・メーカーみたいなイメージが付いた。たぶん浪人になる。
 ダメなら今オフのトライアウトでも受けるつもりらしいが、果たしてトライアウトでお坊っちゃまノリくんを取るチームがあるのか?ウ~ン、それが問題だね。

 私がこの記事を読んで残念に思ったことが一つある。円丈師匠は、中村のことを「お坊っちゃま」と呼んでいるが、もっとぴったり来る呼び名は「おれちん」だろう。「おれちん」とは、小倉紀蔵の造語であるが、「共同体を知らず、ひたすら自分だけの世界に閉じこもっている。そして自分が一番偉いと思い込んでいる」人間、あるいは「自己中心的で威張っており、しかも自閉的な人間」のことである。まさしく中村のことではないか!自分の力を過信し、「中村紀洋というブランドの価値を確かめたい」などと妄言を繰り返し、迷走を続けた挙句にアメリカに渡って一年を棒に振って帰国し、拾ってもらったオリックス球団に何の恩返しもしないまま、またお得意の妄想をたくましくしとうとうオリックスからも見限られてしまった男。まったく「おれちん」ではないか!
 しかし、今回の中村の騒動で、私が一番感じたことは、「己を客観視できない者の悲喜劇」である。彼は確かにある時期日本のプロ野球を代表する強打者であった。それは認めよう。オリンピックに出場したときの彼の必死な姿には私も感動した。しかし、たとえケガという言い訳があったにせよ、昨シーズンの成績を直視し、己の力を客観視できたならば、こんなことにはならなかっただろう。これだけの成績しか残せなかった選手がたどる運命は、彼も多く見聞きしてきたはずだ。それらの選手と自分をオーバーラップさせることができなかったのか、したくなかったのか、いずれにしても己を過大評価しすぎた。この結果が当然だと思う野球ファンが圧倒的に多いのではないだろうか。
 
 果たして中村に今シーズンはやってくるだろうか。己を見つめ直すために、同じおれちん・中田英寿のように自分探しの旅に出たほうがいいんじゃないだろうか・・・。
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なぜ日曜になると・・

 なぜ日曜になると朝早く目が覚めてしまうのだろう。せっかくの日曜日、少しでも長く解放感を味わいたいからなのだろうか?いや、今の私にはそれは当てはまらない気がする。解放感どころか、日曜日は、最後の仕上げの段階に入った受験生たちと一日中勉強しなければならない。早く目覚めたところで、塾というノルマを果たさない限り、休息など取れるはずもない。昔、仕事嫌いで親戚中に有名だった伯父が日曜になるとせっせと仕事をしている姿をよく見かけたものだが、私の父に言わせると、ただのパフォーマンスに過ぎないと全くにべもなかった。皆が仕事をする時にダラダラして、皆が休みでのんびりしようとする時に仕事を始める、考えてみればこれくらい腹の立つ奴はいないのだが、その伯父もとうに亡くなってしまったので、その心理をたずねるわけにもいかない。
 しかし、自分の心をもう少し探ってみると、やはり日曜日には少なからず解放感を感じているのが分る。まず第一に、塾があるといっても、遅くても夕方には終わるので、普段と違って家族と一緒に夕食を食べられる。今は娘が家を出ているし、息子も受験勉強で忙しいので、私と妻と父の三人だけで食卓を囲むのだが、それだけでも結構リラックスできる。それに塾が終わった瞬間にビールの缶を開けているので、否が応にも心は緩んでいる。冷たいビールを飲みながら、とりとめもない話をしているとあっという間に時間が過ぎてしまう。以前は日曜日には必ずと言っていいほど外で夕食を食べていたものだが、ここ1年くらいはめったに出かけなくなった。そうした家での日曜の夜の過ごし方も、最近では楽しいものだと思うようになってきた。
 さらに日曜は塾の生徒をバスで送迎しないことにしているため、1日中車の運転をしなくてもいいというのも解放感を得られる大きな理由だと思う。毎日、決まった時間に決まった場所へ生徒を送迎するのは、単純そうな作業ではあるが、生徒たちの生命を預かっている以上、相当の緊張を強いられる。スピードを出し過ぎてはいけないが、ある程度遅れずに行かねばならないため、バスの運転には全神経を集中させている。しかも、夜道の運転が中心になるため、目も神経もかなり疲れる。生徒たちとぺちゃくちゃ喋りながら運転している時も多いが、常に運転には最大限の注意を払っている。その上、雪でも降ったりしたら・・などと心の休まるときはない。
 そのため、バスの運転をしなくてもいいというのはかなり気持ちが楽になる。車の運転には集中力が欠かせない。集中力を維持するためには睡眠不足が大敵だ。だから、平日なら朝早く目覚めても、睡眠が不足してはいけないからもう一回眠ろうとする。しかし、日曜にはそんな心配は要らないから、早く起きたって何も構わない。布団の中でグズグズしているくらいなら、起きて新聞を読んだり、TVを見たりしたほうが楽しいのではないか、などという心理作用が働くのかもしれない。
 さらにもう一つ考えられる理由がある。私は、土曜・月曜の夜を休肝日にしているが、ビールを飲まなかった翌日の朝は目覚めが早いのだ。それは日曜の朝だけでなく火曜の朝も同じように目覚めが早いので、私に関して言えば「飲まなかった翌日の朝は目覚めが早い」ということが言えるような気がする。(これが医学的・心理学的に証明されるとは思わないけれど・・
 
 などと、理屈を並べ立ててしまったが、昨日の日曜も目が覚めたのはいつもより早い8時過ぎだった。すぐに着替えて朝食を食べに近くの喫茶店に向かったが、無茶苦茶寒かった。橋の下を見たら、近くの枯れ草の上一面に霜が降りてしまって真っ白だった。

 
「早起きは三文の徳」、せめて日曜くらいは早起きしてもいいのではないだろうか・・・。
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発想の転換

 小学3年生で、余りのある割り算を学習する。例えば、
     20÷6=3…2 というように、6の段の九々で20を超えない一番大きな答えを見つけ、それを20から引いて残った数を余りとする。これを数式化すれば、
     20-6×3=2 と表せる。
しかし、最近ちょっと面白い割り算の問題を、同じ3年生のハイレベルな問題集の中で発見した。それは、割り算で「あまり」ではなく「ふそく」を求めるというものだ。そのやり方を 20÷6 の割り算で説明するなら、6の段の九々で20を超えた一番小さい数を見つけ、20がその数になるにはいくつ不足しているかを答えるのだ。すなわち、
     20÷6=4ふそく4 ということになる。
私がこの問題を見つけたとき、本当に目から鱗が落ちたような気がした。「こんな考え方もあるんだなあ!」と生徒をそっちのけにして感心してしまった。
 この割り算の式が解答となるような問題を作ってみると、
「20個のキャンディーを6人で分けます。1人いくつずつになるでしょうか」
これに対して、普通は20÷6=3…2 が式で、「1人に3個ずつ分けられて2個余る」というのが正解になるだろうが、これを現実問題として考えてみると、「余った2個はどうするのだろう。誰かが余分にもらうのか、それとも2個を切って6等分するとでもいうのか」と、なんだか腑に落ちない気がする。それを、不足の考え方をすると、「1人に4個ずつ分けられるけど、あと4個足せば1人もう1個ずつ余分にもらえるんだな。よし、後4個持って来よう」ということになる。こちらの方がみな仲良く分けられて、丸く収まるように思える。まあ、少々こじつけのような気もするが、発想の転換をしてみると物事の違った面が見えてくるという好例だと思う。
 ところで、この考え方をもう少し発展させた考え方をすると分りやすくなる問題を最近見つけた。
 「①②③④⑤⑥の6枚のカードがあります。このカードの中から何枚かのカードを取り出してその和が15になるようにします。何とおりの取り出し方がありますか」
という小6の模試にあった問題だ。これを解くのに、①+②+③+④+⑤=15で、まず1通り。①+③+⑤+⑥=15で2通り・・とやっていくのがごく普通のやり方なのだろう。しかし、これだといくつか出しても、もっと他にもあるような気がして自分の答えに自信がもてない。もっと賢いやり方はないのか。私はこの問題の解説を読んでみて「おお!すごい!」と思わず叫んでしまった。解説によると、
 「まず全部の数を足すと、①+②+③+④+⑤+⑥=21であるから、和を15にするには、21-15=6減らせばよいことになる。つまり、①+②+③+④+⑤+⑥ の中から、足して6になるものを取り除けばいいのだから、足して6になる組み合わせを①~⑥の数の中から見つけることと同じになる。それは、(①+⑤)・(②+④)・(①+②+③)それと(⑥)という4通りの組み合わせしかないので、答えは4通りとなる」(要するに、②+③+④+⑥=15、①+③+⑤+⑥=15、④+⑤+⑥=15、①+②+③+④+⑤=15の4組である)。
 正攻法で突き進んでいっても埒が明かないことはよくある。そういう時、それまでの方法に固執していては泥沼にはまってしまうだけだ。そうした場合に必要なのが、発想を転換させることだろう。上の問題でいえば、足していって16になるものを見つけるのではなく、とりあえず全部足しておいて余分な分を削っていくという発想に転換できたら、案外簡単な問題に変わってしまう。そうした例は算数の世界だけではなく、実生活の中にも多く見受けられるような気がする。その一番の例が年度末に帳尻合わせのために行われるとしか思えない道路工事。あれなど、与えられた予算を何とか使い切るためにさほど必要に思えない工事を年度内に終えてしまおうという考えの表れだろう。そうした税金を使うためだけの帳尻合わせの工事を計画するのではなく、要求のあった工事を全て集め、緊急の度合いによって急がないものはどんどん削っていくというような発想に変えたなら、あんなに穴を何度も掘り起こすなどという愚を繰り返さなくともいいように思うが、どうだろう。

 算数の問題から全く関係ないことが考えられて面白い。
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気絶するほど悩ましい

 チャーといえば、ギターリスト。「伝説の」という肩書きが着くくらいのギターの名手らしい。ギターなど弾いたことがない私にはどれほどの名手なのか想像もつかないが、彼の歌なら知っている。1977年に発表された「気絶するほど悩ましい」。私は当時、大学生。長髪のチャーはかっこよく、この歌は今でも時々口ずさむほど私の大好きな一曲である。YouTube で見つけたビデオクリップは布袋寅泰と一緒に歌っていて比較的新しいのだろう、歌い方が昔よく聴いたものとは違う。今風の歌い方をしていて、少々辟易してしまうが、曲自体がいいから、そんなことは大した問題じゃない。

「気絶するほど悩ましい」

鏡の中で口紅を塗りながら
どんな嘘をついてやろうかと考える
あなたは気絶するほど悩ましい

振り向きながら唇をちょっと嘗め
「今日の私はとてもさびしい」と目を伏せる
あなたは気絶するほど悩ましい

ああ また騙されると思いながら
僕はどんどん堕ちてゆく
上手くゆく恋なんて恋じゃない

上手くゆく恋なんて恋じゃない

まつげに涙 いっぱいにためながら
「あなただけは判るはずなの」と訴える
あなたは気絶するほど悩ましい

ああ 嘘つき女と怒りながら
僕は人生傾ける
上手くゆく恋なんて恋じゃない

上手くゆく恋なんて恋じゃない


これは阿久悠の作詞なのだそうだ。びっくりした。そう思えば、「上手くゆく恋なんて恋じゃない」などと、普通の人間には書けない。「騙されると思いながら 僕はどんどん堕ちていく」などと、転落することに快感を覚える描写は、余人の手には無理だ。すごい詞だなあ、とつくづく思う。
 今の歌は、歌詞を聴いたらその世界が広がるということはなかなかない。かと言って、演歌のように非現実的であったり、時代錯誤の世界を押し付けられても暑苦しいだけだ。しかし、70年代の歌謡ポップスには、手を伸ばせば触れることのできる現実世界を描きながら、聴く者が自己をその世界に投影できるような奥深さがあったように思う。この歌がいい例だ。リアルタイムでよく聴いた学生時代は、自分と同じ世代の男が、年上の恋愛経験豊かな女性に翻弄されながら、分っていてもどんどん相手の術中に陥っていく心持を、半ば喜びとともに歌い上げた歌詞だと思っていた。そこには私のほのかな憧憬も含まれていたのかもしれない。
 しかし、今改めてこの詞を読んでみると私も30年という齢を重ねたのを実感した。 今やこの詞に描かれた「僕」から私が想像するのは、ちょっとしたきっかけで知り合った女性に、利用されていると知りながらも彼女の言うがまま、なすがままにさせてやることに無上の喜びを感じ、ますます彼女にのめりこんでいってしまう中年男だ。なんだか、リアリティーがあってないような設定しか浮かんでこない自分が情けないが、そうした隠微な世界を思い描いてしまうのは、血液がどろどろしているからかもしれないけれど、何か私の深層心理を表しているようで、ちょっと嫌だ。
 まあ、常々少年の瞳を持ったオヤジを自認している私なので、好奇心は旺盛ではあるが、根は臆病なので、そうした危険な香りのする大人の世界に足を踏み入れたりなどするはずもないけれど。でも、ちょっとは憧れたりなんかしたりして・・・
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お気に入り

 寒い!暖冬だなんて言っていたのが嘘のように寒い。いったい何だろう、この極端な変わりようは。体が気候の移り変わりについていけず、調子を崩す生徒も多くなってきた。これから正念場を迎える私は、何とかこの寒さをしのいで満開の春を迎えたいとは思っているが、体調とともに心を穏やかに保つことも重要な仕事である。受験を控えた生徒が浮き足立つのと一緒に私までもふわふわしていてはどうしようもない。どっしり腰をすえて生徒が落ち着いて勉強に打ち込める環境を作らなければならない。そのためには、まず私が平常心を維持することが何より大切だ。
 とは言っても、これから2ヶ月近くずっと塾から離れられない。はっきり言って息が詰まりそうになることもある。そんな時、自分のお気に入りのものをあれこれ眺めてみるのもちょっとした気分転換になる。すると、すぐに頭に浮かんで来るのが一枚のシャツである。これだ。


RAIKA というブランドの PIA SPORTS というラインのシャツだ。もう5、6年も前に買ったものだが、3、4回しか着たことがない。アロハではないが、さらっとして着心地のいいポリエステルの生地にアニメのキャラクターが大きく描かれていて、色使いも派手で大好きなシャツだ。店で見つけたときにはさすがに躊躇したが、店員さんに「似合いますよ」などと乗せられて、思わず買ってしまった。
 でもいざ着るとなると、なかなか勇気が出なかったが、その年の夏に海に出かけたときに思い切って着てみた。素肌にこのシャツを着て、短パンをはいてみたらなかなかかっこよかった。私は自分ではなかなか服の着こなしはうまいと自惚れているので、これも当然だろうと調子に乗ってふらついていたら、何たる偶然、一人の塾生が家族とその海に来ていたのに出会ってしまった。私は、自分がなんだかオチャラケな格好をしている気が急にしてきて、ばつが悪くなって挨拶もそこそこに、その場から逃げてしまった。。今思えば、休日に遊びに来ているのはお互い様なのだから別に何も照れる必要もなかったのに、とは思うのだが、そういった時にそうした反応をしてしまうことが私にはよくある。思い過ごしも甚だしいのだが、塾生やその家族からは、しっかりした人間に見られなければ、という気持ちが常に働いているようだ。(いくら無理しても、だらしないのは直しようもないのだけれど)
 あれからもう5年以上も経って、このシャツを単独で着るのはますます恥ずかしい年齢になってしまったが、このシャツを着た上にジャケットを一枚羽織れば、相乗効果でシャツとジャケットの両方が一段とかっこよく見えるということを少し前に発見した。


何の変哲もない、ダブルの紺色のブレザーであるが、このブレザーが妙にこのシャツとマッチする。ずいぶん昔に買った薄い地のブレザーで、普段着る機会がめったにない私には一張羅のようなものである。少し前の5月の連休に出かけたとき、このシャツを着て行きたい誘惑に駆られた私は、半袖ではまだ涼しすぎるかもしれないと思い、このブレザーを上に着てみたのだが、その組み合わせの素晴らしさに驚いてしまった。紺のブレザーで、シャツのハデハデさを弱めることができるのと同時にちらちら見える絵柄の可愛さも強調してくれる。単なる紺のブレザーもシャツの力を受け取って、すごくおしゃれな上着に見える。天の配剤とまで言いたいような、この取り合わせの妙は、いつ見ても惚れ惚れしてしまう。素晴らしい。

 などとものすごく手前味噌なことを書いてしまったが、この服を見ていると幸せな気分になれるのはいいが、一つだけ困ったことがある。それはこの服を着て出かけたくなることだ。海に行きたい、温泉にも行きたい・・・
 しかし、今は真冬、さすがにこのシャツとブレザーでは出かけられない。それで、何とか我慢できている。
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