昨日、あの通り魔事件から、2年7ヶ月ぶりに、秋葉原の歩行者天国が試験的にではあるが再開された。
その夜、僕は、部屋のちょっとした本棚を整理していた。
すると、新聞が出てきた。
ちょうど、事件のあった同じ月の、2008年6月30日の朝日新聞朝刊だった。
それを知らずに、ただ、なぜ、こんな新聞を残しているのか、わからなくて、1面1面めくっていっていた。
中ほどのオピニオン面で、藤原新也さんのインタビュー記事を見つけた。
どうも、それで、残していたようだ。
読んでみる。
ちょうど、あの事件の直後、逮捕された犯人の母親は泣き崩れ、派遣労働者制度の見直しの議論が出た、等、当時の事が書いてあった。
社会構造の変化の中で、
今や、核家族化した中で孤立して子育てをせねばならず、重荷を一心に背負わされ、追い詰められた母親も、また、被害者であり、
このような事件が起きてから、派遣労働者制度の見直しの議論が出ても、それは、「ペンは剣より強し」の逆転であり、忸怩たるものがある。
と、その記事の中で、藤原さんは言っている。
確かに、普段、ニュースだけを見ていても、ただ単純に、「景気がもう少しマシだったら、こんな事件、起きなかったのでは?」という事件が多い。
もちろん、だからと言って、犯罪を起こすこと自体、許されるわけではないし、弁護するつもりもないが、雇用があれば、収入があれば、社会のセーフティネットが、ちゃんと整備されていれば、起きなかった犯罪が、たくさんあるように思う。
被害者のことを思うのも大切だが、この事件が、どのような社会背景で起こったのかを、この世に生きるひとり一人が、この機会にもう一度、考えてみることも大切ではないだろうか?
それは、ひとり一人の自身の日々の生活意識を再確認することに直結するように思う。
そして、何よりも、最近思うのは…、
藤原さんの記事の最後に、このような文章がある。
若者の犠牲と不幸の上に立って国内総生産を維持する国というのは一体何か。
アメリカモデルからの脱却という根本的な指針を、行政にあずかる者はそろそろ持つべき時代に来ている。