土曜日は、久しぶりに自転車に乗ってサイクリングに出かけました。
行き先も決めずに、とりあえず京阪電車に沿って走っていると、関目で国道1号線と都島通りが交差している大きな交差点なのに、斜めに交差している道を見つけました。曲がり具合といい、雰囲気といい、「これは旧街道や。」と直感しました。思った通り、角の所に「京街道」の道標が建っていました。
(関目5の交差点と斜めの道)
(京街道の道標)
しばらく京街道らしき道を進んでいると、守口のあたりで旧街道を見失ってしまいました。京阪守口駅のあたりでふと上をみると、陸橋みたいなところを人が歩いています。これって、「空堀」を歩いたときの「高津原橋」(4/18ブログ)みたいやな、と思って探してみると、意外な発見がありました。
(この坂を上って行きます)
(守居橋。さっき下からみつけた陸橋)
(下から見た守居橋)
実は、この高い所を通っている道は、「文禄堤」という堤防の上に作られた道だったのです。この堤は案内板によると「豊臣秀吉が伏見城と大阪城を結ぶ最短距離の道として、文禄5年(1598)に毛利輝元・小早川隆景・吉川広家の三家に命じて淀川左岸の堤防を改修・整備したもので、のちに、東海道守口宿の一部が築かれました…」ということでした。
(案内板1)
(案内板2)
この道の(文禄堤の)北側には、昔は淀川が流れていたということです。今の1号線のあたりは、淀川だったんですね。
(本町橋の北側。昔は淀川だったんでしょう)
(反対側には京阪守口駅)
文禄堤は27キロに渡って築かれたということですが、今に残るのはこの守口あたりだけのようです。
(今も残る文禄堤の断面)
秀吉さんの遺構としては、京都の「お土居」が有名ですが、(ブラタモリでも紹介されてましたね)ここも秀吉さんが作った凸凹地形の一つですね。
今回、下調べをしていなかっただけに、意外な出合いにびっくりなサイクリングになりました。
行き先も決めずに、とりあえず京阪電車に沿って走っていると、関目で国道1号線と都島通りが交差している大きな交差点なのに、斜めに交差している道を見つけました。曲がり具合といい、雰囲気といい、「これは旧街道や。」と直感しました。思った通り、角の所に「京街道」の道標が建っていました。


しばらく京街道らしき道を進んでいると、守口のあたりで旧街道を見失ってしまいました。京阪守口駅のあたりでふと上をみると、陸橋みたいなところを人が歩いています。これって、「空堀」を歩いたときの「高津原橋」(4/18ブログ)みたいやな、と思って探してみると、意外な発見がありました。



実は、この高い所を通っている道は、「文禄堤」という堤防の上に作られた道だったのです。この堤は案内板によると「豊臣秀吉が伏見城と大阪城を結ぶ最短距離の道として、文禄5年(1598)に毛利輝元・小早川隆景・吉川広家の三家に命じて淀川左岸の堤防を改修・整備したもので、のちに、東海道守口宿の一部が築かれました…」ということでした。


この道の(文禄堤の)北側には、昔は淀川が流れていたということです。今の1号線のあたりは、淀川だったんですね。


文禄堤は27キロに渡って築かれたということですが、今に残るのはこの守口あたりだけのようです。

秀吉さんの遺構としては、京都の「お土居」が有名ですが、(ブラタモリでも紹介されてましたね)ここも秀吉さんが作った凸凹地形の一つですね。
今回、下調べをしていなかっただけに、意外な出合いにびっくりなサイクリングになりました。