50年前、出水駅で演奏した米ノ津中学校の「蛍の光」は音程が外れていました。ボストンバッグに丸刈り、おさげ髪が今でも目に焼き付いています。既に満席に近い集団就職列車が着くと、それまでの談笑がピタリとやんで「母ちゃあん」と悲しい泣き声に変わりました。汽笛が鳴り列車が動き出すと、私のトロンボーンも泣きだして音が外れました。
「関門トンネルを抜けるまですすり泣きが続いた」と先輩から後年聞きました。
帰省の時季になると、今の日本の豊かさを築かれた、あの日の先輩方の顔を思い出します。
出水市 塩田幸弘 2011/8/10 毎日新聞鹿児島版掲載
「関門トンネルを抜けるまですすり泣きが続いた」と先輩から後年聞きました。
帰省の時季になると、今の日本の豊かさを築かれた、あの日の先輩方の顔を思い出します。
出水市 塩田幸弘 2011/8/10 毎日新聞鹿児島版掲載
これからもよろしくお願いいたします。
昭和31年、同郷の主人と見合結婚して名古屋まで向かいました。
出水駅を出発したものの、不安と淋しさで客席に座ることも出来ず、デッキに立ったり列車の最後尾に行ったりしました。
出水を出たことがない私は関門トンネルが海の下にあると聞いて恐怖感でいっぱいでした。
関門トンネルを抜けた途端、不安も淋しさも小さくなり、やっと席に座ることが出来ました。
当時の九州の人には関門トンネルは、人生の関門だったのかも知れません。
有り難うございます。
これからもどうぞよろしくお願い致します。
はがき随筆ブログにようこそ。
いつもお読みいただき有り難うございます。
これからもよろしくお願いいたします。
おめでとう
一員として一緒にいました。
私の青春の夢の一つである「トランペット」を
一生懸命ほおを膨らませて一生懸命吹きました。
今にして思えば(鶴)は、周りをよく見ていた
のですね。
私は、ブラスバンドが上手でない演奏をしている
のだけは分かりました。
私は、中学時代以来、楽器を手にしていません。
夢多き時代の良い思いででした。