5月中旬、関西から中学校修学旅行の女子生徒4人の民泊受け入れをすることになった。しかし、築60年の我が家は都会の乙女が泊まるには問題点だらけ。トイレ、風呂場にかぎがないなど、大慌ての改修大掃除に余念がない。特に目立つのが落書きだらけの茶の間の柱。
3人の子が記した背丈、その上に孫たちが書き、子と孫が貼ったシールが貼り付いている。
雑巾片手に悩んだが、ありのままの我が家として残すことにした。そして乙女たちにも書いてもらおう。いつの日か、この地を思い出してもらえたらうれしい。近づく出会いにどきどき。
出水市 塩田きぬ子 2013/5/14 毎日新聞鹿児島版掲載
3人の子が記した背丈、その上に孫たちが書き、子と孫が貼ったシールが貼り付いている。
雑巾片手に悩んだが、ありのままの我が家として残すことにした。そして乙女たちにも書いてもらおう。いつの日か、この地を思い出してもらえたらうれしい。近づく出会いにどきどき。
出水市 塩田きぬ子 2013/5/14 毎日新聞鹿児島版掲載
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北九州市の大賞表彰式には、アカショウビンもお供いたします。
薩摩国に二番目に建てられたのが、出水の加紫久利神社です。『薩摩二ノ宮』とも呼ばれています。
『薩摩一ノ宮』は約150km先の指宿の枚聞神社(ひらきき)。お互い向かい合って建てられています。
加紫久利神社の創始年は不明ですが、851年の官社に列し、860年に従五位下から従五位上に
昇格しました。927年の『延喜式神名帳』に薩摩国の神社は枚聞神社&加紫久利神社が2社のみ
載っていることから薩摩国の二番目の神社〔薩摩二ノ宮〕と呼ばれるようになりました。
広大な敷地と立派な社殿がありましたが、明治10年(1877年)の西南の役で全焼し、歴代伝えられた宝物も失いました。
地元有志の寄付で、現在の社殿は昭和36年に再建され、平成元年に改築されました。
五段の階段があります。そこを通れば色んな試験に合格すると言われています。
※ロシア国家の始まりは862年ですから、加紫久利神社の建立は、それより以前です。
〔出水兵児(いずんべこ)修養の掟〕
薩摩藩には各郷に青少年教育のための郷中教育制度ありました。その制度は昭和40年頃まで続きました。
出水の掟は『出水兵児修養の掟』です。
山田昌巌が作ったと伝えられていますが、実は江戸時代後期に作られた物で元禄時代に出た細川藩(熊本)
の学者の井沢蟠龍の著作から取り改作したものです。
〔現代の言葉で言うと概ね下記のとおりです〕
人は日頃から節義を心がけなければならない。
節義の心がけとは,嘘を言わず,自分勝手でなく,ひねくれず,
立居ふるまい挨拶など社会の決まりに合った交際上の動作や作法
を身に付け,地位の高い人に気に入られようとして、こびることなく
地位の低い人を見下げて馬鹿にすることなく,他人の災難や心配ごと
などを見捨てず,引き受けた事はやりとおし,勢いよく労を惜しまず,
手ぎわよく,はっきりした態度で物事を行ない,頼みに出来る様であること。
一時的であっても卑しい様子やふるまいについて語り合ったり人を悪く
言うことなど会話のちょっとした部分にも、聞き耳や口を出さず,たとえ面目を失い名誉
を傷つけられて職を失うことになっても,自分がすべきでないことはせず
決死の覚悟を決めた時には気おくれせず,その精神は強固で優しく
深い愛情があり,情趣・風流を理解する洗練された心と思いやりのある
温かい心を持つことを節義の心がけと言う。
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☆出水市の人口(平成25年4月1日現在) 男性25,974+女性29,638=55,612人
☆平成25年1月12日現在で13,138羽の鶴が出水市へ飛来しました。
(ナベヅル9,579羽、マナヅル3,539羽、クロヅル7羽、カナダヅル11羽、ソデグロヅル1羽、ナベクロヅル1羽)
※10月中・下旬頃から飛来し始め正月頃がピークです。1月中旬頃から帰り始めて3月末頃までに帰り終えます。
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JR九州新幹線
●新大阪駅より「新幹線さくら」でJR出水駅まで約3時間55分
● 博多駅より「新幹線さくら/新幹線つばめ」でJR出水駅まで約1時間15分
● 鹿児島中央駅より「新幹線さくら/新幹線つばめ」でJR出水駅まで約25分
出水市総合観光ステーション(0996-79-3030)
年中無休 9時~18時
方言は昔は隠密(スパイ)防止に役立ったり、現在では方言を残そうとする運動もあり親しまれています。
しかし、一時期は方言を使わないようにする教育もありました。
それは、昭和27年から始まった集団就職に起因します。
戦後復興のために日本は頑張り、中学校を卒業すると集団就職列車で東京・名古屋・岐阜・大阪・兵庫・岡山方面の紡績工場や町工場などに働きに行きました。
最初の頃は、卒業生の60%ぐらいは集団就職列車に乗って行ったと聞きました。
米ノ津中学校、昭和39年卒業生499名の30%ぐらいは乗って行きました。
米ノ津中学校のブラスバンド部員だった塩田の爺さん達は、その時期は駅で毎日『蛍の光』を吹奏しました。
汽車の窓から『母ちゃ~ん』『行かん行かん』と泣きじゃくり、蒸気機関車の汽笛が鳴ると身を乗り出して見えなくなるまで手を振って泣きながら行きました。関門トンネルを抜けるまで泣いたそうです。
出水駅の柱に抱きついて『行か~ん汽車に乗ら~ん』と泣き叫び悲鳴をあげる子もいました。
就職先で方言しか使えない子供たちが多く、馬鹿にされたり笑われたりして『うつ病』になる子もいました。
対策として、昭和30年頃の小学生から『共通語を使いましょう』と教育されるようになりました。
ウッカリ方言を使うと『運動場を走らせれたり』『漢字100字書かされたり』の罰までありました。
京都の古語と混ぜ合わせた薩摩の方言は、外国語以上に難しく奇異に聞こえたのだと思います。
現在は本来の薩摩の方言を使える子供や若者を見かけなくなりました。
貴重で歴史的無形文化財である薩摩の方言を残したいと思います。
※暇な時に252文字規定の毎日新聞掲載のハガキ随筆 『随筆泣いたトロンボーン』を検索して下さい。
集団就職列車のことが書いてあります。
因みに塩田のお婆ちゃんの『随筆一切れのカステラ』『随筆子宝』『随筆弁当作り』『随筆北行帰』
『随筆ラジオ体操』『随筆大渋滞』『随筆ヨモギ摘み』『随筆民泊受け入れ』も検索してね。
コメント欄の〔匿名(鶴)〕は塩田のお爺ちゃんです。
頭に『随筆○○○』と入れて検索してね。
〔出水武家屋敷群の話〕
現在の武家屋敷群では、日本で一番広いのが出水の武家屋敷群です。
関が原の戦いの前年1599年から初代地頭の本田正親が着手して、3代地頭の山田昌巌の治政下まで
30年かけて1629年に出来上がりました。
江戸時代、島津藩は鹿児島市内にある鶴丸城を本城とし、領地内に113ケ所の外城があり、その中で一番
大きく強固で43.8ヘクタールあり、現在でも当時の様子を残しているのが出水の武家屋敷群です。
藩内の各地から豪傑が寄せ集められ、薩摩藩の北の要塞として建設・編成されました。
徳川幕府の江戸時代は戦のない時代で要塞として使う事はありませんでした。
しかし、完成から248年経って1877年(明治10年)の日本最後の内戦である『西南の役』の時、政府軍と
薩摩軍とが戦った刀の傷あとを税所邸(柱)で見た事があります。
〔薩摩藩島津家の成り立ちと方言の由来〕
肥後(熊本)肥前(長崎)日向(宮崎)などの国からの隠密(スパイ)が判別出来るように薩摩独特の言葉(方言)
を島津が薩摩入りしてから京都の昔の言葉を混ぜ合わせて作りました。
元々は九州各地の言葉は似たような言葉だったからだと推測します。
〔※方言は後述します。〕
京都から源頼朝の命令で、島津忠久は1186年に薩摩国の島津荘地頭職として出水の木牟礼城に入り
2年後に一旦戻りますが、再び1196年に出水に帰って来ました。
※忠久の母親は頼朝の乳母でした。子供の頃、忠久と頼朝は京都で仲良く遊んだんだと思います。
※第1回目の蒙古襲来(元寇)は1274年ですから、島津忠久が初めて出水に来てから88年後です。
薩摩国に元々から居た豪族(渋谷氏・肝付氏・伊集院・祁答院・入来院)などを治められず、1227年に
忠久亡き後も、忠時→久経→忠宗→貞久と1363年まで177年間、島津家は出水を拠点にしました。
出水市野田町の感応寺に忠久から貞久まで5代の墓があります。
※久経までは主に鎌倉に住み、不在中は守護代に統治させました。
※やがて、各地の豪族を治めながら6代目(総州家初代)の師久から現在の薩摩川内市に居城しました。
※同じく6代目(奥州家初代)の氏久は現在の宮崎県都城市辺りに居城しました。
※総州家は1430年に断絶しました。
※明治4年7月14日14時発令の廃藩置県まで鹿児島藩知事として残った島津忠義は奥州家です。
※本城の鶴丸城(別名鹿児島城)は1602年に築城を開始して完成年は不明です。
※因みに、島津が来る前から出水には、和泉氏・山門院などの豪族がおりました。
【横道にそれます】
☆東京の渋谷区は薩摩藩の家老職の渋谷氏の江戸屋敷に因んで、現在の『渋谷区』になりました。
今でも毎年、渋谷区の大通りで約2000人の踊り連が『小原節』を踊るのは薩摩に係わりがあるからです。
☆大河ドラマ『天璋院篤姫』は出水でもロケもありました。その篤姫の幼なじみで初恋の彼は、温泉で有名な
指宿地区にあった肝付家の四男〔尚五郎〕です。名前を小松帯刀清廉と変え、島津藩の家老職になりました。
※時代は幕末から明治維新の西郷隆盛・大久保利通・川路利良・勝海舟・坂本龍馬などが活躍した頃です。
☆初代の島津忠久は牛若丸(源義経)や弁慶と同時代を生きていました。
☆トンチ豊かな『一休さん』は、忠久が出水に来てから207年後の1393年にオギァーと生まれました。
【話は戻ります】
1401年に鹿児島市の島津家本家(奥州家)は出水に分家〔薩州家〕を開設しました。
分家の殿様は島津用久→国久→重久→忠興→実久→義虎→忠辰と1593年まで7代続きました。
出水市麓町の龍光寺が用久から忠辰まで7代の菩提寺です。
豊臣秀吉が1593年に朝鮮出兵した際に、忠辰は病気と称し朝鮮に上陸しなかったので秀吉の激怒を
かい出水の薩州島津家の領地は没収され、細川幽斎と石田三成に分与されて終わりました。
まもなく、その領地は島津本家に返されました。
その後は、地頭を派遣して統治するようになり、第3代地頭の山田昌巌が有名です。
〔山田昌巌の話〕
昌巌は朝鮮出兵や関が原の戦いで功績をあげ、桜島の近くの福山の地頭を30余年勤めた後、51才の時に
出水の地頭として転勤赴任しました。
出水の武士達は昌巌の度胸を試すために『カエルの吸い物』を出しました。
昌巌は何のこともなくペロリと食べました。
後日、昌巌は自宅に出水の武士達を招いて『針の吸い物』を出しました。
出水の武士達は、勿論食べることは出来ませんでした。
『針は小さいけど食べられない、小さくても根性・強い魂があれば人から馬鹿にされたりしない』と言うことを
出水の武士達に教えました。
昌巌は用水路を開発して農業を豊かにしたり、教育にも熱心で出水の人々から慕われ尊敬されて、現在でも
語り継がれています。満90才の時、出水で亡くなりました。
(時間や天気の都合で割愛&変更があります)
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◎川原や野っ原をカントリー娘になりきってワイワイガヤガヤ歩こう会
◎ノンビリだらだら休憩タイム。
◎スズメに負けるな!ピーチクパーチクおしゃべり大合戦
◎歩いて5分。 暗闇で蛍の乱舞 ソーットのぞいて見てごらん
◎その他みんなで色々考えて楽しもう