第二次大戦末期の特攻飛行隊の存在を知る人はもう少ない。日向市の富高にもあった。
我が家の貸家に独り暮らしの婦人がおられた。ある日、日の丸の旗を持って訪ねてみえ、一人息子が出撃するからうちの畑から見送りたいと言われた。うちの家族も大旗を持ち、一緒に空を見上げて待った。やがて低空飛行で息子さんが現れ、2回旋回し南へ去っていかれた。
そして6月29日、米軍の空襲にあい、隣も我が家ともども焼け果ててしまった。それっきりご婦人の姿を見ることはなかった。振った旗の重さだけが記憶に残っている。
宮崎県延岡市 窪田恵子(82)2018/8/16 毎日新聞鹿児島版掲載
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