
何事も、<絶対精神の自己運動>として捉え返すべき、と思える。
しかしながら、自身の特殊性(年齢、久しくまともな運動を行なっていないこと、かつ過去の運動での古傷がある)から止むなし、であると。なぜならば、端的には、いきなりやり過ぎるならば、簡単に壊れて、数ヶ月、場合によっては数年単位で回復にかかってしまう、場合によってはそれで終わり、となってしまうからである。逆からいえば、ステップバイステップでの練習、運動であるならば、現在はまだ可能であるのだから......。
これは要するに、空手の練習、鍛錬にも過程性がある、過程性を持たせなければならない、ということであり、別言するならば、<絶対精神の自己運動>の過程として、取り組まねばならないということである、と思える。
どういうことかと言えば、現在の自己が「空手の黒帯」に成りたいとして、いきなり黒帯としての諸々の練習、例えば、型に組手を行なっても、それで黒帯レベルになっていけるかと言えばダメであり、必ず、白帯から緑帯、緑帯から茶帯、茶帯から黒帯への段階を踏んでの必要がある。
ということは、<絶対精神の自己運動>としては、素朴な<絶対精神>が完成された<絶対精神>にはいきなりは成れない、成っていくべきではない。必ず、まずは<自然>へと化体して、<自然>として生々発展していく中で、<社会>へと成っていけるだけの内実を培い、結果として<社会>へと化体して、次に、<(自然・)社会>として生々発展していく中で、<精神>へと成っていけるだけの内実を培うことで、<精神>へと化体して、そこから<(自然・社会・)精神>としての内実を深めていくことで、<完成された絶対精神>へと成っていく、成っていける。
ということと同じで、空手の黒帯への道も、そこへ至る過程を無視しての、であってはならない、というかそこを無視するならば、素朴な<絶対精神>は完成された<絶対精神>へとは成っていけないのと同じくに、現在の素朴な<自己>は、黒帯の<自己>へと成っていけない、ということである。
そのように、自己の発展というものを<絶対精神の自己運動>として考えてみると、ヘーゲルにあっても(月と鼈の話で申し訳ないが)、<絶対精神の自己運動>ということは、当初は素朴なレベルであって、徹頭徹尾一貫してのヘーゲルのアタマの働きでは無かったのでは、と思える。そうでなければ、『精神現象学(序論)』から『大論理学』とはならないであろう、と思う。