goo blog サービス終了のお知らせ 

「股関節重心」と「お灸セルフケア」でコリ・痛みの無い身体に

コリと痛みの無い身体へと自身の身体を変えていくプロセスの記録とお灸セルフケアについて

久し振りの階段昇降鍛錬〜過程性ということの大事性〜

2020-05-12 08:01:00 | リハビリ室閉鎖中の日記
 何事も、<絶対精神の自己運動>として捉え返すべき、と思える。

 昨日は、午前中に近くの公園で50段程度の階段の昇降を約20分、その後、川の土手を約2時間歩き、午後は、庭の片付け(以前に伐った木をゴミ袋に入るように切る作業)おこなった。階段昇降は、久々の空手の練習へと直接的に繋がるものとの思いでの、であったが、案の定、わずかに50段程度の階段の昇降で息切れ、夜には、足が攣ることも。それゆえ、まだまだ、それ以前の人間体の鍛錬をしっかりやってでなければ、との思いとなった。客観的には、なんとも生温い練習であり、我がことながら、大丈夫かな?との思いを持たないでは無い。

 しかしながら、自身の特殊性(年齢、久しくまともな運動を行なっていないこと、かつ過去の運動での古傷がある)から止むなし、であると。なぜならば、端的には、いきなりやり過ぎるならば、簡単に壊れて、数ヶ月、場合によっては数年単位で回復にかかってしまう、場合によってはそれで終わり、となってしまうからである。逆からいえば、ステップバイステップでの練習、運動であるならば、現在はまだ可能であるのだから......。

 これは要するに、空手の練習、鍛錬にも過程性がある、過程性を持たせなければならない、ということであり、別言するならば、<絶対精神の自己運動>の過程として、取り組まねばならないということである、と思える。
 どういうことかと言えば、現在の自己が「空手の黒帯」に成りたいとして、いきなり黒帯としての諸々の練習、例えば、型に組手を行なっても、それで黒帯レベルになっていけるかと言えばダメであり、必ず、白帯から緑帯、緑帯から茶帯、茶帯から黒帯への段階を踏んでの必要がある。
 ということは、<絶対精神の自己運動>としては、素朴な<絶対精神>が完成された<絶対精神>にはいきなりは成れない、成っていくべきではない。必ず、まずは<自然>へと化体して、<自然>として生々発展していく中で、<社会>へと成っていけるだけの内実を培い、結果として<社会>へと化体して、次に、<(自然・)社会>として生々発展していく中で、<精神>へと成っていけるだけの内実を培うことで、<精神>へと化体して、そこから<(自然・社会・)精神>としての内実を深めていくことで、<完成された絶対精神>へと成っていく、成っていける。
 ということと同じで、空手の黒帯への道も、そこへ至る過程を無視しての、であってはならない、というかそこを無視するならば、素朴な<絶対精神>は完成された<絶対精神>へとは成っていけないのと同じくに、現在の素朴な<自己>は、黒帯の<自己>へと成っていけない、ということである。

 そのように、自己の発展というものを<絶対精神の自己運動>として考えてみると、ヘーゲルにあっても(月と鼈の話で申し訳ないが)、<絶対精神の自己運動>ということは、当初は素朴なレベルであって、徹頭徹尾一貫してのヘーゲルのアタマの働きでは無かったのでは、と思える。そうでなければ、『精神現象学(序論)』から『大論理学』とはならないであろう、と思う。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 何を為すべきか(加筆)〜書く... | トップ | 『恩讐の彼方に』を読む〜信... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。