「眠る」ということを「クラゲ体」までの<生命の歴史>の繰り返しととらえ返しておこなった。
自身では、これまで「眠る」ということを、「単細胞体」の時代の繰り返しとして捉えていた。つまり、運動を否定しての体の回復・代謝をもっぱらにする時間としていた。
それを昨夜は、「魚類体」未満の = 「クラゲ体」までの<生命の歴史>の繰り返しと捉えての、ここまでは「クラゲ体」にはある、これ以上は「魚類体」の運動になってしまう、とあれこれ考えながらの眠るであった。(本当は考えるということもダメなので、あろうけれども......クラゲには脳はないから......)
具体的には、視覚や聴覚等の五感覚器官からの外界の反映はなるべくカットする形で、なぜならクラゲ体には五感覚器官はないから。(具体的には、スマホは☓音楽も☓......)
また、布団から出て動き回るというしっかりとした運動を極力控えて、「これは魚類体の運動になってしまうな」等々と考えて、の「眠る」であった。
その一方で、布団の中での蠢くレベルの運動、例えば、腰や腕の古傷の違和感に対しての曲げたり伸ばしたり、ストレッチ等ということは、積極的にやるということにした。(これまでは、なるべく動かずにであった。)端的には、「クラゲもこのくらいはやるだろう!?」と。
以上を要するに、「眠る」にも「単細胞体」の代謝が全てである、の「眠る」と、「多細胞体」になってからの「クラゲ体」までの眠っているのか起きているのかわからないレベルの、代謝を専らにしつつも、蠢くレベルの運動はしての「眠る」、の二重性があるのではと捉えての実践であった。
それらの実践が、いかなる意味・意義を持ち得るのかは、未だわからないけれども、これまで「眠る」は眠るであって、運動とは対立すること、というレベルであったものが、(「クラゲ体」以下の)<生命の歴史>の繰り返しとして捉え返せての、「眠る」とすることは、していくことは、何かしらの成果をもたらしてくれるのだろうと思えている。
そういう意味では、今は「<生命の歴史>の繰り返し」ということの大事性・有効性を信仰するのみなのであるが......。
睡眠を「いのちの歴史の物語」的に捉えるとは…
ビックリです!
この発想は、私には、一度もなったモノだす。
ちょっと?…かなり!「くやしい」モノがあります。
「いのちの歴史の物語」的に、事実を論理的に思考するなら…当然の結果ですかね♪♪♪
因みに、論理的な「人間の食」の問題も同様にですね!
「いのちの歴史の物語」の論理は~
論理的な現実的に「壱」になりゆく、
限りなく「零」に近い論理的な「いち」ですかね…
<生命の歴史>教の信者ですね🤣👍
><生命の歴史>、(<精神の歴史>、<社会の歴>ですか…
<精神の歴史>…哲学・「弁証法の歴史」?!
<社会の歴史>…サル集団から国家の歴史?!
教員時代に、夏休みに担任から新中一クラス親睦の為の旅行の付き添いを頼まれ…
尾瀬に一緒に行きました。
到着した夜は「子供達と一緒に大騒いで…」
その翌日の尾瀬沼の周り歩きの時に…
歩いていて…次の瞬間に膝が「ガクっ」として…
気付いた事は「今の私は足を出して着地する間(瞬間)に眠っていた!」と言う事実。
歩きながら目眠ってしまっていた。
危うく、沼に落ちていた…
今までの人生でたった一回の体験・経験でした。
夜遠し一睡も出来ない体験・経験は豊富なのに…
一般論→現象論→構造論という学問の歴史を踏まえて、まず(事実からの)一般論、次に具体の事実を上げて、検討し、それは要するにどういうことか?という構造論へ。
上手くいったり、グダグダになったりはあっても、基本的には、この形式は守るようにしてます。
「素朴な絶対精神」(観念)→「自然→社会→精神」(物質)→「完成された絶対精神」をイメージしての、自身の思いから、その中身、具体の検討、そしてその思いは本当はなんだったのか?へ。
「社会の弁証法」とは…
多分…会社なら、会社・社会人としての尊敬可能な上司・先輩の言動・思惟・思考…を手本にその会社・社会で頑張り成長していく時の自分の認識の変化・運動…
う~ん…
確か、師範が、何処か、
観念論ヘーゲルの弁証法は「絶対精神の自己発展」…
と書かれていました。
この絶対精神とは、人類の文化遺産の総体…書いていたかも…
自己の中に絶対精神レベル精神を創造して、その自己発展…ですかね…
私も二天さんを見習って自己の事実で思惟してみます…