(前回からの続き)
次に、弁証法について。弁証法とは「世界の運動の一般性についての学問(科学)」(あるいは「世界の一般的な運動についての学問(科学)」)である。これについても南郷継正先生の著作に学んでいたでければと思うが、簡単に東洋医学,鍼灸とのかかわりでその必要性を説いておきたい。
東洋医学,鍼灸を学ぶのに何故に<弁証法>の学びを!なのかといえば、端的には,弁証法が、世界の運動の一般性、法則性を扱う学問であるから、である。
これに対しても、即座に、「自身の学びたいのは鍼灸であり,患者の治療であり、そのために必要な限りでの東洋医学であって、例えば、東洋医学の古典と言われる医古文というものに対してさえ距離を置きたい、興味が無い、学ぶことが役にたつとは思えないのに、まして、「世界の運動の一般性」!を扱う学問!?などというものには何の興味も無いし、自分には何の関係も無いもの!」との反論がある、と思える。
しかしながら、感情的にならずに冷静に考えてもらえれば、東洋医学や鍼灸も世界の一部であるし、患者や患者を治療する自身も治療していくという行為も、そもそもの患者が病気になっていくということも、その病気が治っていくということも世界の一部であり、その運動なのだから、それらを部分として持つところの世界の「一般的な運動」を扱う学問が弁証法なのだから、もっといえば、病気になっていくことや病気が治っていくこと、あるいは治療ということ等々が、一般的にはどのような法則性を持って,変化・運動するのか、ということを教えてくれるのが、その、我々治療家が、本当ならばどうしても知りたい,知らなければなら無い筈の、病気や治療の過程(例えば予後)を教えてくれるもの(正確には、それらを分かるアタマの働きを創出してくれるもの)が弁証法の学びであるから……と言えば、その学びの必要性が少しは分かっていただけるであろうか?
加えて、「陰陽論・五行論」というものは、<弁証法>から見れば、弁証法の一つのありかた、素朴な表象レベルの弁証法と捉え返すことができるものであるから、<弁証法>を学ぶことで、その理解が深まり、それらは本来いかなるものなのか、それらはいかに学ぶべきなのか,東洋医学,鍼灸に如何に生かしていくべきなのか、ということが見えてくる、と思えることも東洋医学や鍼灸にしか興味の無い皆さんにも、<弁証法>の学びをすすめる所以である。
次に、弁証法について。弁証法とは「世界の運動の一般性についての学問(科学)」(あるいは「世界の一般的な運動についての学問(科学)」)である。これについても南郷継正先生の著作に学んでいたでければと思うが、簡単に東洋医学,鍼灸とのかかわりでその必要性を説いておきたい。
東洋医学,鍼灸を学ぶのに何故に<弁証法>の学びを!なのかといえば、端的には,弁証法が、世界の運動の一般性、法則性を扱う学問であるから、である。
これに対しても、即座に、「自身の学びたいのは鍼灸であり,患者の治療であり、そのために必要な限りでの東洋医学であって、例えば、東洋医学の古典と言われる医古文というものに対してさえ距離を置きたい、興味が無い、学ぶことが役にたつとは思えないのに、まして、「世界の運動の一般性」!を扱う学問!?などというものには何の興味も無いし、自分には何の関係も無いもの!」との反論がある、と思える。
しかしながら、感情的にならずに冷静に考えてもらえれば、東洋医学や鍼灸も世界の一部であるし、患者や患者を治療する自身も治療していくという行為も、そもそもの患者が病気になっていくということも、その病気が治っていくということも世界の一部であり、その運動なのだから、それらを部分として持つところの世界の「一般的な運動」を扱う学問が弁証法なのだから、もっといえば、病気になっていくことや病気が治っていくこと、あるいは治療ということ等々が、一般的にはどのような法則性を持って,変化・運動するのか、ということを教えてくれるのが、その、我々治療家が、本当ならばどうしても知りたい,知らなければなら無い筈の、病気や治療の過程(例えば予後)を教えてくれるもの(正確には、それらを分かるアタマの働きを創出してくれるもの)が弁証法の学びであるから……と言えば、その学びの必要性が少しは分かっていただけるであろうか?
加えて、「陰陽論・五行論」というものは、<弁証法>から見れば、弁証法の一つのありかた、素朴な表象レベルの弁証法と捉え返すことができるものであるから、<弁証法>を学ぶことで、その理解が深まり、それらは本来いかなるものなのか、それらはいかに学ぶべきなのか,東洋医学,鍼灸に如何に生かしていくべきなのか、ということが見えてくる、と思えることも東洋医学や鍼灸にしか興味の無い皆さんにも、<弁証法>の学びをすすめる所以である。