令和2年2月28日(金)三寒四温の日々です。
いよいよ三学期も後半、残り少なくなりました。
先日、春一番が吹き、日中の最高気温は17℃に上がりました。
何となく春めいた久しぶりのポカポカ陽気の日差しに恵まれました。
ですが、今年は1月から
『新型コロナウィルス』の感染者が出て、対応に追われる日々です。
当緑ヶ丘第二幼稚園は今のところ臨時休園には致しません。
但し、登園前にご家庭で熱を計り、検温表に記録して持たせてください。
37度5分以上ある場合、咳や鼻水が出るなど体調の良くない方は無理して来ないで、
登園を見合わせてご用心ください。
インフルエンザやコロナウィルスに感染すると大変です。
今の時期は病院に直接行かずに、先ずはゆっくりご家庭での養生が宜しいようです。
また元気で健康な園児でも小中学生の兄姉がいたり、ご家庭で安全確保が可能な場合は、
多数の方との密接な濃厚接触を避けるために登園を自粛なさっても宜しいです。
その場合は『欠席』の扱いではなく『出席停止』の扱いとなります。
乳幼児期のこどもは感染率が低いと言われていましたが、免疫力が落ちたり、
何か基礎疾患がある持病持ちの場合は致死率が高くなるとデータが示しています。
充分用心し、安全安心第一です。
室内の換気にも気を付けて、手洗い、消毒!
咳エチケットでマスク着用!
なるべく公共交通機関(バス・タクシーなど)の利用も避けて
不要不急の外出も極力控えて、
人混みやお店(カラオケ・ゲームセンター)など出歩かないように!
春一番は、北海道と東北、沖縄を除く地域で例年2月から3月の半ば、立春から春分の日の間に、その年に初めて吹く南寄り(東南東から西南西)の強い風。
主に太平洋側で観測され、春一番が吹いた日は気温が上昇し、翌日は西高東低の冬型の気圧配置となり、寒さが戻ることが多いようです。
春といえば、、、
立春は、毎年2月4日頃で太陽黄経315度の日です。
旧暦の正月節で、二十四節気の1つ目でもあります。
春分は、毎年3月21日頃で、太陽黄経が0度となる日です。国民の祝日「春分の日」でもあり、昼と夜の長さが同じになる日ともいわれています。現在では、昼間の方が十数分長いということが分かっています。
春一番の由来は?
1859年2月13日(旧暦)に起こった漁船転覆がキッカケといわれています。
強い南風が原因で船は転覆し、53名の死者がでました。この事故の原因になった強い南風を「春一」もしくは「春一番」と漁師たちが呼ぶようになったそうです。
その後、民俗学者である宮本常一さんにより「俳句歳時記」に壱岐で使われている言葉として紹介されたことで、メディアでも「春一番」という言葉が使われ、現在のように広がっていったと言われています。53名の犠牲者のでた長崎県壱岐郡郷ノ浦町には「春一番の塔」が建てられています。
そして、世界中の人が大移動するのは、、、春節です。
春節(しゅんせつ)とは?
この時期は 春節(しゅんせつ)という旧正月のお祝いの時期です。春節は中国だけではなく全世界の華人にとって最も大切な伝統的な祝日とされています。春節が近づくと人々は年越し用品を買い、大晦日には家族そろって夕食(主に餃子など)を食べます。そして吉祥とおめでたい気分を表す絵や対聯(「ついれん」といい、おめでたい言葉を赤い紙に書き、門や入り口の框に貼るもので新年を祝い邪気を払う言葉を書く)を掛けたり、生き生きとした植物で部屋を飾ったりして新年を迎えます。餃子と餅など、盛りだくさん食べ物が食卓に並びます。
街の至る所が飾り付けされ爆竹が鳴り、互いに新年の挨拶を交わし、龍と獅の踊りや縁日が行われます。年賀状のような春節カードには「新年好!」と書かれています。
さて、「春節」の次は…
日本では節分、立春、そして楽しい「雛祭り」
「雛祭り」はいつ頃から始まったのか?
歴史的には判然とせず、その起源説は複数存在しています。平安時代の京都で既に平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていた記録が現存している。その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられます。
初めは「遊びごと」で、儀式的なものではなく其処に雛あそびの名称の由来がありました。しかし平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり、「上巳の節句(穢れ払い)」として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られる様になったそうです。
江戸時代になり女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき全国に広まり、飾られるようになったのです。この遊びである「雛あそび」が節句としての「雛祭り」へと変わったのは天正年間以降のこと。この時代から三月の節句の祓に雛祭りを行うようになったと推測されています。
もっとも、この時代には飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようにもなり、その為、自然と華美により贅沢なものへと流れました。
江戸時代初期は形代の名残を残す立った形の「立雛」や、坐った形の「坐り雛」(寛永雛)が作られましたが、これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物でした。その後時代が下ると人形は精巧さを増し十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られましたが、これらは豪勢な金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた立派なものになったのでした。
この享保年間からは、人々の消費を当時の幕府によって規制するため一時的に大型の雛人形が禁止されました。『御触書宝暦集成』十五では「雛は八寸以下、雛諸道具は蒔絵は不可」という制限が見られます。しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形(わずか数センチの大きさ)が流行することになりました。
江戸時代後期には「有職雛」とよばれる宮中の雅びな装束を正確に再現したものが現れ、さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れました。
今、幼稚園の玄関ホールにて展示中の内裏雛は、この「有職雛」で、正倉院御物の衣装の柄や織物の染色のとおりに縮小復元された約40年以上昔の作品で、京都の人間国宝級の職人さんたちが腕を振るった逸品です。見ごたえがあり感動します。
また18世紀終わり近くより五人囃子(ごにんばやし)の囃子人形が現れ、幕末までには官女・随身・仕丁などの添え人形が考案されました。
雛飾りは嫁入り道具や台所の再現、内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、御殿や壇飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなって行きました。御殿は江戸(関東)では用いられず、関西およびその影響を受けた地方で用いられ、台所道具も同様。江戸の古今雛には原舟月などの作家ものがあり、ガラス製の玉眼も比較的早く用いられました。京都製に玉眼が入るのは幕末になってからです。
雛人形
「雛人形」は、宮中の殿上人の装束(平安装束)を模している。
「女雛」の髪型は主に「大垂髪(おすべらかし)」と「古典下げ髪(こてんさげがみ)」があります。「大垂髪」は、平安時代からの垂れ髪形式が鎌倉・室町を経て、江戸時代後期に完成された比較的新しい髪型で、ビン(前髪部分)を大きく張った髪型です。
「古典下げ髪」は、割り毛とも呼ばれ、平安時代では長く黒い髪が美人の条件とされていたため、髪を全て後ろへ流し、わずかに垂らした両頬の毛を切りそろえた髪型で、顔を髪の毛で三方から包むことで面長に見せ、肌色の白さを強調し、より美しく見せるためとされる。「古典下げ髪」は、「大垂髪」よりも結髪の技法が難しく、結髪師の技量が問われるため現在は希少となっています。
種類
内裏雛(だいりびな)あるいは親王(男雛、女雛)。
それぞれ天皇、皇后をあらわすが、正しくは親王と親王妃です。ただし天皇にのみ許されている立纓の冠を戴いている雛が多い。繧繝縁(うんげんべり)の厚畳の親王台が敷かれます。
- 三人官女(さんにんかんじょ)。宮中に仕える女官をあらわす、内1人のみお歯黒、眉無し。(既婚者を意味するが、生涯独身の女官の場合には年長者という意味であろう)
- 五人囃子(ごにんばやし)。能のお囃子を奏でる5人の楽人をあらわし、向かって右から、謡(うたい)、笛(ふえ)、小鼓(こつづみ)、大鼓(おおつづみ)、そして太鼓(たいこ)の順であり、右から楽器が小さい順番に並んでいる。能囃子の代わりに5人、又は7人の雅楽の楽人の場合もあり、向かって右から、羯鼓、火焔太鼓、笙、篳篥、横笛 の順に並べる。
- 随身(ずいじん、ずいしん)。通称右大臣と左大臣。向かって右が左大臣で年配者、向かって左が右大臣で若者である。いずれも武官の姿であり、正しくは近衛中将または少将である。矢大臣も参照。
- 仕丁(しちょう)あるいは衛士(えじ)。従者をあらわし、通常3人1組である。それぞれ、日傘をかざしてお供する係、殿のはきものをお預かりする係、雨をよける丸い笠(かさ)を竿(さお)の先にのせてお供する係を分担している。向かって右から立傘(たてがさ)、沓台(くつだい)、台笠(だいがさ)の順に飾る。怒り、泣き、笑いの表情から、三人上戸(じょうご)の別称もある。月代を剃っていることが多い。
メーカーによっては、以下の追加がある
「内裏雛(だいりびな)」とは雛人形の「男雛」と「女雛」の一対を指します。
※注意:男雛を「お内裏様」、女雛を「お雛様」と呼ぶのは、サトウハチローが作詞した童謡「うれしいひなまつり」の歌詞から広まった誤用です。サトウハチロー氏自身はこの誤りを恥じ後々まで気にしていたという。
配置
三人官女以下のその他大勢の随臣、従者人形を「供揃い」という。
男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多くそれが一般的になっており、結婚式の新郎新婦もそれに倣っている。
日本の文化による変化で地域差もあるがこれは下記の歴史によるもので、関東雛と京雛では男雛と女雛の並ぶ位置は逆となっている。
壇上の内裏雛は内裏の宮中の並び方を人形で模すことがある。かつての日本では「左」が上の位であった。人形では左大臣(雛では髭のある年配の方)が一番の上位で天皇から見ての左側(我々の向かって右)にいる。
ちなみに飾り物の「左近の桜、右近の橘」(さこんのさくら、うこんのたちばな)での桜は天皇の左側になり、これは宮中の紫宸殿の敷地に実際に植えてある樹木の並びでもある。
明治天皇の時代までは左が高位というそのような伝統があったため天皇である帝は左に立った。しかし明治の文明開化によって日本も西洋化し、その後に最初の即位式を挙げた大正天皇は西洋式に倣い右に立った。それ以降からはそれが皇室の伝統になり、近代になってからは昭和天皇は何時も右に立ち香淳皇后が左に並んだ。それにならい、多くの地域では男雛を右(向かって左)に配置する。畿内や西日本では配置が異なる場合がある。
社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、男雛を向かって左に置くのを「現代式」、右に置くのを「古式」としており、現在でも古式で行い男雛を向かって右に置く家庭もある。
飾り方
飾り方にも全国各地で色々あるが、多くはこの三種の飾り方である。しかし、特に飾り方に決まりごとはない。
- 御殿を模しての全部の飾り方(段飾りなどを含む)
- 御殿の内の一室を拝しての飾り方
- 屏風を用いて御座所の有り様を拝しての飾り方
さらにはお囃子に使う楽器や、家財道具と牛車などの道具を一緒に飾ることもある。
上段の写真にあるような五段、七段(七段飾りは高度経済成長期以降、八段飾りはバブル期以降)の檀飾りが多かったが、最近では部屋の大きさに合わせたり、雛人形を出し入れしやすいように段数を減らしたものが主流となっている。
戦前までの上方・京都や関西の一部では天皇の御所を模した御殿式の屋形の中に男雛・女雛を飾り、その前の階段や庭に三人官女や五人囃子らを並べ、横に鏡台や茶道具、重箱などの精巧なミニチュアなどを飾っていた。
祭りの日が終わった後も雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという話は昭和初期に作られた俗説ともされ、旧暦の場合、梅雨が間近であるため、早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生えるから、というのが理由だとされている。
また、地域によっては「おひな様は春の飾りもの。季節の節できちんと片付ける、などのけじめを持たずにだらしなくしていると嫁の貰い手も現れない」という、躾の意味からもいわれている。
この行事に食べられる食品に菱餅、雛あられ、鯛や蛤の料理(吸い物等)、ちらし寿司があり、地方によっては飲み物として白酒、生菓子の引千切がある。
各地で、大量に雛人形飾りを公開したり、特色ある飾りを飾ったり、少年少女、又は成人の男女が雛人形に扮したりする祭り等が、この期間中に開催される。
雛祭りを歌った楽曲
- うれしいひなまつり(童謡、作詞:山野三郎(サトウハチロー)、作曲:河村直則(河村光陽)、
- 1936年(昭和11年)ポリドール)
- ひなまつり(童謡、作詞:海野厚、作曲:三宅延齢)
- おひなまつり(童謡、作詞:斎藤信夫、作曲:海沼実)
- ひなまつり(童謡、作詞:斉木秀男、作曲:三宅延齢)
- ひなまつりの歌(童謡、作詞:与田準一、作曲:河村光陽)
- おひなさま(絵本唱歌、作者不明)
- 雛祭(文部省唱歌、作者不明)
- ひなまつり(文部省唱歌、作詞:林柳波、作曲:平井康三郎)
- 雛祭り(童謡、作詞:林柳波、作曲:本居長世)
- ひなまつり(童謡、作詞:水谷まさる、作曲:小松清)
- 雛祭の宵(ひなのよい、童謡、作詞者不詳、作曲:長谷川良夫)
- 雛の宵(長唄、作詞:松正子(松本白鸚夫人)、作曲:今藤政太郎)
- 雛の宵(清元)
当園では、玄関にも和室にもお雛様だけでなく、
たくさんの『さげもん』が飾ってあります。
柳川に行かなくても、雛祭りの雰囲気を満喫できます。
先日は、子育て教室の『フラワーアレンジメント講習会』がありました。
参加者全員、素晴らしいバレンタインバージョンの生け花が完成!
玄関ホールに飾っています。
弥生三月の雅な春の行事の雰囲気を味わいながら、
各ご家庭で楽しんで雛の節句をお迎えください。
園の「雛祭り」は3月2日、和室でお茶会をいたします。
お菓子と美味しいお抹茶。
うららかな陽気に桃の花も咲きました。
園児のみなさんは、どうぞお楽しみに!
見学ご希望の方は、随時受け付けています。
入園や入会ご希望の方も、ご遠慮なくどうぞ!
先ず電話を!
TEL093-631-3939