かねうりきちじの横浜・喫茶店めぐり

珈琲歴四十年の中の人が、珈琲豆荷揚げ量日本一を誇る横浜港のある町の喫茶店でタンザニア産コーヒーを飲み歩きます

一首坂段丘~長者ヶ原廃寺跡から見える山(4)

2012年02月23日 | 旧ブログ記事(長者ヶ原廃寺跡・衣川関係)
 扇状地。

 地理の時間に習いましたね。

 そうです、川が山地から平地に出た所にできる扇形の地形です。

 川から運ばれる土砂が、山側を頂点にして扇の形に広がってできる地形です。

 長者ヶ原廃寺跡のある衣川は、その扇状地の中でも日本有数の広さを持つ胆沢扇状地の南端にあります。

 その胆沢扇状地

 胆沢扇状地。赤丸が長者ヶ原廃寺跡。

 平らではなく、北から南に向かって徐々に階段状に高くなっていきますここをご覧下さい)

 北から水沢段丘→福原段丘→掘切段丘→横道段丘→上野原段丘と続き、一番南一首坂段丘です。

 長者ヶ原廃寺跡のすぐ北側の丘陵がそれにあたります。

 
森の部分が一首坂段丘。
真ん中を横切っているのは東北自動車道。右の緑の部分が長者ヶ原廃寺跡。


 それにしても一首坂とは優雅な名前ですね。

 それもそのはず、他の段丘名は地名に由来していますが、一首坂は故事に由来しているからです。

 それは、今から約千年前の源氏と、長者ヶ原廃寺跡を建立した安倍氏との戦いの時。

 戦況が悪くなって衣川から撤退しようとした安倍貞任(さだとう)に、八幡太郎源義家が、「待て」と声をかけます。

 続けて、「衣のたてはほころびにけり」と和歌の下の句を投げかけます。

 「衣のたて」とは貞任ら安倍氏の拠点。それと着物の「衣」を掛けたわけです。

 すると貞任は「年をへし絲のみだれのくるしさに」(年月が経ち、縦糸が乱れてしまった)と返したと『古今著聞集』という説話集は伝えます。

 二人が戦ったのは紛れもない事実ですが、こうしたやり取りが実際あったかどうかは分かりません。

 けれども、そうした故事をふまえ、二人が言葉を交わしたのなら、この丘陵にさしかかるところだろうということで胆沢扇状地の一番南の丘陵を一首坂と名付けたのです。

 長者ヶ原廃寺跡にいると、どこを向いても山が目に入ります

 そして、その山にはどれも歴史が刻まれているのです。

本堂跡から一首坂段丘を臨む。
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