かねうりきちじの横浜・喫茶店めぐり

珈琲歴四十年の中の人が、珈琲豆荷揚げ量日本一を誇る横浜港のある町の喫茶店でタンザニア産コーヒーを飲み歩きます

歌に詠まれた衣川

2012年02月28日 | 旧ブログ記事(長者ヶ原廃寺跡・衣川関係)
 昨日の最後の写真。

 雪の降りしきる衣川です。

 今から856年前の10月12日。

 おそらく同じような光景を和歌に詠んだ人物がいます。

 西行です。

 その歌集『山家集』には、

   十月十二日、平泉にまか着きたりけるに、雪降り、嵐激しく、ことの外に荒れたりけり。
    いつしか衣河見まほしくて、まかりむかひて見けり。河の岸に着きて、衣河の城しまはしたる事柄、
    やう変りりてものを見る心地しけり。汀凍りて とりわき冴えければ

 
 とりわきて 心もしみて 冴えぞわたる 
  衣河見にきたる 今日しも

   十月十二日平泉に着いたが、その日に雪は降り、嵐は烈しく、たいへん荒れていた。
    が、早く衣川を見たくて出掛けて行った。そして川の岸に着いて、衣川の城の造られ方は様が変わっていて
    立派なものを見る思いを持った。汀は凍って、取り分け冷えわ  たっていたので。


 長く心にかけていた衣川を見に来た今日という日は、
  とりわけ心も冷えわたり 冴え返っている(訳 井上靖)

とあります。

 西行は二度陸奥国に来ていますが、最初に平泉に来たときに詠まれた歌とされています。

 実は、詞書(ことばかき 和歌のまえがき)にはそれとはっきりとは書かれていませんが、西行は平泉についたものの、真っ先に来たのは衣川の岸辺だったようです。

 「いつしか衣河みまほしくて(=早く衣川を見たくて)」とあるからです。

 そして、「衣河の城」とはおそらく長者ヶ原廃寺跡のこと(その理由は後日記します)

 西行は、“数寄の遁世者”と呼ばれています。

 数寄とは、「風流、風雅の道に深く心をよせること」。

 だからこそ、光輝く中尊寺・金色堂より先に、歌枕の地衣川の岸辺にやって来たのです。

 そして、雪で煙った光景を目にして上の和歌を詠んだのでしょう。

 その光景が素晴らしかったからこそ、白洲正子をして「山家集第一の絶唱」と言わしめた歌が詠まれたのです。


雪の衣川。右手の山が中尊寺。真ん中に見える建物が関山亭


西行の見た衣川もこんな感じだったのでしょう。