昨日の最後の写真。
雪の降りしきる衣川です。
今から856年前の10月12日。
おそらく同じような光景を和歌に詠んだ人物がいます。
西行です。
その歌集『山家集』には、
十月十二日、平泉にまか着きたりけるに、雪降り、嵐激しく、ことの外に荒れたりけり。
いつしか衣河見まほしくて、まかりむかひて見けり。河の岸に着きて、衣河の城しまはしたる事柄、
やう変りりてものを見る心地しけり。汀凍りて とりわき冴えければ
とりわきて 心もしみて 冴えぞわたる
衣河見にきたる 今日しも
十月十二日平泉に着いたが、その日に雪は降り、嵐は烈しく、たいへん荒れていた。
が、早く衣川を見たくて出掛けて行った。そして川の岸に着いて、衣川の城の造られ方は様が変わっていて
立派なものを見る思いを持った。汀は凍って、取り分け冷えわ たっていたので。
長く心にかけていた衣川を見に来た今日という日は、
とりわけ心も冷えわたり 冴え返っている(訳 井上靖)
とあります。
西行は二度陸奥国に来ていますが、最初に平泉に来たときに詠まれた歌とされています。
実は、詞書(ことばかき 和歌のまえがき)にはそれとはっきりとは書かれていませんが、西行は平泉についたものの、真っ先に来たのは衣川の岸辺だったようです。
「いつしか衣河みまほしくて(=早く衣川を見たくて)」とあるからです。
そして、「衣河の城」とはおそらく長者ヶ原廃寺跡のこと(その理由は後日記します)。
西行は、“数寄の遁世者”と呼ばれています。
数寄とは、「風流、風雅の道に深く心をよせること」。
だからこそ、光輝く中尊寺・金色堂より先に、歌枕の地衣川の岸辺にやって来たのです。
そして、雪で煙った光景を目にして上の和歌を詠んだのでしょう。
その光景が素晴らしかったからこそ、白洲正子をして「山家集第一の絶唱」と言わしめた歌が詠まれたのです。

雪の衣川。右手の山が中尊寺。真ん中に見える建物が関山亭。

西行の見た衣川もこんな感じだったのでしょう。
雪の降りしきる衣川です。
今から856年前の10月12日。
おそらく同じような光景を和歌に詠んだ人物がいます。
西行です。
その歌集『山家集』には、
十月十二日、平泉にまか着きたりけるに、雪降り、嵐激しく、ことの外に荒れたりけり。
いつしか衣河見まほしくて、まかりむかひて見けり。河の岸に着きて、衣河の城しまはしたる事柄、
やう変りりてものを見る心地しけり。汀凍りて とりわき冴えければ
とりわきて 心もしみて 冴えぞわたる
衣河見にきたる 今日しも
十月十二日平泉に着いたが、その日に雪は降り、嵐は烈しく、たいへん荒れていた。
が、早く衣川を見たくて出掛けて行った。そして川の岸に着いて、衣川の城の造られ方は様が変わっていて
立派なものを見る思いを持った。汀は凍って、取り分け冷えわ たっていたので。
長く心にかけていた衣川を見に来た今日という日は、
とりわけ心も冷えわたり 冴え返っている(訳 井上靖)
とあります。
西行は二度陸奥国に来ていますが、最初に平泉に来たときに詠まれた歌とされています。
実は、詞書(ことばかき 和歌のまえがき)にはそれとはっきりとは書かれていませんが、西行は平泉についたものの、真っ先に来たのは衣川の岸辺だったようです。
「いつしか衣河みまほしくて(=早く衣川を見たくて)」とあるからです。
そして、「衣河の城」とはおそらく長者ヶ原廃寺跡のこと(その理由は後日記します)。
西行は、“数寄の遁世者”と呼ばれています。
数寄とは、「風流、風雅の道に深く心をよせること」。
だからこそ、光輝く中尊寺・金色堂より先に、歌枕の地衣川の岸辺にやって来たのです。
そして、雪で煙った光景を目にして上の和歌を詠んだのでしょう。
その光景が素晴らしかったからこそ、白洲正子をして「山家集第一の絶唱」と言わしめた歌が詠まれたのです。

雪の衣川。右手の山が中尊寺。真ん中に見える建物が関山亭。

西行の見た衣川もこんな感じだったのでしょう。