かねうりきちじの横浜・喫茶店めぐり

珈琲歴四十年の中の人が、珈琲豆荷揚げ量日本一を誇る横浜港のある町の喫茶店でタンザニア産コーヒーを飲み歩きます

芭蕉も見ている衣川

2012年02月29日 | 旧ブログ記事(長者ヶ原廃寺跡・衣川関係)
 24日に松尾芭蕉が平泉に来ていることを紹介しました。

 芭蕉が平泉にやって来たのは元禄2年(1689)の5月13日で、中尊寺の北側、長者ヶ原廃寺跡のすぐそばまで足を運んでいます。

 どうしてそれが分かるのかというと、芭蕉が『奥の細道』で「衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入」と記しているからです。

 ただ、これだけだと知識として知っていれば見なくても書けることです。

 けれども、芭蕉に同行した弟子河合曾良が日記を残していて、やはり二人は実際に衣川を、「ころもかわ」も「ころもがわ」も目にしていることが確認できます(『曾良随行日記』といいます)。

 日記にはこうあります(原文のまま)。

  十三日、天気明。巳ノ尅ヨリ平泉ヘ趣。一リ、山ノ目。壱リ半、
  平泉ヘ以上弐里半ト云ドモ弐リニ近シ(伊沢八幡壱リ余リ奥也)。
  高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・(別当案内)光堂(金色寺)・泉城
  さくら川・さくら山(束稲山)・秀平やしき等ヲ見ル。
  泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見ヘズ。タツコクガ岩ヤヘ不行。
  三十町有由。月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留主ニテ不開。
  金鶏山見ル。シミン堂、无量劫院跡見、申ノ上尅帰ル。
  主、水風呂敷ヲシテ待、宿ス。


 それによると、芭蕉と曾良は、宿泊地の一関を10時頃平泉に向けて出発し、中尊寺を見学した後、「泉城」まで来たようです。

 泉城とは、源義経を「大将軍」として平泉を守るようにとの藤原秀衡の遺言を忠実に守った、その息男忠衡の居城があった場所。

 昨日の写真はその対岸から撮影したものです。

 したがって、ころもかわもころもがわも、どちらも目にしているはずなのです。

 それにしても、衣川って文人たちのあこがれの地なんですね。

 
上の日記にも名前が見える月山から見た風景。
左の写真の右の矢印の下あたりが泉城。左の下には昨日も紹介した中尊寺・関山亭。
右写真も同じ場所から。木立にほとんど隠れてますが矢印の下が長者ヶ原廃寺跡。

コメント
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