先日、仁和寺に行った時に記しましたが、仁和寺のお坊さんのお話。
何事にも先達=案内する人がいた方がよい、という趣旨のお話しですが、それを仁和寺近くの龍安寺(りょうあんじ)で実感しました。
朝、仁和寺をお参りしてから学会に行ったのですが、お昼休みが2時間半もあり、さすがに時間をもてあましそうだったので、近くのお寺ということで龍安寺に行きました。
龍安寺といえば、
石庭ということはさすがのkaneurikichiji も知ってはいます。
いただいたパンフレットには、
『石庭の意味は謎に包まれており、見る人の自由な解釈に委ねられています。』
とあります。
と言われても・・・。
とにかく、感じるままに見ようかと思ったその時です、近くにいた観光タクシーの運転手さんの声が聞こえてきたのは。
「この石庭には15個の石が配されてますが、全部の石をいっぺんに見られる場所はありません。」
試してみましたが、なるほどその通りです。
そこで、kaneurikichiji は思いました。
「立ち位置を変えなければ、全体像というものは見えないのだな」と。
禅って奥が深いものだ、そして本当に「先達はあらまほしきことなり」と感じた瞬間でした。
何事にも先達=案内する人がいた方がよい、という趣旨のお話しですが、それを仁和寺近くの龍安寺(りょうあんじ)で実感しました。
朝、仁和寺をお参りしてから学会に行ったのですが、お昼休みが2時間半もあり、さすがに時間をもてあましそうだったので、近くのお寺ということで龍安寺に行きました。
龍安寺といえば、
石庭ということはさすがのkaneurikichiji も知ってはいます。
いただいたパンフレットには、
『石庭の意味は謎に包まれており、見る人の自由な解釈に委ねられています。』
とあります。
と言われても・・・。
とにかく、感じるままに見ようかと思ったその時です、近くにいた観光タクシーの運転手さんの声が聞こえてきたのは。
「この石庭には15個の石が配されてますが、全部の石をいっぺんに見られる場所はありません。」
試してみましたが、なるほどその通りです。
そこで、kaneurikichiji は思いました。
「立ち位置を変えなければ、全体像というものは見えないのだな」と。
禅って奥が深いものだ、そして本当に「先達はあらまほしきことなり」と感じた瞬間でした。