かねうりきちじの横浜・喫茶店めぐり

珈琲歴四十年の中の人が、珈琲豆荷揚げ量日本一を誇る横浜港のある町の喫茶店でタンザニア産コーヒーを飲み歩きます

あんこ!あんこ!あんこ!

2012年08月26日 | 旧ブログ記事(岩手・盛岡関係)
kaneurikichiji が住む盛岡には、お団子屋さんが結構あります。

テレビでも特集が組まれるぐらいです(←おおげさ(笑))。

当然よ市でも、お団子屋さんをみかけます。

ただなぜか、今までよ市でお団子を買ったことはありませんでした。

が、先日はじめて購入。

それは、「あんこたっぷり」の文字が目に飛び込んできたから。

あんこ好きとしては避けて通れません。

そんな盛岡市民は多いらしく、夏は暑さを避けてよ市への出勤(笑)を遅らせているkaneurikichiji は、いつも買えずじまい。

けれど、昨日、やっと念願のおだんごを買えました!

 2本で210円。

 ふつうの2.5倍くらいありそう

包装をよく見たら、kaneurikichiji の家の近所でした。

お店の名前は、“手造り団子畠山”。

場所はここですので、お近くをお通りの際はぜひお試しを!

川西大念仏剣舞を見ました

2012年08月24日 | 旧ブログ記事(長者ヶ原廃寺跡・衣川関係)
今日は午後、お休みをいただいて平泉へ出かけました。

話せば長くなるので省略しますが、kaneurikichiji の元同僚Aさんの知り合い、Bさんとそのお連れの方々を案内するために。

待ち合わせ時間より少し早くついたので、中尊寺の境内をうろうろしていたら聞いたことがある声が・・・・。


黄色い矢印の人が声の主。剣舞の説明をしています。

その声の方を見ると、『川西大念仏剣舞』と染め抜かれた旗が目に。

川西大念仏剣舞は、長者ヶ原廃寺跡がある衣川で伝承されている民俗芸能で、国の無形民俗文化財に指定されています。

気付いてなかったのですが、今日は、中尊寺では大施餓鬼会が行われる日。

施餓鬼会は、さまざまな精霊 (しょうれい) を供養する仏教行事。

毎年この日、中尊寺で川西大念仏剣舞が奉納されます。

それは川西大念仏剣舞の起こりに理由が。

剣舞の起こりは、こうです。

今から900年前、前九年合戦・後三年合戦など大きな戦いがあった後の平泉では、成仏できなかった霊が夜な夜な現れ、人々を悩ましていました。

そこで、中尊寺を開いた藤原清衡はお堂に籠もり、仏様に霊が成仏できるようお願いしたところ、一匹の猿が現れます。

猿は踊りを踊りながら、霊を一人ひとり成仏させていきます。

その時の猿の踊りを真似たのが、川西台念仏剣舞といわれています。


赤い衣装を着た子が猿役、他の子が霊役です。たぶん、4・5年生でしょう。

霊を成仏させる踊り。

だから施餓鬼会で奉納されるのです。

ここ数年は大人のなり手不足しているため、長者ヶ原廃寺跡近くの衣里小学校の児童の皆さんが奉納しています。

衣里小学校の児童の皆さんは、4年生になるとクラブ活動として、川西大念仏剣舞を練習しているのです。

4年生はあまり踊りたがらないようですが、6年生にもなれば練習を積んで上手く踊れるようになるそうです。


これは上の写真とは別のグループの踊り。たぶん6年生。上手でした。

そうすると、剣舞が好きになるようです。

長者ヶ原廃寺跡はそんな素敵な子どもたちのいるところにある遺跡。

未来の長者ヶ原廃寺跡を守ってくれるのは、彼・彼女たちなのです。


慧日寺跡に行って来ました④

2012年08月23日 | 旧ブログ記事(文化財関係)
慧日寺跡では、創建当時のものはほぼ残されていません。

近い時期のものならば、慧日寺を開基した徳一(とくいつ)の墓と伝えられる平安時代の石塔があります。

 
左の覆堂の中に石塔が安置されています。

徳一はもともとは奈良で修行を積んだようでしたが、何か理由があって、常陸国(今の茨城県)を経て、会津にやって来たようです。

ここで多くの寺を建立したらしく、茨城や会津には徳一が建立したとする伝承を持つ寺が多くあります。

この徳一、仏教に興味がある方以外には、ほとんど無名といってもいいでしょう。

でもですね、徳一は結構すごいお坊さんなのです。

かなり学識のあったようで、当時の日本仏教の最先端を走っていたといっても過言ではない、日本天台宗の祖・最澄と論争をしているからです。

最澄はさまざまな書物を表して徳一の主張に反論を加えています。

徳一の主張が取るに足らないものであれば無視すればよかったわけで、そうしなかったということは、徳一の主張が(正しい正しくないは措いて)高レベルだったことを物語っているといえないでしょうか。

だからこそ、真言宗の開祖・空海も、自ら手紙の中で徳一を「徳一菩薩」と称しているのです。

無名だけれど、ちょっとすごいお坊さん。

それが慧日寺を開いた徳一なのです。


慧日寺跡に行って来ました③

2012年08月22日 | 旧ブログ記事(文化財関係)
続いて復元金堂。



慧日寺の中心となる建物です。

復元中門から見るとこんな感じ

復元金堂は、まず正面に柱が6本、側面に同じく3本、すなわち正面5間、側面2間の空間があり(この部分を身舎(もや)といいます)、その四方に1間ずつ空間を付け足されています(この部分を庇(ひさし)といいます)。
 ※今では庇といえば、窓の上に突き出た部分をいいますが、古代~中世では身舎のまわりに付け足された空間のことを指します。

したがって、外観は正面7間(柱が8本)、側面4間(柱が5本)となります。

身舎の大部分には下の写真のような須弥壇(しゅみだん)が置かれ、その上に本尊が安置されていました。



本尊は今となっては不明ですが、近くには慧日寺と同じ僧が建立した勝常寺(しょうじょうじ)があり、そこには国宝に指定されている薬師如来坐像が安置されています。

ですので、ここの本尊も薬師如来だった可能性が高いといえます。

ところで、本尊のまわりは、1間(ま)分しかありません。

 人がいられるのは青矢印の部分だけ。

この建物だけで仏教儀式を行うには、少し狭いです。

前回、金堂と中門の間には石が敷き詰められていて、ここが儀式の空間であることを明示したものと紹介しました。

外で儀式を行うのは不自然に思われるかもしれませんが、金堂は本尊を安置するのに手一杯で、人間が入り込む余地はほとんどなかったためです。

今のお寺のように、本尊の前に空間を設ければよいと思われるかもしれませんが、このころのお堂は下の写真のように、柱と屋根が一体だったので、奥行きを持たせることができませんでした。


左右方向に見えるのは梁でその上にすぐ屋根となっているのが分かるかと思います。

深い奥行きができるようになったのは、ずっと後。

柱と屋根との間に野小屋(のごや)という部分ができ、両者が分離されてから。

そうした奥行きが深い建物ができるようになったのは、本尊が安置される内陣(ないじん)と、それを礼拝する礼堂(らいどう)とに分離されるようになった平安時代の末頃。

そうした仏堂を専門用語で中世仏堂(ちゅうせいぶつどう)といいますが、その現存最古のものは、永暦2年(1161)に再建された当麻寺曼陀羅堂(奈良県葛城市 国宝)です。


当麻寺曼陀羅堂。見づらいかもしれません正面7間、側面6間で奥行きが広い構造となっています。

実は長者ヶ原廃寺跡の本堂跡も間口と奥行きとが等しく、柱配置も中世本堂である西明寺・本堂の前身堂と全く同じ。

というわけで、実は長者ヶ原廃寺跡の本堂跡は最古の中世仏堂の可能性が高い貴重な建物跡なのです。

中世本堂を可能とした野小屋。

建築技術のみが発達して生みだされたわけではありません。

本尊と近い位置で、同じ建物内で儀式を行いたいという欲求が、新たな技術を生みだしたのです。

つまり、信仰の変化が技術の変化を促したのです。

それは、今の世でも変わりはないと思います。

気持ちの持ち方ひとつで、技術革新が生みだされるのです。

閑話休題。

建物を復元することは、賛否両論あると思います。

kaneurikichiji も全面的に賛成してはいません。

けれども、どのような建物がそこにあったのか、十分に吟味され、憶測による復元をしていない、慧日寺跡・復元金堂のような復元ならば、その効果は非常に高いと考えています。

専門家でなくても、ぜひ一度ご覧になっていただきたいと思います。

1200年前の東北の仏教に触れることができるのはここだけですから。


慧日寺跡に行って来ました②

2012年08月21日 | 旧ブログ記事(文化財関係)
磐梯山のふもとにある慧日寺。

今でも法灯は続いておりますが、もちろん創建当時の建物は失われてしまっています。

ただ、どんな建物があったのか、発掘調査によって明らかになりつつあります。

特に、中心建物群は詳細に調査が行われており、往時の建物が2棟復元されています。

 遺跡入り口より

そのひとつが中門(ちゅうもん)



奈良時代の大寺では、伽藍の中心建物である金堂の前に建てられ、この2つの建物の周りには回廊がロの字にめぐり両者を結んでいます。

この回廊で囲まれた空間で儀式が行われるわけです。

慧日寺跡では回廊は検出されていなかったようですが、かわりに中門と金堂との間には石が敷き詰められ、回廊に囲まれた空間を明示していたのでしょう。


背面(金堂前)から見た中門。背後に石が敷き詰められているのが分かります。

石敷を施せば儀式が行われる位置は明示できますが、回廊がなかったため、これでは結界としては不十分です。

それを補う意味で中門を作ったのではないでしょうか?

中門は、正面に柱が4本、側面には3本(桁行3間・梁間2間)、立てられていたことが発掘調査で確認されています。

 

そうした場合、八脚門か楼門だと想定されますが、中世の「慧日寺絵図」から八脚門と判断されたようです(建物は建て替えられても、建て替え以前の建物形式を踏襲することが多いのです)

八脚門は、前面に柱が4本、背面にも4本柱があるので、足して8本の脚があることから付けられた名前。

ちなみに、長者ヶ原廃寺跡の南門も桁行3間、梁間2間と、慧日寺跡の中門と同じ柱配置ですが・・・・・、

 

この部分に柱がないので、違った形式の門(←あまり類例がない)となります。

慧日寺跡の復元中門を見ながら、長者ヶ原廃寺跡の南門はどんな姿だったのか、しばし考えをめぐらせました・・・・・・

が、あまりに暑くてどんな姿だったのか、思い浮かびませんでした。

修行不足です。