石井好子『いつも夢をみていた』を読む。先日、ブックファースト
に立ち寄った折に、縦積みとなっていたものを手に取り、興味を覚
えたものだ。
本書は、最後に「1988(昭和63)年2月に婦人画報社より刊行され
た『いつも夢をみていた』を文庫化したものです。聞き書き 田中
はるみ」とある。
聞き書きということもあってか、離婚や再婚のことなど、かなりオ
ープンに語っている(当時65歳)。
石井さんは、大正11(1922)年8月、石井光次郎(1889-1981)の
次女として東京に生まれる。
本書によれば、学歴は入新井第三小学校~大井第一小学校~府立第
六高女(4年で卒業)~東京音楽学校声楽科(昭和14年入学~昭和
17年9月繰り上げ卒業)である。
東京音楽学校昭和14年入学といえば、畑中良輔先生の一年先輩にあ
たる。
このときの(東京音楽学校)入学者が、声楽科男性4人、女性
12人、ピアノ、弦楽、器楽を入れても60人足らずでした。こ
のあいだ亡くなった指揮者の森正(1921-1987)さん、その
他ソプラノの笹田和子(1921-2007)さん、民族音楽をやっ
ている内田るり子(1920-1992)さんなどが同期です。
(本書p25)
静かな街並みのなかで名前は忘れちゃったけど可愛いのれんの
下がったお汁粉屋さんがあって、そこが私たちのたまり場だっ
たのです。年頃の女の子の喜びそうな、お汁粉、あんみつ、ト
コロ天、くず餅などを出してましたが、私たちのお目当ては、
甘味よりも、そこへやってくるちょっと素敵な美校の生徒たち
でした。(p26)
この話は、畑中先生の『日本歌曲をめぐる人々』(音楽之友社)に
も登場する。それによれば、その「あんみつ屋」は谷中の入口にあ
る「にしだ」というお店である。
「にしだ」で石井好子嬢と中河與一『天の夕顔』について論争して
いたら、教務課から叱られ、畑中先生は代表で始末書を書いたとい
う。「男女七歳にして席を同じゅうにせず」?
私の歌の先生のウーハーペニヒも、奥さんがユダヤ人なので日
本へ逃れて来た一人でした。考えてみると日本の音楽会が向上
したのは、ドイツのユダヤ人排斥のおかげを間接的にこうむっ
ていることになります。戦争のもたらした思わざる恩恵という
か、今、ドイツ歌曲で一流の大家や教授といわれる人の大半が
このウーハーペニヒ先生の生徒ですから。(p27)
木下保先生が師事されたネトケ=レーベや畑中先生ほかが師事され
たウーハーペニヒについては、藝大に資料を調べに行きたいと思っ
ていたが、今年、令和2(2020)年になってWikipedia化された。
まこと喜ばしい!
先月、7月には、東京藝術大学音楽学部大学史史料室HPに「音楽取
調掛と東京音楽学校の外国人教師たち」として、紹介されている
(→こちら)。こちらもすばらしい。
砂原美智子(1923-1987)が、今から二年ばかり前にしみじみ
言ったことがあります。
「好子ちゃんはいいわね。マイク使って音下げていかれるから」
って。
「私はマイク使えないし、音も下げられないからやめていくよ
り他ないのよ」
たしかにソプラノとかテノールはきついですよ。オペラ歌手は
50歳ぐらいになると、声帯が衰えて声につやがなくなって駄目
になると言われているんです。(p155)
石井さんと砂原さんは府立第六の同期生でもあった。
以前書いたが、府立第六は母の母校でもあり、石井さん、砂原さん
の同期の一人だった。砂原さんは母のクラスメートだったようだ。
私はね宗教家じゃないから「こうです」と言うことはできない
けれど、輪廻というもの何となく信じているの。(中略)
私が音楽事務所を閉める頃、悩みに悩んでいたとき、ある宗教
家がね、
「あなたは今、電車にたとえたら終電車だ」
って。
「車庫に入るより他ない」ってわけ。でもいったん車庫に入っ
た終電車は翌日、始発電車として出てくるでしょう。
「あなたの人生はまたそこからはじまりますよ」
って、言ってくれた言葉を思い出すのね。(p191)
リンネは「生物」で習ったが、輪廻[転生]は難しいかな?
石井好子『いつも夢をみていた』(河出文庫、2020/8/20初版)
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