まず、『歎異抄(たんにしょう)』とは、なんぞや?という話だが、
浄土真宗開祖の親鸞(しんらん)の口述を記したものとされている。
これを記した者は諸説あるが、今はそれを問題としない。
今年の初めから、学習を始めたのですが身辺が忙しくなってきたので滞っていました。
で、最近ペースが掴めてきましたので学習を再開しました。
今回取り上げたいのは、「無礙(むげ)」という言葉。
意味は、「なにものにも捉われないこと・妨げのないこと」
段取りを踏んで話をしますと、歎異抄では「宿業」、「業縁」の結果にとらわれことなく、
全てを受け入れて、悠々としてひたすら本願をたのむ、それが他力に生きるということ。
↓
『歎異抄』には、「念仏者は無礙の一道なり。・・・罪悪も業報も感ずることにあたはず」とある。
本願念仏は、いかなるものにも妨げられることのない生き方を保障する。本願を信じることによって、
その報いが、良かろうが、悪かろうが、心を悩ませることがなくなる、ということである。
これが、「無礙の生き方」である。
↓
本願念仏者特有
↓
○まとめ「幸運」であろうが、「不幸」であろうが、ありのままを受け止めるという立脚地。
他の宗教にまま見られる根拠の無い「幸福製造機」とは根本的に立場が違うのである。
『歎異抄・第十三章』は、究極的に「宿業」、「業報」の事実を
知るということがいかに大切か説いている。
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浄土真宗開祖の親鸞(しんらん)の口述を記したものとされている。
これを記した者は諸説あるが、今はそれを問題としない。
今年の初めから、学習を始めたのですが身辺が忙しくなってきたので滞っていました。
で、最近ペースが掴めてきましたので学習を再開しました。
今回取り上げたいのは、「無礙(むげ)」という言葉。
意味は、「なにものにも捉われないこと・妨げのないこと」
段取りを踏んで話をしますと、歎異抄では「宿業」、「業縁」の結果にとらわれことなく、
全てを受け入れて、悠々としてひたすら本願をたのむ、それが他力に生きるということ。
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『歎異抄』には、「念仏者は無礙の一道なり。・・・罪悪も業報も感ずることにあたはず」とある。
本願念仏は、いかなるものにも妨げられることのない生き方を保障する。本願を信じることによって、
その報いが、良かろうが、悪かろうが、心を悩ませることがなくなる、ということである。
これが、「無礙の生き方」である。
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本願念仏者特有
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○まとめ「幸運」であろうが、「不幸」であろうが、ありのままを受け止めるという立脚地。
他の宗教にまま見られる根拠の無い「幸福製造機」とは根本的に立場が違うのである。
『歎異抄・第十三章』は、究極的に「宿業」、「業報」の事実を
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