暮れの関西冬の旅、二日目土曜日は、この3月、ダイヤモンドトレールを終えた翌日、夕方の飛行機までの時間に「行ってこれるだろう」と安易な予測のもとに歩いて、時間切れのため三分の一ほどで追い返された九度山から高野山までの町石道「ちょういしみち」を歩いてきた。
一町109㍍ごとに石の卒塔婆が道端に立ち、その数180、21キロにわたって聖域に誘うというお大師さまが開いたいにしえの山道(参道)。
慈尊院からの初めと大門に登る終盤を除いて、概して急なアップダウンもなく、慈愛に満ちた柔らかな小道であった。一日中、傘を差して、トレールシューズはグチュグチュに濡れまくったが、苦にならなかった。
慈尊院から歩くこと6時間半、霧の中から突然に目の前に大門が現れた時の感銘はいいようのないもの。
大門をくぐって、お大師さまの眠るニキロ先の奥の院に向かう。
最後の町石
奥の院入口の一の橋から先は、日
本のどこにもない風景。「今も生き続ける杉の古木に抱かれて眠る何十万という魂の累々とした石の碑」。
まさに異なる聖域で、御廟にたどり着いて、改めてお大師さまこと空海さんの底知れぬ力に、唖然とし、祈ることもたじろいで、脱力したまま金剛峰寺、霊宝館もそこそこに拝観し大門までもどり、近くの臨時バス停より橋本に下った。
大門から奥の院、一の宗派が広大な町をつくり、数々の寺を集め、死者の魂を集め、亡き人の思い出と供養のため数知れぬ生者を全国から引き寄せ、彼岸と此岸を混在させて千数百年も生き続ける高野山。
この聖地を、再び訪れることがあらば、また石道を辿り、大門より入るのだろう。高野山は、そういう風に作られている。老いぼれて足が弱っても、お大師さまが、導いてくれるのだろう。
登れなくなった頃、ようやく彼岸に導かれるというもの。町石道は、そのような道だった。
帰りのバスで、あるご婦人から、余ったからといって南海電鉄株主優待キップをただでいただいた。「得をした」とほくそ笑んだ。未だ此岸にある俗人なのである。