日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

住む所は選べない

2011年10月28日 | インポート
東北地方の津波被害に遭遇した人たちも、現在タイの国内の広い範囲で進行している洪水被害に遭遇している人たちも、一般的には住むところを選べない人々が多いと思われる。

その地域に先祖から受け継いだ土地や住居があり、またそこからの通勤圏内に収入源となる職場があるなどの理由により、その地域に住む事を余儀なくされている人がほとんどだろう。

日本からタイの国内に進出した企業も、まさか工場が洪水被害に遭って生産がストップし、他国への進出工場の生産にも重大な影響があるとは想像もしなかったことだろう。

人件費が安く作業員の確保が容易であり、海外マーケットの拡充に繋がるというような理由で、他国の同業他社との競争を勝ち抜くために推進してきた事ではあろうが、現状においては裏目に出ている。

タイ国内では今後疫病の発生が必ずあるだろう。

まず飲料水の確保が難しいだろうし、汚れた水の中に長時間浸かって生活を続けるのであるから、皮膚病が発生することは避けられないだろう。

さらにコレラなどの発生、蚊やハエなどの大量発生によりそれらを介した病気の発生などが想像される。

また、国内の農業をはじめとする各種産業に及ぼす影響は膨大なものであることが想像できる。

タイ国にとっては国家的な危機となるだろう。

ある宗教の布教活動をしている人が、聖書に記述されている内容によれば天地を創造された神の意志により、再生できる者たちを選別するために大地震や大津波、更に大洪水などの大災害が起きる時期に既に入っているとのこと。

様々な宗教において、末法思想の類はその宗教に勧誘するための定番ではあるが、現実におこっている事柄を見ると、案外そうなのかもしれないなとも思ってしまう。

日本における大津波災害後の原子力発電関係の企業の姿勢や政府やマスコミの対応にはあきれてしまうしかない。

いまだに、現在の人類では制御が不可能な原子力発電所の再稼動や推進を主張し、実行しようとしている。

彼らは反省して事を改めるという思考力をほとんど持ち合わせてはいないようだ。

夏場の一時期、原子力発電所の稼動が無ければ日本国の電力供給に大きな支障を来たすなどという風呂敷を広げてはみたが、現実にはそのようなことは無かった。

なぜか?

理由は簡単である。

原子力発電所の多くが定期点検などによって停止状態であっても、日本国の電力の供給には支障がなく、電力の供給をストップする事により収入が減少することよりも、既存の発電方法により電力を供給した方が電力会社の利益に繋がるとの判断からであったろうと私は考えている。

原子力発電がなければ計画停電もやむなしとのキャンペーンを、マスコミを使って展開しようとしたが、ほとんど実行されなかったことからも明らかである。

壊れている福島の原子力発電所を、冷温停止状態に今年中をめどに持っていく予定だという。

本当にそのように出来るのだろうか。部外者が誰も中に入って検証している訳ではないので事実は分からない。

壊れた原発の廃炉には30年を要するとマスコミが報じていたが、これとて全面的に信用は出来ない。

廃炉に際しては海外からの技術を仰ぐとのこと。

技術立国としてのプライドはないのだろうか。

私たち庶民は住む所を選べない。

制御不能な原子力発電所からの放射能によって、住まいはあるのに自宅で生活できない人たちが大勢おられる。

明らかに国策による被害者であり、国家と東電は責任を持ってそれらの人々に対して保障をすべきであり、地域の除染を含めた復活に全面的に責任を持つべきである。

話を自分の住んでいる雲仙市で考えてみる。

国策による中央集権化の一環として推し進められてきた平成の大合併のなかで、強引になされた合併によって雲仙市は誕生した。

合併前に膨大な協議をし、合併後の約束事を取り決めての合併であった。

そして合併後の6年間、奥村市長は合併前に協議されて取り決めたことは、それに沿うような方向で進めて行きたいと述べ続けてきた。

住民の代表である雲仙市議会議員の一般質問に対する答弁でも、ひたすらそのように述べておられた。

雲仙市の愛野町に新庁舎を建設するかどうかに関しての答えである。

雲仙市の条例に「本庁舎の所在地は愛野町であるが、暫定的に吾妻町に置き、愛野町に新庁舎を建設する事を合併の理念とする」と要約すればそのように書かれている。

ところが2期目の市長選挙が無投票当選になってからしばらくして、長期政権に対する確信を持ったのかどうかは分からないが、吾妻町舎と千々石町舎を本庁舎として増築し、愛野町に新庁舎を新築する事を断念する旨の発言を議会でしている。

総務省の基準によれば、一般職員一人当たりに必要な基礎面積は4.5平方メートルとなっているのに、雲仙市の庁舎建設における職員一人当たりの必要面積は40平方メートルというとてつもない床面積を提示していた。

40平方メートルといえば、畳にして24枚分の広さである。12坪の床面積が職員一人に対して必要なわけがない。

それをもとに庁舎建設に要する金額をはじき出して住民の代表である人達に新庁舎建設の是非を協議させ、新庁舎は多くのお金が必要であるから造らず、既存の庁舎を増築して活用したほうが良いという答申を出させている。

それを盾に、5億円をかけて吾妻町舎と千々石町舎を増築して本庁舎とするという。

愛野町舎はいずれ数人しか職員がいない小さな小さな役所になっていくことは想像に難くない。

愛野町は雲仙市の交通の要衝であり、ほぼ中心位置にある地理的な条件を無視してのおろかな決断である。

所詮は、ど田舎の貧乏自治体同士の合併のなれの果てだと思うしかないが、正当な積算をすれば10億円程度で建設できる本庁舎すら建設できないような自治体に、将来の展望など望むべくもない。

新庁舎建設のための5億円の基金の積み立てがが既にあり、雲仙市職員に支払われる年間の人件費が25億円だそうだから、その職員の人件費を1割減らして積み立てれば1年間で2億5千万円が捻出でき、それを2年間続ければ5億円が捻出できて、それらを合計すれば10億円は確保できる。

住民サービスや他の事業への影響は皆無で10億円の新庁舎は建設できるのに、最初から造ろうという発想がないから何も出来ない。

無能、無策の典型で、そのような雲仙市には何も期待しようとは思わないが、土地も墓も家も雲仙市にあるので、ここで生活をするしかない。

私のような庶民は、住む所は選べない。